1.2

 二人は息を切らせてベンチに座り込んでいた。まだ春も初めだから涼やかな風が汗を冷やして気持ちが良かった。

「はあっ、駄目だな、ここまで体力が落ちてるとか洒落ならんぞ」

「はあっ、芸術家に、はあっ、体力など、いらんだろうっ」

「セッションやるのに、はあっ、どんだけ体力いると思ってんだ。音楽なんて、体力勝負みたいなとこあるんだぞ」

 どうして男二人でこんなことしてんだ、という言葉を飲み込む。愚痴をこぼす以上に、久しぶりに走ったのが気持ちが良かったからだ。体力が落ちていたのもHALをデビューさせるためにずっとこもりきりで作業をしていたからだ。セッションなんて、楽曲打ち合わせのときくらいしかやっていない。彼の楽器の腕はそこそこ止まりだ。実際の伴奏はもっと上手い奴がやる。そうでなくても機械がやる。

「本当に、出ていくのか」

 硬い声でジェイドが言った。雄呉はジェイドを見た。ジェイドは青空に視線を向けたまま、独り言のように呟いた。

「出ていってどうする。何かしたいことでもあるのか。それとも君は、私たちに愛想を尽かしたのか」

 雄呉は驚いた。むしろ彼が、他の仲間に愛想を尽かされているんじゃないかと思っていたからだ。

「俺の仕事はもうないよ」

 ジェイドの求めている答えではないとわかっていて、しかし半ば本音を込めて雄呉はそう答えた。

「HALはまだデビューしたばかりだ。忙しくなるのはむしろこれからだ」

 ジェイドの目はいつも未来をまっすぐに見つめている。雄呉にはそれが羨ましい。

「世界を席巻しようとしてるのにか」

「まだその程度だ。ベートーベンやビートルズは歴史にすら残った。HALもまたその列に加わる」

 天才は考えているスケールそのものが違う。本気で歴史に名を残すと信じて疑っていない。ジェイドは確信を持って言う。

「私達の娘は今躓く訳にはいかない。そうなれば過去に淘汰されてきたhIEと同じように数年でいずれ忘れ去られる。今、君にいなくなられると、社会不適合者の寄り合い所帯のこのプロジェクトは立ち行かなくなるかもしれない」

「佐奈は、優秀だよ。彼女ならやり遂げる」

「彼女は聡明過ぎる。アレは本来官僚や軍隊といった縦割り機構の世界で能力を発揮するタイプだ。聡明故に私達との才能の開きを如実に感じ取ってしまうから、私たちに対して無意識のうちに一歩引いてしまっている。彼女だけではいずれ私達を制御できなくなる」

 ジェイドは雄呉と同い年で、プロジェクトの最年長だ。社会不適合者でも、経験から彼の予測を語っていた。

「そもそもHALは私達の娘だが、何より君の娘だ。その君が娘を捨ててしまったら、アレには何が残るんだ」

「俺は、彼女の『声』を選んだだけだ。その他にはほとんど何もやっていない」

 雄呉はHALの音楽担当でさえ無い。彼よりも十歳以上若い男が主導してHALの音楽を手がけていた。雄呉はあまり彼と仲良くはなかった。雄呉からすれば年下の才能は眩しすぎたし、彼からすれば大した才能もない男がコネでプロジェクトに参加しているようにしか見えなかっただろう。分野が近すぎて他のメンバーのように適切な距離感を保つのも難しかった。

「その『声』が最も大切だったのだと何度も……、まあいい。それならせめてサナのことは気にかけてやれ。アレは天才だが破綻さえできない苦労人だ」

 そう言ってジェイドはベンチを立った。一度歩きだすと振り返りもしないのが彼だ。前進しか許されないと言っているようだ。

 雄呉は長い息を吐きながら天を仰いだ。自分が佐奈の誘いを蹴った『何か』が本当にあやふやなものに思えた。これ以上仲間に失望されたくないから逃げ出そうとしているんじゃないかと自分を疑う。

 だが、同時に自分が圧倒的に力不足なのも事実だった。雄呉がHALに関わっている間、最高の仕事をしていたと胸を張って言えるのは、周りの超一流の人間に支えてもらっていたからだ。もし、この環境に居続ければ自分の実力を見誤って、周りに依存して自分が腐っていきそうで怖かった。

 雄呉は感傷を振り切って立ち上がる。もう決めたことだった。これ以上ここにいれば決断が鈍りそうだった。

 門へ向かって歩き出す。雄呉にはこれが新たなる門出なのか、ただの逃避なのか分からない。それでも前進しているのだと信じることしかできない。

「ふざけないで!」

 そんな彼の秘めた決断を、大声が引き裂いた。

 声のした方を見る。会社の正面の門で誰かが言い争っていた。普通、門の守衛にはhIEを置く。作業自体は単純なのに、門を人の形をした何かが見守っていたほうが安心するからだ。

 ただ、このカーペント社は芸能を取り扱っているという性質上、しばしば会社の前でこういう揉め事が起きる。スキャンダルが欲しいマスコミや、子供のオーディションの結果に納得がいかない母親などだ。

 そうした人間を相手にhIEを対応に出すと必ず侮られるから、揉め事対応専門の人間がこの会社では雇われていた。

 何度か見かけたことのあるその人間が、彼より背の低い影の対応に追われていた。雄呉は彼の仕事ぶりをよく知っているから、妙な手際の悪さを訝しんだ。

「あなたじゃ話にならないわ! 代表者を出して!」

 金髪の編み込みを後ろでくくって、涼やかな青のスカートと白いブラウスを着た少女が年齢が倍以上ある大の大人を怒鳴りつけていた。大人相手に一歩も引かない勝ち気なつり目の瞳はどこまでも青くて、長いまつげと二重のまぶたが将来美人になるだろうことを予感させる。顔立ちも幼さを残しつつ、既にモデルや役者として活躍していてもおかしくないほど美しかった。

 怒っているのに理不尽に見えないのは、彼女の立ち振る舞いが十代の少女とは思えないほど上品だからだ。

「ここは関係者以外立入禁止なんですよ。窓口がありますから、そちらを通してください」

「もう何度もメールを出したわ。それを黙殺し続けられたら、もうこっちから来るしかないでしょう。あのHALの関係者を出しなさい。さもなければ、裁判しかないわ」

 いやに聞き覚えのある声なのに、それが一体どこで聞いた声なのか思い出せなかった。

 正当な英国英語ブリティッシュ・イングリッシュは怒鳴り声さえ上品だった。

 そして、裁判などと言われれば雄呉も他人事ではなかった。ぎょっとして駆け寄る。

「どうかしましたか」

 素知らぬ顔で声をかける。男が流石に助かったという顔をしていた。少女は新たにやってきた敵の気配に警戒心を強めているようにも見える。

「HALの関係者に会いたいのですが、あなたが取り次いでくれるますか?」

 先程までの剣幕をおさめて、少女が穏やかに雄呉に言った。少女の強かさを見た気分になって苦笑しそうになる。少女は雄呉が本当に敵になるかはわからないから、子供らしさを見せて、雄呉を味方につけようとしていた。先程までの大人さえ圧倒していた態度が嘘のようだった。そして、少女の目論見通り、大人らしさを見せたくなった。

「分かりました。けれど彼の言うとおり会社の中に通すのは問題があります。近くにカフェがありますからそちらに行きましょう」

 そう言って雄呉は彼女を促すように外へ向かって歩き出す。少女の視線が戸惑うように雄呉と門の奥の社屋を行ったり来たりする。

「HALの関係者はいつ来るのでしょうか」

「私がそのHALの関係者ですよ」

 驚いたように見開かれた顔は歳相応の少女の顔をしていて、可愛らしく思えた。

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