ColorCode: Sorrow

春陽に身を包まれ、数日前まで日の本を覆っていた冬将軍は何処へやら、少し汗ばむくらいの暖気が僕の周りには揺蕩っていた。

孟春の空は、いつかフロリダの滄海で眺めた、パレットに投げ出された絵の具のように鮮明なスカイブルー。

僕はひとつ、ふわぁ、と間延びした欠伸を漏らす。

そしてそれから、鈍痛を伴って重苦しく凝固した肩を幾度か回して、身に着けたトレンチコートの右ポケットから文庫本を取り出した。


手近のベンチに腰掛け、物静かに本を貪り読む自分を客体視してみると、噴き出すとまでは行かずとも少し口角が上がった。

似つかわしくない、という文章の例を挙げるとしたら、今の自分はそれにぴったりだろう。読書など、生まれてこの方数えるほどしかした記憶が無いのだから。


文庫本の中で奇妙に踊り狂う黒色インクは散文という形で僕に新たな感情をせっせと植え付けていく。

はじめ、その感情は感慨に近いものだったが、暫く読み進めて行くと次第に眼精疲労が僕を飽き飽きさせた―――正確には「bother me」、僕の中の広辞苑にはかちりと当てはまる言葉が見つからなかった―――ので、不承不承、僕は本を閉じてベンチに背を預け、限りなく明度の高い群青に目を細めながら天を仰いだ。

また欠伸が出てきそうだったが、歪んだ気道に遮られたそれは喉仏に吸い込まれて血液へと溶け出す。


ふと、「哀情」という造語を思い付いた。

いや或いはその様な単語もこの世にはあるのかも知れないが、耳慣れない言葉ではあるから僕の中では造語だ。口の中で数度その言葉を唱えてみて、我ながら良い語感を閃いたものだと感心した。


もしくは、僕が彼女に抱いていた感情も「愛」ではなく「哀」だったのかと、またも脈絡も無く思案する。眼前に広がる藍の光景に助けられて、思考は取り留めを失くし際限なく枝葉を広げた。

特段、彼女との間には遺恨や悔恨の類も無かったので、幸いにして何か決論を出す必要にも駆られず、唯ひたすらに思索した。

啓蟄の季は、ぼんやり何かに沈潜するのには丁度良い。


其の内容について何か言及するのも野暮だから、余り事細かに言及するのは避けたいと思う。が、結局のところ、人を愛すると云うのはそれ相応に難しいのだという、なんとも当たり障りの無い終局点を迎えたことだけを述べておこう。

何かが終わりを告げて、またそれを埋め合わせるかのように新しいことが始まっていく。人生とはそういう風にして構成されるのだろう、僕は枝葉の末端でそう思った。


僕は哀色から目を背け、再び手元の本に目を落とした。

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