カノジョの名は? ~ カレシとカノジョの恋愛ミステリ

オカノヒカル

***


「なんで親は、そう名付けたんだろうね?」


 放課後の夕色に染まった教室で、渡貫わたぬき竜斗りゅうとはふとした疑問を口にした。


 たわいのない話の途中の事だった。もっとも、ここまで落ち着いて話をするまでには多少の時間はかかったのだ。


 告白という大イベントをこなした後はお互いの事を意識しすぎていて、沈黙のまま無為に時間を過ごしてしまう。これが約十分以上。そしてようやく緊張は解けていく。


 会話のキャッチボールも、最初は堅苦しい学校の話題で、いつものようにバカ話ができるようになるまでは一時間以上の時間が必要だった。


「そうですね。あまりない名前ですから」


 西日が差し込む教室の真ん中の席。机越しに向かい合うように座っている彼女がそう答える。一つ学年の下の後輩でもあった。


 緩やかにウェーブのかかった、肩まである栗毛の髪は、水面に反射する夕陽のようにきらきらと輝いても見える。


「夏っぽいことには変わりはないけど」

「変わり者の親ですからね」


 首を傾げながら彼女が苦笑いをした。小さな口元が左右非対称につり上がり、整った顔立ちからは窺えなかった人懐っこさが表れる。


「そういえばお仲間がいるじゃないか」


 思いつくのは、あのIC乗車カードだった。


「や、プリペイドカードもどきが仲間と言われても困ります」

「あれは夏限定じゃないもんな」

「あたしだって夏限定じゃないですよぉ」

「やっぱり仲間?」

「や、それは否定しておきます」


 再び苦笑いの彼女。そんな表情さえドキッとする。


「西野さんってさ」

「いいですよ……下の名前で呼んでも」


 不意をつかれたその言葉は、告白が成功した時の彼女の返答よりもドキドキした。一瞬だけ頭の中が真っ白になる。


「嫌いじゃなかったの?」


 彼女が下の名前で呼ばれるのを竜斗は聞いたことがなかった。大抵は名字で呼ばれるか、女の子なのに「西やん」と愛称で呼ばれるのがほとんどであったからだ。


「嫌いな奴から呼ばれるのはムカつきますけど……」


 そう言ってうつむきがちになる彼女は、そこで口を濁す。


「けど?」


 彼女は開き直ったように竜斗の目をまっすぐに見つめ直した。黒目がちの瞳が竜斗の心を射貫くような感じだ。


「わかりますよね? あたしは一回しか言わない主義なんです」


 彼女はそう言って口元に人差し指を押し当てる。その仕草がやけにかわいらしくも思えた。


「うん。でも、実は俺も恥ずかしいんだ」


 見つめられた事にも照れるが、それ以上にこそばゆい理由もある。


「生まれてからずっとこの名前で生きてきた、あたしの方がもっと恥ずかしいですよ」


 さらりとそう言い流したその言葉からは羞恥心が感じられない。でも、それが彼女らしさなのかもしれないと改めて感じる。


「そうだけど。いや、そうじゃなくてさ。俺が……その……***のこと大好きだって言っても、それって単なる食いしんぼにしか聞こえないところが悲しくもあり、恥ずかしいわけで……」


 言ってから顔が熱くなるような気がした。さきほどの告白の瞬間が脳裏に蘇る。そもそも名前をちゃんと言えてないような気がするが。


「あ、大好きだって。初めて聞きました」


 上目遣いに彼女は竜斗を見つめると、いたずらっ子のような笑みを浮かべた。


「ちゃんと告白しただろ」

「『大』はついてなかったですよ」

「細かいな」



**



 刺すような太陽の光は麦わら帽子で防いでいる。


 だが、もわっとした空気の塊は彼を覆い尽くすかのように、全身から汗を搾り取っていくようだ。


 青空と、それとは対照的な目の前のひまわり畑はこの季節らしい風景でもあり、暑さを忘れさせてくれる清涼剤のようなものだった。


 隣にいた身重の妻がふと一本のひまわりの花の前へと移動する。それは彼女の背丈とほぼ同じくらいのもの。向日葵の花の弁が彼女の顔とちょうど同じ位置で向かい合っている。それはまるで、二人が友達同士で会話をしているかのようにも見えた。


「綺麗ね」


 妻が呟いた言葉に彼は、条件反射のように言葉を投げかける。


「名前、向日葵にするか?」

「そうね。元気な女の子に育ってくれそうね。候補の一つとして考えておきましょう」



**



「もうすぐ夏ですね」


 嬉しそうに彼女は言った。


 もう夕刻だというのに、空気はまだ淀んだように熱を帯びている。今年は空梅雨とのこともあってか、夏休み前のこの時期でも昼間は真夏並の気温だった。


「すでに真夏のような気がするけど」


 教室の窓から見える鮮やかな夕陽は、たぶん明日も晴れるであろうことが予測される。そしてそのまま、ずっと暑い日々が続きそうな予感もした。


「本格的な夏って言ったら、夏休み入ってからじゃないですか?」


 彼女は少し不満げに反論して唇を尖らせる。その唇には薄くリップが塗られているのだろうか、艶やかな光沢を放っていた。


「まだ西瓜も出回ってないもんな」

「その気になれば一年中食べられますよ……」


 潤った彼女の唇がそう答えた。一瞬、鼓動が高まる。


「……なんか、すごく意味深に聞こえる」

「もう! エロオヤジみたいですよ」


 彼女は立ち上がって竜斗を睨み付けた。その仕草も女の子らしく感じて、彼は照れ隠しに目線を逸らしてしまう。


「べ、べつにエロいことなんか考えてないんだからね!」


 いちおう誤魔化すようにそう答えてみる。まるでツンデレのようになってしまったが。


「普段から煩悩全開なんですから、ごまかしてもわかりますよ」


 頭の上からのきつい言葉だが、それほど苦痛は感じない。それは惚れてしまった者の弱みなのか。だから、素直に謝ることにした。


「……ごめん、ちょっとだけ思った」

「ま、いいですけど」



**



 彼の前には収穫前の西瓜畑があった。梅雨が明けた直後ということもあり、畑には出荷前の青々とした西瓜が転がっている。


 いつの間にか前方の視界からいなくなっていた妻は、西瓜畑の片隅に座り込んで丸々と大きくなった実を興味津々に見つめていた。


 そんな彼女を見て、彼は少々不安になる。


「まさか、とんでもない事を考えていないだろうね?」


 妻は振り返って笑みをこぼす。邪気のない表情はかえって不安を増すばかりだ。


「まさか、そのまま付けるわけないでしょ」


 子供のような笑顔は崩れない。


「やっぱり、とんでもない事を考えているんじゃないか?」

「でもね。ここにいると夏の香りがするの、瑞々しい西瓜は夏そのものって気がしない?」


 たしかにほんのりと土の香りと西瓜の香りが混ざった夏らしい匂いがするような気がした。


「うん。だからって、その名前を付ける気かい?」

「ううん、そのままじゃ芸がないから、ちゃんと意味を込めるわ。そうね、瑞々しい西瓜はこの季節には大切な水そのものね。その香りがするから『水香(すいか)』ってのはどう?」

「それなら読みは『みずか』の方が自然だろ」

「うん。でもね、それだと季節感がないわ」

「まったく、しょうがないな。候補の名前の一つに入れてやるか」



**



「名前の由来とか意味って聞いたことあるか?」


 出会った時から疑問に思っていた事を竜斗は口にする。さすがに親しくない内は訊くのが憚られたからだ。たぶん名前の事に関してはあまりいい思い出はないだろう。自分も含めて子供は残酷だからと、彼は思っていた。


「ううん。教えてくれないんですよ」


 意外にあっさりとそう言い切られて拍子抜けをする。変わった名前なのだから子供を説得するためにも意味を教えるのが普通ではないかと、そう彼は考えていたのだ。


「フィーリングでつけたとか?」


 音を先に考えて、それに漢字を当てはめるという親もいるそうだ。彼女の親もそうなのだろうか。


「うーん。どうだろ?」


 彼女は相変わらず飄々と答える。まるで、自分の名前には無関心のように。


「誰がつけたの?」

「パパだよ」



**



 夏らしい名前がいいなと夫は言った。だから、初夏にしては厳しい暑さの中、散歩に出ようと妻は彼を誘ったのだ。


 道を歩けば夏の匂いがほのかに漂ってくる。熱せられた空気の匂い、青々とした草の匂い、灼けた砂利道のくすんだ匂い、そして夫が先ほど買ってくれたラムネの淡い匂い。


 彼女はそれらに誘われるように歩き始めた。もちろん優しい夫は、彼女を見守るように後ろから付いて来てくれている。


「空が青いね」


 空を仰ぐのは夏を感じたいから。夫とお揃いの麦わら帽子を脱いで胸に抱く。熱風さえも心地よく思えてきた。


「青空は却下だよ」


 夫はまるで駄々っ子を諭すようにそう呟いた。彼にとって妻も大きな子供の一人なのだろうか。


「わかってる。女の子らしい名前にするわよ」

「それは本当にお願いしたいものだね」

「ね、本当にわたしが考えていいの?」


 約束があった。最初に生まれてきた子供は夫が名付けた。そしてその次に生まれてくる子供は彼女自身が付けるというものだ。


「意見ぐらいは言わせてもらうけど、基本的には君が名付け親で構わないよ」



**



「そういえば先輩って妹さんいるんですよね?」


 たわいもない話は続いていく。そろそろ下校放送が流れてくるだろう。


「うん。うるさいのが一人」


 頭に浮かんだのは、家でやたらと態度の大きい妹の姿。


「うるさいとか言っちゃかわいそうですよ」

「だって、おまえと年は同じだよ。元気がいいのはわかるけど、落ち着きがないし」


 人にあげられるならどこかへやってしまいたい、と密かに思っている兄でもあった。


「へぇ、一つ違いなんだ。いいよね、兄妹って」

「あんまりいいもんじゃないぞ」

「あたしはね、一人っ子だからうらやましいの」

「うらやましい?」

「うちの母親ってなんか、もう子供が産めないカラダみたいなの。もしかしたら、あたしが原因なのかもしれないけど」

「妹か弟が欲しかったと」

「まあね」

「一人の方が気楽だぞ」

「あたしは寂しがり屋だからね」

「うちの妹、レンタルしようか?」

「あ、それいい」


 彼女は目を輝かせてそう答える。まるで本気で嬉しがっているようにも感じた。


「ま、冗談じゃなくなるように、そのうち紹介するよ」

「うん。あ、そういえば妹さんって名前はなんていうの?」

「ん? おまえと一緒で夏っぽい名前だよ」



**



 『すいか』という字が真っ先に目に飛び込んでくる。その赤子の右足首についている札には確かにそう書いてあった。


 新生児室の前は透明なガラスの壁で区切られている。何人かの赤子が両足をこちらにむけて寝かされている中で、その文字はひときわ目立っていたのだ。


「西瓜?」


 中を覗いていた男の頭にそんな文字が浮かび上がる。


「でも、ひらがなで『すいか』とはまた粋な名前だこと……」


 男はそう呟いて新生児室の前を後にする。



**



「そういや、おまえの名前って英語にするとかっけーぞ」


 たわいのない話だからこそ、直感的な事を言葉に変換する。意味のないような会話でも二人にとっては重要な事だった。


「や、かっこいいと言われてもですねぇ……」

「そうか? 俺は『dragon container』だぜ。なんかかっけーだろ」

「まるでゲームのタイトルみたいじゃないですか」

「漢字で書くと、キラキラネームというよりヤクザっぽいからなぁ……」


 名前に関しては、自分だってそれなりのコンプレックスは持っていた。だからこそ、彼女の名を呼ぶことを別な意味で躊躇ってしまう。


「どうでもいいじゃないですか」


 彼女は笑いながら受け流す。そんな顔を見ていると自分の名前に関しては本当にどうでもよく思えてきた。


「でもおまえの場合は、なんか英語にすると爽快感が増すんだよな」

「や、増すとか言われてもですねぇ」

「店の名前っぽいかも」

「将来、店出せと?」

「いや、だからさ。感覚的な問題。俺よりマシって話だよ」

「大丈夫。人類は『愛称』という情緒的な省略法を手にしてますから。そうですね……『りゅうちゃん先輩』などいかがでしょう?」


 『りゅうちゃん』の部分が妙に生々しかったので、深層心理に眠っていた羞恥心が騒ぎ出す。


「違う意味で恥ずかしいんだけど」



**



 夕闇があたりを染め上げていた。誰そ彼とはよく言ったものだ。人の形は見えてもそれが誰であるかは判断がつきにくい。


 そんな夕刻の小径を使用人の男は歩いていた。


 ある人影が赤子らしきものを抱えて彼の横を通り過ぎる。だが、ここは私有地内にある小径である。親戚縁者か、家を訪問してきた客人以外にこの場を訪れることはないだろう。


 誰何すいか


 挨拶もせずに通り過ぎる人影に、男は不審に思って声をかける。


「あの、どちらさまでしょうか?」


 人影は足を止めて振りかえる。が、会釈をしてそのまま去っていってしまった。男の目には表情どころか顔立ちすらわからなかった。


 ただ、鋭い眼光だけが印象に残る。会釈をした人影は笑顔でないことだけは確かだった。


 男は背筋に悪寒を感じ、それ以上は考えることをやめてしまった。おぞましいとの直感が記憶からその事実を消し去ることを優先させたのだ。



**



「もうわかりますよね?」


 唐突に彼女が言った。いや、そう思ってしまった、だからつい間抜けな答えを返してしまったのだ。


「何が?」

「さっき告白してくれたときに聞いたじゃないですか。どうしてOKしてくれたのかって」

「ああ、その話」


 竜斗の投げやりな言い方に、彼女は機嫌を損ねてしまったようだ。


「聞きたくないならいいですっ!」

「いや、気になるし」


 急いで言葉を取り繕おうとして失敗する。これでは投げやりな部分が打ち消されていない。


 だが、彼女は機嫌を損ねたのが一瞬であるかのように話を続けた。


「うーん、改めて言うのも変なんですよね。さっきみたいに会話の中の流れで言いたかったので」


 ここは形振りかまっていられないと、小指の先ほどのプライドを捨て去って彼は正直に答える。いや、正直というよりバカの付く真っ直ぐさかもしれない。


「いや、それだと俺が気付かない」

「鈍いのを偉そうに言わないでくださいよぉ」


 あきれたような彼女の声。


「鈍いかどうかはわからないけど」

「普通に会話してても先輩とは妙にフィーリングが合うんですよねぇ」


 どうやら話の続きをしてくれそうだった。


「たまにかみ合わないぞ」


 かみ合わなくて、漫才のネタのようになってしまうこともある。でも、それさえもが楽しくて仕方がない。


「かみ合わないところも含めたフィーリングですよ。だってかみ合わなくても不快感はないじゃないですか」

「まあ、そうだけど」

「だから、初めて出会った時からそう感じてたんですよ。ピスタチオとカシューナッツのような存在だって」

「そんな風に観念的に言われてもピンとこねえよ。ていうか、喩えが全然わけわかんねぇよ」

「うーん。ですから……わかりやすく言えば」

「参考書なみに易しく解りやすく頼むよ」


 彼女はニヤリといたずらっぽく微笑むとこう答えた。


「他人って気がしないってことです」



**



「そういや渡貫さんのところの双子。一人は死産だったそうじゃよ。噂に聞いた話じゃがな」


 ぽかぽかと日の当たるベンチで、老人同士が世間話をしている。


「残念じゃったのう。生き残った子はなんて名前なんだい?」

「うーん、たしか『おきか』ちゃんだったか。沖縄の沖に香りと書いて『沖香おきか』と読むそうじゃ」

「ほぉー、変わった名前じゃのう。もし、もう一人の子が亡くならなかったら、渡貫さんはなんて名前を付けるはずじゃったかのう?」

「儂は前に渡貫さんから聞いて知っておるぞ」

「ほぉー、なんて名前じゃ?」

「水に夏と書いて『水夏すいか』じゃ」



(終)

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