フェンリル、って何?

「フェンリル、って何?」


 北欧神話の中にフェンリルって名前の狼がいたような……? と、よくわからない自分突っ込みを心の中でしつつ、ラーディたちの言葉を待つ。


「フェンリルは、この世界の聖獣です。各地の森に番で棲み、その地を守ると言われています」

「へえ、そうなんだ。……あんたは聖獣だったんだね。狼の聖獣なんて、私の国では珍しいけど」

「そうなのですか。それにしても、ここまで大きなフェンリルは見たことがありません」

「それに、番もいないみたいだが」


 そう呟いたジェイドに、そう言えばと思い出す。動物たちは、『孤独な王様』って言ってなかった?


「『孤独な王様』って、そういう意味なのかな……」

「シェイラ様?」

「ううん、なんでもない」

「それにしても……神殿にいた時、リーチェ様……あ、いえ、セレシェイラ様もフェンリルが聖獣であることを習ったはずですが」


 半分呆れ気味に、ラーディにそう言われた。しかも『リーチェ』って言ったよ、ラーディこいつ。まあ、仕方ないよね。昨日の今日だし、習ったのは『リーチェ』だから、間違っちゃいない。


 『リーチェ』はどっちかと言えば、清楚・可憐・おとなしいとう、巫女そのものー! って感じだったし、私はどっちかといえば真逆だし。こりゃ、ラーディとの約束も早々に反故になるなと考え、早めに屋敷を出る準備をすることに決めるが、今はラーディとの会話を優先させる。


「そうだっけ? うーん……記憶にない。と言うか、今話しててわかったけど、どういうわけか『リーチェ』の記憶が欠けてる部分があるんだよね」

「記憶が、欠けている?」

「欠けてるというより、覚えてないって感じかな。巫女の力の使い方はわかるというか覚えてるんだけど、フェンリル云々の部分を忘れてるというか……」

「昨夜、神殿内で王や王妃に語ったことは?」

「え? 私、あいつらに何か言ったっけ?」


 ジェイドにそう聞かれて普通にそう返したら、ジェイドに驚かれた。


「……シェイラ様は昨夜、王や王妃に最高位の巫女のことについての基本を、あの場にいた神官長と一緒に話されていたではないですか!」

「うーん……確かに『リーチェ』に対して、フーリッシュや王がやらかしたことについていろいろと啖呵は切ったし、何か言ったような気はする。でも、最高位の巫女の基本云々て話は覚えてない。で、最高位の巫女のことって何?」


 そう聞くと、ジェイドたちは驚いた顔をして眉間に皺を寄せた。その後も彼らと話すが、覚えてる部分と覚えない部分があるのは確かに変だ。

 力の使い方は……わかる。階級……も覚えてる。女神との約束も、ジェイドたちと初めて会った時のことも覚えてる。フーリッシュや王太子が『リーチェ』に何をしたのかも覚えてる。

 覚えていないのは、神殿が教えたであろう教義の部分で、巫女の力を使わざるを得ない薬草関連や野草などの知識だけは覚えているのだ。

 ジェイドたちの話からすると、昨夜の私はそれを覚えていたことになる。今朝も、薬草や毒草の話をジェイドとしたから、薬草関連のことを覚えているのは間違いない。

 だが、一晩寝ただけで、そんな簡単に忘れられるものなのだろうか。或いは、神殿に属さないなら必要ないからと、フローレン様が関わっている、とか?

 いずれにしても、わからないことを考えても仕方がない。


「何で神殿の教義の部分だけ覚えてないのか私にもわかんない。単に忘れただけなのか、必要ないからなのか、召喚された影響なのかは知らないけど」

《リーチェの記憶? 召喚?》

「あー、あんたにはあとで話してあげるよ。どうやら『リーチェ』を知ってるみたいだし」


 近くにいた狼……フェンリルの躰を撫でながらそう言うと、ラーディが驚いた顔をした。


「このフェンリルが、リーチェ様を知ってる?」

「多分。この子を助ける時、『リーチェなのか?』って言ったから」

《リーチェではないのか?》

「それもあとで話す! ところで、私もいい加減濡れた服を着替えたいんだけど?」


 濡れた服を引っ張りながら暗に「出ていけ」と言うと、全員その場から移動し始める。フェンリルはその場に残ろうとし、「あんたも一緒に外に出るの!」と言ったのだが結局その場を動くことなく、躰を伏せたあとで前足に顎を乗せて目を瞑ってしまった。


「全く……。まあいいや。見ないでよね!」


 フェンリルをチラチラ見ながら濡れた服を全部脱いで裸になると、汚れた身体や顔、髪などを洗って湯船に浸かり、湯船に浸かりながら盥で服を洗う。洗濯機なんかないから石鹸を服に擦りつけてから手で擦ったり、押したり、揉み洗いだ。

 袴は黒だから多少の汚れは誤魔化せるが、流石にチュニックはベージュだから誤魔化せない。何度も石鹸をつけて洗ってはみたものの、結局汚れが落ちない場所があったのでチュニックの洗濯は諦めた。気に入ってるやつじゃないからまだよかった。


「仕方ない。このチュニック、乾いたら巾着か鞄に加工しよ」


 チュニックの汚れ落としを諦め、湯船に浸かって温まるとお風呂場を出て着替えた。

 下着はドロワーズのみ。ブラもショーツもこの世界にはない。ショーツに近い形のズロースらしきものはあるらしいのだが、『リーチェ』の記憶ではほとんどドロワーズを履いていた。

 上に着るのも、キャミソールみたいな形のものかコルセットだ。あんな窮屈なもん着れるか! と思いつつも、上に着る下着がキャミソールタイプのものだったので、安心してそれを身に付け、服を着た。

 服は膝丈の、クリーム色のワンピースである。しかも、腕まわりとか胸が微妙にきつい。


「これ、絶対に『リーチェ』の身長や体つきに合わせてるよね……」


 思いっきり溜息をついて洗濯ものを持つと、フェンリルに「行くよー」と声をかけてお風呂場をあとにする。ペタペタ音をさせながら歩いていると、ハンナがやって来た。


「セレシェイラ様! また裸足で歩くなど!」

「え? だって、靴とかなかったし」

「それに、裾が短すぎます!」


 ハンナの言い分はわかる。わかるが、逆ギレされる覚えはない。全く、『リーチェ様至上主義』な似た者夫婦め。いや、それは他のやつらも同じか。はあ、と盛大に溜息をついて、半眼でハンナを見た。


「……あのさあ、ハンナ。言っとくけど、これは私が切ったわけじゃないよ? 着たらこの長さだったの。それに、この服を用意したのは誰? 靴を用意しなかったのは誰?」

「それは」

「服自体も少しきついの。これじゃあ皆と一緒に傷薬を作れない。せっかく用意してくれたとこ悪いけど、部屋に戻ったら着替えるから」

「あ……」


 不機嫌にそう言ってまたペタペタと音を立てながら歩く。ハンナには悪いことをしたなとは思うが、昨日私が言ったことを彼らはわかっていない。

 逆に言えば、『黒木 桜』は必要ないと言われているみたいで不愉快だった。


『よかったのか?』

「何が?」

『あの娘だ。泣きそうな顔をしていた』

「知らないわよ、そんなこと。私はもう『リーチェ』じゃない、って昨日皆に言ったし」

『リーチェではない? どう言うことだ?』


 部屋に戻るとすぐにワンピースとキャミソールタイプの下着を脱ぎ、袴とTシャツを着る。流石にドロワーズは脱げなかった。

 着替えていると直接頭に聞こえる声に切り換えたらしいフェンリルがそんなことを聞いて来たので、「簡単に説明するよ」と言うと、フェンリルが「座れ」と言ったので床に座る。するとフェンリルは私の頭に角を近付けて来て額に触れた。


「何?」

『何もせん。そなたの記憶をだけだ。じっとしていろ』

「うん……」


 聖獣はそんなこともできるのかと思っていると、フェンリルの角が虹色の光を放ち、私を包んだ。柔らかい、暖かな光。だけど、とても懐かしい光。その光が収まると、フェンリルは私の顔をペロンと舐めた。


『リーチェも、桜も、辛い思いをしたのだな』

「あれ、私の名前……。あ、記憶を視たんだっけ。でもなんでちゃんと『桜』って呼べるの? 他の皆は『桜』って言えなかったのに」

『それは秘密だ』


 ふふ、と笑ったフェンリルは、もう一度私の顔を舐める。


「くすぐったいよ。んー、なんだろう。あんたは……貴方は何か懐かしい感じがする。まるでお父さんみたい」

『父、か』

「うん。尤も、『リーチェ』の記憶の中の感覚だけどね。でも、なぜか私の感覚でもあるんだよね……何でだろう?」


 私には両親がいるのに。但し、父とは血が繋がってない。

 小さいころ、父や母に似なかった私の目のことで、母に聞いたことがある。『何で私はパパやママと同じ目の色ではないの? どうして薄紫なの?』と。それに対し母は


『桜の目は、桜の本当のパパと同じ色なのよ。本当のパパは桜が生まれてしばらくたったあと、自分の国に帰ってしまったの。ううん、帰らざるを得なかったの。パパは桜もママも、一緒に連れて行ってくれようとしたのよ? でも、できなかったの』


 と、寂しそうにそう言った。写真すらもないことから、相手はきっと私たちを連れて行けないほど、どこぞの国のお偉いさんとか外国の有名企業の御曹司だったに違いないと今なら何となくそう思う。


『桜……我が一緒にいる。旅をしようと、どこに落ち着こうと、我が側にいる』

「……ありがとう、フェンリル」

『それは我の名ではない』

「じゃあ、なんて呼べばいいの? 狼さんとか?」

『それはそれで複雑だ。桜の好きに呼べばいい』

「うーん……。…………じゃあ、カムイ」


 しばらく悩んでからカムイと告げると、フェンリルは人間くさい仕草で目を丸くした。その瞳は、私と同じ薄紫。


『……なぜ、その名にしたのだ?』

「ん? カムイって、漢字……んと、私がいた国の文字で『神の威』って書くんだけど……あ、威は威光って字の一つね。で、聖獣ってことはフローレン様のお力を使うこともできるんだよね?」

『……そうだな』

「だから、そこからと、私がいた国の北方に少数部族の人がいて、狼や神格を持った霊的存在を、その部族の人たちの独特の言葉で『カムイ』と言うの。貴方は霊的存在ではないけど、狼に見える。だから『カムイ』にしたんだけど……ダメかな? ……うわっ!」


 フェンリルの目を見てそう言うと、フェンリルは丸くしていたままだった目を嬉しそうに細めたあとで、犬がじゃれつくように私にダイブしてきて押し倒され、顔を舐められた。油断していた私は、当然のことながら受身を取ることができずに頭を床に強かに打ち付け、辺りにゴン、という音が響く。


「痛っ! 頭打ったー! それに重い!」

『すまん。だが……カムイは気に入った』

「そう、ならよかった! これからよろしく、カムイ」

『ああ』


 返事をしたカムイの声はとても優しくて。本当はベタベタしてたけど、顔を舐める仕草も優しくて。お腹は空いていたが、カムイの躰が暖かくて……。ゴロン、と横になったカムイの腕に閉じ込められる。それはまるで父の温もりに抱かれているような、守られているような気がして、安心してしまった私はいつの間にかそのまま眠ってしまった。



 ***



「我が妻と同じことを言うのだな、桜は」


 そのことがどんなに衝撃的で、どんなに嬉しかったか、この娘にはわからないだろう。

 桜の記憶は辛そうだった。リーチェの記憶もそれなりに辛そうではあったが、桜よりは確実に幸せそうだった。目のことで苛められていた桜。学生時代は黒い色のこんたくととやらを嵌め、成人してから逆にそれを外し、からあこんたくととやらを嵌めている、と周りに言っていたようだった。

 黒く艶やかで真っ直ぐな髪はこの世界ではそれほど珍しくもないし、薄紫の瞳も、稀ではあるがいないわけではない。この世界は、桜にはそれほど辛くはないであろうことに、多少安堵する。


 我の側で、安心したようにいつの間にか寝息をたて始めた桜を覗き込んでいると、扉のノックの音のあとで先ほど泣きそうな顔をしていた娘と、我を助けた男と、濃い紺色の髪の男が入って来た。


「セレシェイラ様、先ほどは申し訳ありませんでした。お食事は……あら?」

「桜なら眠っている」

「フェンリルが」

「……喋った」

「我がヒトの言葉を話すのが珍しいか? まあ、滅多には話さぬがな」


 桜を起こさないよう、ゆっくりと起き上がって三人の前に立つ。


「桜に用か?」

「別の服と靴をお持ちしたのと、お食事がまだでしたので」

「たった今寝始めたのだ……起こすのも忍びない。テーブルの上に置いてやってくれぬか?」

「わかりました。あと、セレシェイラ様に頼まれた物もお持ちしましたので、それもテーブルの上に置いておきます」

「起きたら伝えておこう」


 そう約束すると、娘は何かを躊躇ったあとで靴は床に、服などは椅子に、頼まれたものはテーブルへと置き、先ほどまで桜が着ていた服を持って部屋を出て行った。多分、桜の食事を取りに行ったのだろう。


「……その、床にある服は?」


 濃い紺色の髪の男が指差したのは、濡れた服だった。


「桜が洗ったものだろう。これも干してやってくれぬか」

「わかった」


 そう頼むと、濃い紺色の髪の男はそれらを持って部屋を出た。心配そうな顔を桜に向けながら。残ったのは、我を助けたジェイドと呼ばれた男だ。


「……貴方は、シェイラ様のことを……シェイラ様の本当の名前で呼べるんですね」

「まあな」

「シェイラ様は……いえ、何でもありません。シェイラ様が起きたら、ラーディが呼んでいたと伝えて下さい」

「わかった、伝えておこう」


 頷いた我に、男は礼を言った後で桜の寝顔をじっと見た。苦しそうな、切なそうな顔で。そのことにおや、と思っていると、男の顔は来た時と同じ顔に戻り、そのまま扉を閉めて部屋を出ていった。


「ふふ、皆に愛されているのだな、桜は」


 尤もそれは、リーチェに対するものか、桜に対するものかはわからぬが。

 どちらも早く気付けばいいが。


 そして、いつか話せるだろうか……桜に本当のことを。


 ノックの音と共に、先程の娘が食事と水を持って来て、水を我の前に置いた。


「水は貴方に」

「すまぬ」


 娘は微笑むと、一瞬桜を見たあとでそのまま部屋を出ていった。


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