第7話
和泉の実家は、大きな病院らしい。そこの院長をしている父親が、世の中物騒だからと、セキュリティの整ったマンションに入居させたのだ、と、和泉が話していた。
このマンション、鍵がないとエレベーターにすら乗れない。来訪者は、部屋の中からエレベーターの鍵を開けてもらわないと駄目、という、念の入れっぷり。そこで和泉は、面倒だからと魁に合鍵を持たせていた。それだけ魁を信用していたのだ。
魁は澪と二人で和泉のマンションへと向かっていた。
澪はただただ呆然として、あちこち見回した。魁も、先週和泉と出会ったばかりの頃は、同じ反応だった……、それが、随分前のことのような錯覚。
「黙って来て、悪かったかもな……」
呟いたあとで、実は和泉の携帯番号すら聞いていなかったことを思い出す。
(直接会うことで満たされていたから、携帯番号なんて、気にも留めなかった)
踏ん切りをつけたつもりが、和泉のことを考えるだけで、身体にぽっかり穴が開いてしまった気がする。
一階のエレベーター前のセキュリティパネルで、和泉を呼ぶ。合鍵は持っていたが、今回はお客様として訪れたほうがいいだろうという、魁なりの配慮。……返事がない。
仕方なく、鍵をかざす。エレベーターのドアのロックが解除され、二人で乗る。
(もしかしたら、外出中なのかもな……。部屋の外で、少し待たせてもらうか……)
三〇五号室、彼女の部屋の前だ。ドアの前に張り紙がある。
『和泉は預かった。
彼女は知りすぎた。K.Y.』
小さな白いメモ紙を剥ぎ取り、そこに書かれた文章を、何度も指で辿る。
「な……、なんだよ、これ……?」
ぶるぶると全身が震えだす。何が起きているのか、理解に苦しむ。
「『K.Y.』って、柳澤じゃないの……? あいつ……!」
澪の言葉に、ますます怒りが止まらない。ぞわぞわと、──これは、『野獣』になる感覚だ。興奮で、変化が始まっている。
「落ち着こう! 魁! こんなところで、人に見られたら、どうするの?!」
澪ががっちりと、魁の身体を抱きしめる。熱くなりすぎていた魁の心が、少しずつ、冷静さを取り戻す。変化をやめ、元の姿に戻っていく。
「す、すまない……。澪に付いて来てもらってよかった……。俺一人じゃ、何が起こるかわからないところだった……」
「兎も角、柳澤に! 連絡を取ってみようよ! 私は携帯持ってるからさ」
胸を押さえて壁に寄りかかり、深呼吸する魁。
澪は冷静に電話を掛ける。
「──もしもし? 柳澤? 彼女は?!」
『なんだ、もう気付いたのか』
電話口の声は、移動中なのか、少し聞こえにくい。
『大丈夫、何もしていないよ、今のところはね』
「今のところはって……! どういうことよ?!」
『そんなに大きい声を出さない。どうしても気になるって? なら、ラボに来ればいい。お前たちの大嫌いなラボにね……ククク……』
ブチッと、澪は思わず電話を切ってしまった。あの笑い方、胸糞悪い。
「なんて言ってた?」
魁は屈み加減で、澪の顔を覗き込んだ。
いつもは動じない澪の呼吸が、心なしか速くなっていた。
「彼女と……、研究所にいるみたいだよ?」
「な、なんだって?!」
「柳澤の奴、彼女に何をするつもりなんだろう……。嫌な予感がする……」
大きく目を見開いて、魁に不安を訴える。
「『今のところは何もしていない』って言ってた。つまり、これから何かする気なんだよ……。早く、助けに行かないと……!」
やらなければならないことはわかっているのに、足が
研究所には行きたくない。自分たちが改造され、『野獣』にされた忌々しい場所。『人間であること』を捨てた場所。生き延びるために、柳澤という悪魔の化身に魂を売った場所……。
ぶるぶるっ。頭を震わす。
「行くか……」
意を決して、歩き出した。
*
和泉は柳澤に案内されるがまま、大学の敷地を出て、近くのパーキングに停まっていた黒いワゴンに乗り込んだ。運転手ともう一人、柳澤の部下のような人物が、車内で待っていた。運転席と助手席に座る二人に会釈し、後部座席へ。柳澤は彼女の隣にゆったりと腰を掛けた。
ただのワゴンじゃない。更に後ろの席には、意味ありげな無数の機材が置いてある。一体、何に使うのか、想像できない。
「君は、魁のこと、どれくらい知っているのかな?」
柳澤は戸惑う和泉に唐突に尋ねた。
「知ってることなんて、殆どありません……」
じろじろと顔を覗く柳澤を避けるように、窓の外に視線を移す。
どうやら、郊外に向かっているらしい。ビルの群れがだんだん遠くなっていく。
「嘘はいけないよ、嘘は。君は彼が『獣になる』ことを、知ってるんだろう?」
どくっと、大きく胸を打つ。和泉は思わず目を見開いて、柳澤に振り返った。
「図星か……。で? 君はアレが何だと?」
「何って……、人間が、獣になるなんて、ありえないじゃないですか。おっしゃる意味がよくわかりません」
そう言うのが精一杯。
柳澤の視線は更に容赦なく和泉を追い詰める。
「ありえない、と言っておきながら、君は食堂で、何を調べてたのかな? 狂犬病……リカントロピー……、人狼症……。『狼男』にまつわるものばかりだ。正直に言いたまえ、君は魁がそういうモノだってことを知ってるんだろう?」
質問じゃない、尋問だ。強迫観念に、和泉は平静さを失いそうだ。
「知っていたとしたら、……どうなんですか?」
曖昧な返事で、誤魔化す。尤も、柳澤には通用していないことは承知の上だ。
「さあ、どうなんだろうね。君も、薄々、察しが付いていると思ったんだが」
そう言ったっきり、柳澤は口を
車は郊外の閑静な住宅街へと入っていく。高級感溢れる町並みの中に、小さく「柳澤生体研究所」と横書きした表札のある、白亜の邸宅があった。ガレージに車を止め、四人は研究所の中へと入っていった。
*
柳澤の研究所に向かうのに、主な交通手段がチャリンコ……、我ながら、情けない。財布の中身は小銭で千円。これじゃ、タクシーにも乗れない。
魁は必死に自転車を漕いだ。後ろに、澪が立ち乗りのまま掴まっている。振り落とされないように、ぎゅっと腰に手を回し、背中に顔を
こんなとき、バイクや車の免許でもあれば、ぶっ飛んで行けるのに。──免許があっても、乗り物がなきゃ、駄目か……。逆に、乗り物さえあれば、免許がなくったって、気合で乗りたい心境だ。
ボロアパートからマンションまで、幸いチャリで来ていた二人。そのままの勢いで、チャリに乗り、風を切って走った。
商店街の人の群れを掻き分け、大通りを抜け、柳澤の研究所のある住宅地へと向かう。直線距離で約八キロ、自転車で向かうと意外に遠い。出るだけのスピードを必死に出す。
残暑がキツイ季節、汗だらだらになりながら、必死に漕ぐ魁の背中で、澪は「魁がまだ、本当は彼女のことがすきなのだ」ということを思い知らされていた。もし、自分が同じような立場なら(勿論ありえないのだが)、助けに行ってくれただろうか。もし、私と彼女の立場が逆なら……。考えるのはよそう。考えれば考えるほど、自分が
柳澤の研究所のある、住宅街へとやってきた。
自転車のスピードが少し遅くなる。
大きな白い邸宅。家主に似合わない、美しい魔王の城、「柳澤生体研究所」だ。
塀の前に自転車を乗り捨て、二人は急いで駆け込むと、チャイムを鳴らした。
「開いてますよ、魁さん、澪さん」
助手がゆっくりと重いドアを開ける。
「悪い、入るよ!」
魁と澪はドアを思い切りよく開き、助手を退けて中へ進んだ。
薄暗く、じめじめした場所。外からは想像できないくらい、不気味な物体が、所狭しと並んでいる。大小さまざまなホルマリン漬け、檻に入れられた獣や両生類、鳥類たち。奇妙な声は、防音材のお陰で外に漏れることはない。更に中に進むと、手術台のある部屋のドア。思い出すだけでもぞっとする。
話し声が、奥の部屋から聞こえてくる。柳澤だ。
「『魁に関わったばかりに、こういう展開になるなんて、想像できなかった』なんて、言うんじゃないだろうね」
「それは……」
和泉の声も。
魁の心臓は否応なしに高まった。
柳澤を信頼していたわけじゃない、だが、今回はあまりに卑劣すぎる。
「──柳澤ぁぁぁぁ!!!!」
魁は鬼の形相で二人のいる部屋に乗り込んだ。
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