第6話
部屋の片隅に、ワインレッドの真新しい携帯電話が落ちている。とっさに、「魁の物だ」とわかったが、和泉に届けに行く勇気はなかった。……とは言っても、元々、彼がどこに住んでいるのか、どんな暮らしをしているのかさえ、知らないのだが。
魁の台詞、その意味が、全くわからなかったわけじゃない。
なんとなく、彼が危険な存在だと感づいていても、止められなかった、感情。放っておけない、
魁が別れを切り出すのは、いつか来る現実だというのも、和泉にはわかっていた。それでもその時になると、「信じられない」と、思わず心にも無い言葉で彼を引き止めてしまう。
ただ素直に、「好きだから、そんなの関係ないよ。大丈夫」って、簡単な台詞が、喉に
魁が狼男だって、なんだって、本当はどうでもいい。なのに、『人狼症』なんて言葉を思い出して……。目の前にいる、魁の言葉を、ただ信じることが、どうして出来なかったのだろう。
何とかして連絡を取ったほうがいいだろうと開いた魁の二つ折りの携帯には、一件のメモリも無い。着信、発信履歴で、特定の二人とだけ通話するだけの携帯だ、ということがわかる。最新機種なのに、写メを撮った形跡も無い。メルアドも、ましてや、Webを見ている形跡も、何も。
年齢の割りに、随分アナログな暮らしをしているようだ。
二十五歳って言ってた。彼のことでわかるのは、行きつけの古着屋と、年齢だけ。
(私は、どんなに強がったって、魁のことを、何にも知らない……)
その夜は魁の携帯を枕元に置いて寝た。少しでも、魁の温もりが欲しかった。
目を
『人間じゃないんだ』
彼の台詞の本当の意味は? そんな存在が、本当にありえるのか?
胸の奥で、もやもやと、疑問が
人間と獣の間、姿を変え、普段は人間として暮らしている。そんな、怪奇小説の産物が、現代社会に紛れて……。
どんなに考えても、解決しない。
魁のことを考えるだけで、苦しくなる。最後の、あの後姿を思い出すと、涙が込み上げてくる。
「私は、非力ね……」
携帯を見つめ、そう言うと、和泉は枕元の灯りを消した。
*
土曜日の大学の食堂は、がらんとして、過ごしやすい。和泉は図書館から何冊もの分厚い本を持ち込み、学食で買ったサンドイッチを
学食のメニューはなかなか豊富で、よく利用している。味もいいし、何より安い。仕送りだけで暮らしている和泉にとって、なくてはならない場所だ。
白い長テーブルに、平日なら同じ講義を受ける友達数人で掛け、わいわいと取り留めない話をしているところだが、今日は土曜日とあって来ている友人はいないようだ。そのお陰で、和泉は落ち着いて、調べごとが出来る。
『狼』『人狼』……、少しでも、魁のことを知りたいと、検索していた。本当に知りたい情報なんて、案外載っていないものだ。当然のように、「存在しない」「狼と思い込んで……」と記述してある。和泉の知っていたように、「精神病の一種」という記述も。「狂犬病の症例を例えて……」だが、魁に当てはまるものは、何一つないのだ。
コーヒーとサンドイッチが、交互に口に運ばれる。時間が経つばかりで、新しいことは何一つわからない。
「本だけじゃ、限界があるのかな……」
食事を終え、一息吐くと、座ったままぐんと背伸びをする。と、見慣れない人影。
「
四十代くらいの、眼鏡の男が、和泉に声を掛けた。
「は、はい?」
和泉は慌てて両手を下ろし、彼に向き直った。
ひょろっと痩せて、頬のこけた、薄気味悪い男だ。今時七三に髪を分け、特徴のない半袖ワイシャツにスラックス。目だけがぎらぎらと光っている。
「あの、私に、何の御用です? あなたは?」
不審な男に、警戒する。
「あなたのお父さんのね、知り合いですよ。橘病院のお嬢さん。それに、ここは私の母校だしね」
男は不気味に笑いながら、和泉の隣に座った。
和泉は嫌な予感がして、そっと椅子を反対方向にずらした。
「で? 御用は?」
恐る恐る上目遣いに尋ねてみる。
出来れば、すぐにでも立ち去りたい気分で一杯だ。
「ウチの魁が、随分お世話になったみたいだからね、ちょっとご挨拶に」
「か……魁を知ってるの?!」
今まさに、魁の情報が欲しかった和泉にとっては、思いもよらぬ回答だった。一瞬のうちに、この気味悪い男が、救世主にさえ見えてきた。
「魁はウチの稼ぎ頭なんでね」
にんまりと笑う男。笑い顔が似合わない、というのは、こういうのを言うのだろう。
「あ、言い遅れた。私は……、こういう者です。もしよろしかったら、少しお話でもいかがです?」
すっと名刺を差し出す。「柳澤生体研究所 所長・柳澤圭司」と書いてある。
「生体……研究所……? 何の研究をしてるんですか?」
思わず、訊いてしまった。
何だか、魁の秘密と、繋がっているような気がした。
「まあ、ここでは何ですから……、場所を変えましょう」
和泉は柳澤に促されるがまま、食堂を出た。
*
「携帯電話がない!」
と魁が騒ぎ始めたのは、和泉の部屋を『半野獣状態』で出た次の日の昼だった。頭からすっかり携帯のことが抜けていたのだが、ふと、思い出した。
柳澤と澪との連絡手段がそれしかないため、いざなくなってしまうと、困りモノだ。何よりも、携帯をなくしたことで、柳澤に叩かれるのが嫌だ。
以前鳥キメラに襲われたときに携帯を落としてしまい、柳澤が家まで届けていた、ということを今日になって澪に知らされた魁は、ますます焦った。あの時は言い訳も出来ただろうが、今回は本当にまずい。どこでなくしたのか、さっぱり思い当たらない。
普段はベルトに括りつけた皮製の携帯ホルダーに入れておくのだが、興奮状態になると、自分に責任がもてないため、どこでなくしたのか記憶にないのだ。昨日のことを、頭の中で整理してみる。特に、携帯を触った覚えがない……。が、もしかしたら……。
「和泉の部屋、かなぁ……」
澪の前で呟いてしまった。冷たい視線に、汗が滝のように流れた。
「そんなに気になるんなら、行けばいいじゃない」
澪は、魁がかっこ悪そうに目をうろうろさせてるのを見てからかった。
実際、それしか方法がない。柳澤に言われるくらいなら……、昨日の今日で、とてつもなく行きづらいけど、合鍵も手元にあることだし……、返しがてら……。
「い、行ってみるか……」
がっくりと肩を落とす魁に、澪はにこにこと背伸びして頭を撫でてくる。
「私も行ってあげるよ〜。一人じゃ、心細いんでしょ〜?」
(それはそれで、嫌だ)
と、言葉にはならなかったが、魁は思った。
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