第5話
次の日の夜、再び和泉のマンションを訪れた魁は、覚悟を決めて、切り出した。
「やっぱり、君とこれ以上、会うことは出来ないと思う」
そう言った魁の目が、少し泳いでいるのを、和泉は見逃さなかった。
「それって、本心じゃないでしょ?」
冷房のよく効いた部屋。リビングのソファーに腰掛けた魁にアイスティーを渡した和泉は、にこりと微笑んで隣に座った。
「言ったじゃない。私、引く気は無いって。魁のこと、好きになっちゃったんだもの。今更、そんなことを言われたって困るわ」
和泉の言うことも一理ある。忘れてしまうには、少し、時間が経ち過ぎた気がする。ほんの、一週間足らずの期間が、一年も二年もあったかのような。濃密で、甘い、愛くるしい時間が、彼らを支配していた。
「俺、人間じゃないんだよ、もう。俺と一緒にいたら、きっと巻き込まれるよ?」
改めて言うのも、恥ずかしい。「人間じゃないんだ」なんて、まともな人間の吐く台詞じゃない。
「──『狼男』って、こと?」
「あ……うん、まあ、正確には違うけど、そんなところだよ……」
魁はアイスティーを啜って、大きく溜め息を吐いた。
彼女との出会いを、思い出す。元に戻り損ねた『野獣』が、『人間の女』に助けられるなんて、かっこ悪すぎた。彼女に、どうしたら自分のことを忘れてもらえるのか、そう思ってマンションを訪れていたはずが、いつの間にか、「そういう関係」になっていた。
肌を重ねるたびに罪悪感が、背徳感が、魁を襲った。興奮しすぎれば『野獣』の姿になってしまうため、彼女に知られないように、ぐっと本性をしまいこんだ。
それでも、彼女に会いたくて、関係を続けたくて……。
澪に指摘されるまで、和泉との仲が、二人にとって、決していいものではないということすら思わなくなっていた。このまま、自分のことを隠してでも、彼女との関係を続けたいという、単純な考えで動いていた。
(──もう、それも終わりにしよう。澪の言う通りなんだ。俺は、彼女とこれ以上いたらいけない男なんだ)
決意に握り締めたはずの両手が、少し迷いがあるのか、小刻みに震えた。
「私が医学を
魁の気持ちをどう受け止めたのか、論理的に返してくる和泉。
彼女のそういう思考は自分には無く、結構好きだ。でも、だからと言って、このまま彼女のペースでずるずると関係を続けてはいけないと、自分に言い聞かせた。
「和泉、君は俺の耳や牙を見て、それでもその存在を否定するのか?」
その言葉は和泉だけではなく、魁自身にも突き刺さった。
「それは……」言葉を濁す和泉。
「本に書いてあること、テレビや新聞が語っていることだけが、世の中の真理じゃない。そこに現れない存在、見えないところで動いているモノだって、ある。俺はその中の一つなんだ。いわゆる『闇の世界の住人』て奴。……わかる?」
思い切って、彼女を突き放そうと、魁は強がった。彼の力強い眼差しに、和泉は少し、たじろいでいるように見えた。
「わからないわ……。魁、あなた、何が言いたいの?」
まだまだ、和泉は諦めない。
「科学技術、医療技術がいいことだけに使われているなら、戦争は起きない。人間て、残酷なんだ。誰かを殺すための道具を、平気で作り出す。その武器同士で戦いを始める。……俺は、その『武器』なんだ。今まで数え切れないくらい、人を殺した。いや、アレが人だったなんて、思えなかった。ただ、目の前にいる、『標的』。だから、相手が死んでも、可哀想なんて思ったことは無い……」
血がざわめき立つ。興奮状態に入ってきた。
つんつんした髪の毛が、更に逆立っているような気がする。目にも、いつも以上に力が入って、そんなつもりは無いのに、彼女を睨みつけている。
「俺はもう、随分前から『人間じゃない』。人間として生きる権利は当の昔に失った。君と出会ったからと言って、それは変わるもんじゃない」
和泉は首を左右に振り、困惑した表情で魁を見ている。
魁の中で、少しずつ、理性が壊れていく。
「真っ黒に染まったものを、白く塗り替える手段はあるのか? それほど強烈な光を、君は持っているのか?」
(違う……、俺の言いたいのは、そんなことじゃない)
心の中で頭を抱える魁。
ぞわぞわっと、全身の毛が立つ感覚。
「黒くなってから、元に戻りたいなんて、考えた俺が愚かだった。和泉との関係で、俺は救われていると勘違いしていた」
牙が現れ始める。
背中から、少しずつ、毛深くなってきた。
「ヤバイ……、少し興奮した……。このままでは、俺は君を食い尽くしてしまう……」
額を押さえ、ふらふらと立ち上がる。
和泉は慌てて、彼の身体を押さえようと手を差し伸べた。
「触るな! 本当に、抑えられないんだ……!」
びくっと、手を引っ込める。和泉はオロオロと、魁から後ずさりした。
ぐらっと、揺れる身体を、必死に押さえ、魁は壁伝いに玄関へと歩く。
「隠し事が多いのは、申し訳ないと思ってる。でも、言えないことだってあるんだ……。察してくれ……」
別れを惜しむように、寂しそうな瞳で彼女に振り返ると、半分獣になった魁は、そういい残して部屋を去った。
*
『言えないことだってあるんだ……。察してくれ……』
イヤホンから漏れる魁の声。
「まあ、魁にしては頑張った方か……」
柳澤はにやりと不敵な笑みを浮かべた。
和泉のマンション前の、前日に二人の関係を目撃したパーキングで、柳澤は部下とともに魁を見張っていたのだった。魁の携帯に仕掛けられた盗聴器から、魁と和泉の会話を盗み聞きしていた柳澤は、安心したのか、ふうと大きく溜め息を吐いた。
「しかし、この、『和泉』という女、興味深いな……。調べてみる価値は、アリか……」
眼鏡をくいと直して、膝の上のノートパソコンを見る。
部屋を出たはずの魁の位置が、動いていない。
「あいつ、また……」
どうやら携帯電話を和泉の部屋に落としていったらしい……。幾ら興奮していたとはいえ、魁はこういうことには全く無頓着すぎる。
「いや、でも……。これは、使えるな……」
顎を擦り、にやにやとマンションの和泉の部屋を見つめる。ベランダから、目を晴らした和泉が、焦燥しきった顔で夜風に当たっているのが見えた。
*
「別れてきたよ……」
そう言ってアパートに帰ってきた魁。
魂が抜けた殻のように、空っぽの頭。最悪の別れ方だ。出会いも、そんなにいいものじゃなかったが。野獣から戻りかけていたところで出会い、野獣になりかけて別れた、なんて、お笑い
ごろんと、畳に大の字で転がる。
澪は、そんな魁の頭を、優しく撫ぜてくれる。枕元にちょこんと座り、何度も何度も、子供をあやすように。澪の優しさが、痛かった。傷付いた魁の心に、ずきずきと染みた。
切れかけた蛍光灯の光は、そのときの魁には、丁度いいくらい、薄暗かった。電車の振動で、ゆらゆらと揺れるのも、まあ、悪くない。貧乏くさい、昭和時代のボロアパートが、自分に合ってる。
背伸びなんか、するんじゃなかった。
キレイなマンション、美しい恋人。そんなのはただの夢だったんだ。
魁は何度も何度も、自分に言い聞かせた。
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