第4話

 柳澤の言うとおり、帰ってきた魁は、いつもと様子が違っていた。

 ぽやっと、何かを考えているようで、何を話しても、まともに返事が返ってこない。かなりの重症だ。


「魁の服のセンスがいつもと違う」


「柳澤が、探してたよ?」


「着ていった服は、どうしたの?」


 窓に肘を掛け、立ち膝で、遠くを見つめる魁を見て、澪は苛々いらいらする。


(なんなの、おかしいよ、魁!)


 いつも無駄に絡んでくる魁が、相手をしてくれない。つまらない。


(あれ……、もしかして……)


 嫌な予感。

 まるで魁は、恋わずらいをしている、乙女のよう。


(女が出来たんじゃ……)



 *



 魁は次の日から、頻繁に家を空けるようになった。行き先を言わずに、ちょっとセンスのよさげな服を着て出て行くあたり、明らかに向かう先は女のところだ、と、澪は直感した。

 約束の木曜の午後に、柳澤が訪れたときも、魁は留守だった。


「なるほど。私も、澪と同感だ。……女か」


 この件に関しては、珍しく柳澤と意見が合った。


「でしょ? おかしすぎるもん。今まであいつ、こんなことなかったのにさ。いきなりだよ?」


 卓袱台ちゃぶだいを囲って、温くなりかけた麦茶を飲みながら、二人は魁について詮索を始めた。偶に空回りするポンコツ扇風機も、首を左右に振りながら談義に混ざる。


「だから言っただろう、おまえの、その子供の身体じゃ、魅力に欠けるって」


「どぉしてそこに辿りつくわけ?! 第一、私は十九! 大人なの! 出てるところ出てるでしょうが!」


「いやいや、くびれが足らん」


「くびれ?! ありますよ、ほら!」と、澪はTシャツをめくる。「確認して! エロオヤジ!」


「……そういうところが子供なんだよ」ムッとして眉間に皺を寄せる柳澤。「魁は、お前を遥かに凌ぐ大人の魅力溢れる女性にでも出会ったんじゃないのか?」


 ぐびぐびと麦茶を飲み干し、だんと卓袱台に置くと、柳澤は澪にこんな提案をしてきた。


「……どうだ、覗いてみるか?」


 柳澤のオヤジ顔が、にんまりと澪の前に迫った。

 澪は少し躊躇したが、やはり、魁のことが気に掛かり、うずうずが止まらない。


「う……うん」


「やなぎさわ行き」のビニル袋を持って、澪は彼の乗ってきた黒いワゴンに乗り込んだ。

 運転手と作業員が一人ずつ、車で待機していた。『野獣』たちに何かあったときのために、常に柳澤と行動をしている男たちだ。


「魁の携帯のGPS情報を見れは、居場所は特定できる」


 柳澤は後部座席に澪と二人で座り、膝の上にノートパソコンを広げて作業を開始した。ディスプレイに、周辺地図が写り、現在地マークと赤い点が現れる。


「案外近くなんだな? チャリで行ける範囲か」


 交通手段が自転車しかない魁。これなら毎日でも行ける距離だ、と、二人は頷いた。


「いつも行く古着屋はここだよ!」


「この間キメラに襲われたビルはここだ」


 互いに指差した場所は、驚くほど近かった。自宅から、鳥キメラに襲われたビル、古着屋、魁のいる女の場所が、直線で結べる。


「なるほど、つまり、だ。あの事件のときに、女に出会ったんだな」


 柳澤の言葉に、澪はこくりと頷いた。



 *



 車は和泉のマンションの近くのコインパーキングで、そこから魁が出てくるのを待った。

 商店街の裏に立てられた十階建ての新築マンション。真っ白い壁に、夕日が当たり、少しオレンジ色に見える。出入りする、綺麗な格好をしたOLや上品な主婦、頭のよさそうな学生、サラリーマン。高架下のボロアパートにはない光景だ。

 午後七時を回り、日がすっかり落ちて辺りが暗くなり始めた頃、マンションから魁が出てきた。

 にやにやと嬉しそうに肩を寄せ合って女と歩いている。

 髪の長い、清楚な女性。優しそうで、賢そうで、……綺麗だ。


「あの女か……。澪に勝ち目はないな」


 車の窓を開け、様子を見ていた柳澤は、一緒の窓から身を乗り出して女を確認している澪に、思わずそう呟いた。


「……魁の、馬鹿ッ!」


 身体を引っ込めると、澪は座席にうつ伏して丸くなった。

 怒りとも悲しみとも似つかない、苦しい気持ち。ざわざわっと、身の毛がよだち、涙が込み上げる。

 澪は持っていた「やなぎさわ行き」のビニル袋を、ぐっとおなかに抱え、肩を震わせた。

 知りたかったけど、見たくなかった。とても嫌な光景。今まで自分だけの男だと思っていた魁が、知らない女と仲良く歩いている。それが、許し難かった。まるで、魁が、知らない世界に行ってしまったかのような、そんな錯覚に囚われる。


「目に見えていたものだけが真実じゃない。魁がお前以外の女に手を出すことだって、ありえることだ。……だが、決して、いい状態とは言えないな……」


 眼鏡の位置を片手で直し、柳澤は、人目はばからず女と別れ際のキスをする魁に、冷たい視線を向けた。





 鼻歌を歌いながら、魁は家路に着いた。

 和泉との時間は長いようで短い。彼女が大学に通う時間の隙間を縫って会うのが、また、刺激的。間男の気分だ。

 清楚だが、情熱的で、はっきりしていて。和泉はまさに、魁の理想のタイプの女性だ。まるで自分とそういう関係になるためにあの場に現れたとしか考えられない。

 澪と一つしか違わないのに、どうしてこんなにも大人びていて、なまめかしいのだろう。柔らかい唇、優しい香り、ふわりと揺れる長い髪。回数を重ねるたびに、彼女の好きな部分が一つずつ増えていく。

 楽しくて、嬉しくて、仕方がない。二人だけの、秘密の関係。

 自分の正体さえ知られなければ、きっと、うまくやっていける。

 マンションからの帰り道、日が沈み、少しずつネオンの灯りが街を彩り始める。ただでさえテンションの高い魁を後押しするかのような、街のざわめき。夜の街へと姿を変えていく商店街。夜風が魁の肌を撫で、髪をそよがせ、いい気分にしてくれる。

 錆付き、がたがたと音のするボロアパートの階段を上がる。何事も無かったかのように玄関を開け、明かりを点ける。靴を脱ぎ、顔を上げ……。

 そんな魁を迎えたのは、色せた畳の上で正座する澪だった。そこからは嫌な空気がこれでもかと漂っていた。


「おかえり、魁。素敵なお姉さんと、素敵な時間、楽しかったでしょうね」


 薄暗い部屋、明かりも扇風機も点けずに出迎えたところを見ると、和泉との時間があまりに楽しくうきうきしていた魁も、流石に意気消沈した。

 覚悟を決めて澪の目の前に正座する。


「大変、ご心配をお掛けして、申し訳ない」


 もう、どう言ったらいいのかさっぱりわからない。なんて修羅場なんだ。魁の身体から汗がだらだらと噴き出てきた。頬をつぅと伝い、顎から零れ落ちる。肩をすくませ、チラッと顔を上げて澪を見る。

 凍りついた顔。見下した目。


「何が申し訳ないの? いいのよ。どうせ私は、魁にとって、たったそれだけの存在だったって、そういうことなんでしょ? 偶々『野獣』になって、一緒に暮らしている。男と女だったから、そういう関係になって……。でも、もう、用済みみたいね、私」


「な、何もそこまで……」


 答えた口が引きつっていた。

 正直、魁の中では、澪はただの同居人になりつつあったのだ。それが、澪に伝わってしまったことが、心苦しい。


「あのさ。魁が元のままの『人間』だったら、人を好きになるのは自由だ、私は身を引くしかない、と思うかもしれない。でもさ、違うよね? 魁は自分が何だか、ちゃんとわかってる? 彼女は知ってるの?」


 ……痛いところを突かれた。

 和泉は、彼が獣になる性質がある、ということしか知らない。魁はその理由を、まだ和泉に話せていない。──話せるわけもないが……。


「何も知らない『人間』を、わざわざこっちの世界に引き込むようなことをしちゃ、駄目だよ。どう考えたって、住む場所も、世界も違う人じゃない」


「う……うん……」


 澪の言うとおりだ。魁も、そう思って、一度は躊躇したはずだったことを、ふと思い出した。


「よく考えてよ。『人間』と『野獣』は、相容れないもんだよ? どちらも傷つくことは、目に見えてるじゃない」


 言葉が震えている。澪は、大粒の涙を流しながら、必死に魁に訴え続けた。


「誰も傷つかない結末なんて、ありえないんだよ? 誰かがどこかで苦しむことになる。私は、魁がそうなるのが、耐えられない……」


 澪がどうして和泉のことを知っていたのか、なんて、そんな単純な疑問さえ持てないくらい、魁は動揺していた。この数日、和泉との甘い時間が彼の大部分を占めていて、自分が『野獣』であることすら、忘れかけていた。


(もう、夢から覚めなきゃいけない時間なのか……?)


 自分の中で次第に大きくなっていく和泉に対する気持ちが、嫌だ嫌だと暴れている。


(苦しい。何故、こんなにも苦しいんだ……)


 項垂うなだれる魁に、澪がそっと、手を差し伸べる。いつものように、優しく頭を胸に寄せ、柔らかな感触が、魁の頬に触れる。ゆっくりと頭を撫ぜる澪の手が、彼の髪の毛をく度に、彼女の想いが痛いほど伝わり、魁は自分の愚かさから涙を流した。

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