第3話

 飲み屋や個人商店が入った雑居ビルの連なる商店街の裏通りに、柳澤教授の車が付いたときには、その場に魁の姿はなかった。

 戦闘が行われたビルの屋上には、「大峰教授の失敗作」だけが倒れていた。


「……あの馬鹿。飯をおごってやるといったのに」


 柳澤は少しつまらなさそうに溜め息を吐いた。

 年恰好から言って、三十代後半か、四十代前半か。半袖ワイシャツに黒いスラックス、眼鏡を掛け、髪を七三に分けた典型的な科学者「柳澤圭司」は、腕組みをして、この殺伐とした事件現場を見渡していた。


「魁の奴、いつもは人目につかないように、もっと高いビルの上で戦闘するはずなのに……。余程切羽詰まっていたのか」


 柳澤に同行した、四人のスタッフが、特殊な掃除用具片手に、血液の跡を消していく。魁が倒した鳥キメラの男の死体も、白い布でぐるぐる巻きになり、運び出される。


「狭い屋上をいっぱいに使って戦った、と言うわけか。客に中継できず、残念だな。さぞかし面白い戦闘だったろうに」


 キメラの倒れていた場所に立った柳澤は、ふと、すぐ側にあるフェンスに気付いた。一箇所だけ、外れている。振り返ると、その場所まで点々と血痕が続いており、キメラが出血した後に自力でこの場所まで歩いてきたことが窺える。


「……魁が倒した敵の動きにしては、妙だな」


 止めを刺したと思われる、大量の血痕があった場所からここまで、数メートル離れている。


「油断したな……?」


 柳澤はぎりりと歯を鳴らした。

 スタッフの一人が、「路地に、こんなものが」と彼に渡したのは、魁の携帯電話だった。裏通りに落下したフェンスの側に落ちていたらしい。

 状況から察するに、魁はあの失敗作に、ビルの屋上から突き落とされたと見るのが自然だった。四階建てのビル、普通の人間であれば即死だが、魁に限って、そんなことはありえないだろう。

 柳澤はますます不機嫌になり、魁の携帯をがっちりと握り締めた。



 *



 その頃、魁は豪華なマンションの一室で、借りてきた猫のようにソファーの上でちょこんと縮こまっていた。シンプルなセンスのいいインテリアと家具、清楚な香り。いつもの六畳一間のボロアパートとは別世界。キョロキョロと不自然にあちこち見回し、肩をすくませる。


「本当に、お医者さんに行かなくて大丈夫なの……?」


 この部屋の持ち主、医大生の和泉いずみが彼にそう話しかけても、魁は半分上の空だった。


「服は大丈夫だった? サイズとか……。趣味合わなかったら、ごめんね」


「あ。う、……うん、大丈夫。ありがとう。わざわざ買って来てくれて……」


 その部屋に住むに相応ふさわしい、清潔感に溢れ、上品で、美しい女性。澪とは正反対の彼女に心配され、魁は照れくさそうに笑った。


「どうして……どうして、俺を助けたんだ……? 真昼間の狼男なんて、普通に考えたらありえないだろ?」


 二人がけソファーの隣に座った和泉に、魁は恐る恐る尋ねた。

 彼女は長いストレートの黒髪をサラッと揺らし、魁を見つめて、こう答える。


「人を助けるのに、理由なんて要らないよ?」


「だとしたって、ここまで……」


 魁は言葉を詰まらせた。

 和泉は、医大から自宅マンションへ帰り道に、魁が落ちてくるのを目撃した。大きな音とともに、屋上から落下した魁を放っては置けなかった。まだ息があり、必死に生きようとしていたからだ。

 かたくなに医者を拒否するが、明らかに血まみれで、あちこち引っかかれたような傷がある。触診し、骨折がないことを確かめてから、彼を立たせた。服に大量の血痕がついていたが、彼自身にそれ程の出血した跡は見当たらない。

 何よりも彼の風貌は、変わっていた。完全に落ち着くまで、犬のような耳が元に戻らず、彼女は自分のハンカチを被せて、二ブロック先のマンションまで肩を貸して歩いた。

 部屋に着くと、彼女は魁にシャワーを貸し、その間に彼が行くはずだった古着屋から、適当に服を見繕い、お昼と称してパスタをご馳走した。

 魁は『野獣』になってから、これほどまで他人に優しくされたことはない。闇に染められた現実の中に、パッと、光が灯ったような心境だった。


「そりゃね、最初はドキッとしたよ? 自殺かと思った。でも、様子がおかしいし、……あの、獣みたいな顔が元に戻るまでは、本当は、怖くて仕方なかったけど……。でも、思い切って助けて、よかったかな。見殺しにしてたら、私は自分自身が嫌いになっちゃうもの」


 微笑む和泉に、魁は決まり悪そうに言い返す。


「助けてくれたのは、感謝する。本当にありがとう。……でも、これ以上俺とは関わらないほうがいい。むしろ、忘れてくれないかな。君と俺とでは、住んでいる世界が違い過ぎるんだよ」


「何? それ? 違うってどういうこと?」


 思いもよらない魁の台詞に、和泉は怪訝けげんそうに首をかしげた。

 申し訳なく思い、一つずつ言葉を選びながら、魁は答える。


「世の中には、知らないほうがいいことだってある。医大に通ってるって、……言ってたよな? そんな将来のある奴が、俺に関わっちゃ駄目なんだ」


「それでも」


 和泉は傾げたまま、にっこりと笑った。


「私は、引く気はないわよ? 見ちゃったんだもの。そして、何か秘密を抱えている、あなたのことが気になってしまった。……駄目?」


 魁はぎくりとして肩をすくませた。

 屈託のない笑顔で見つめる和泉に、返す言葉が見つからなかった。



 *



「入るぞ!」


 ボロアパートの鍵のない扉がバタンと勢いよく開く。


「魁はどこだ?!」


 柳澤だった。

 暑さのあまり、下着でごろごろしていた澪は、キャーと叫びながら、慌てて側にあった魁のエロ本を投げつけた。バサリ、と、柳澤の眼鏡に本が当たって畳に落ちた。


「魁は買い物中だよ! まだ帰ってない! 女の子のいる部屋に来るときはノックくらいしなさいよ、このエロオヤジ!」


 カタカタと音を立てる扇風機で身を隠しながら(実際は全く隠れていないのだが)、澪は柳澤にあかんべをする。


「お前のような子供の裸を見たところで、私が興奮するはずがなかろう、くだらない。……そうか、まだ帰っていないのか……。すると、外部の者と……」

 ブツブツとなにやら呟き、顎を擦りながら思案する柳澤。澪は嫌な予感がして、聞き返した。


「魁に、何かあったの?」


 柳澤は澪の側にかがむと、ズボンのポケットから、四角いものを取り出して彼女に突きつけた。

 ワインレッドの、ストラップのない、携帯電話。魁のものだ。


「え? どうして柳澤が持ってるの?!」


 扇風機の前から這い出て、携帯電話を受け取る。よく見ると、全体に打ち付けられたような傷がついている。


「道路に落ちていた。さっきまで、ちょっとした戦闘状態だった。魁は携帯を落としたことに気付かず、そのまま消えてしまった。ここに戻っていると思ったんだが」


「昼間から敵が出たの?」


「他の研究所の失敗作がな、暴走したんだ。魁はそれを倒して、私が処理に向かうのを待っていたはずなんだが……、どこにも……」


 電源の入らない携帯を、澪は切なそうに見つめた。柳澤の話は、半分しか聞こえていなかった。

 魁のことを考えれば考えるほど、澪の胸の鼓動が高鳴り、息苦しくなった。


(こんなことは、今までなかったのに……)


 偶に自身の暴走が止められなくなる、魁。戦闘状態に入っていた、ということは、『野獣』に姿を変えていたということ、そのまま、我を見失ったんじゃ……。


「お前の心配するような事態は起きていない。安心しろ」


 察したのか、柳澤は澪にそう言った。よかった、と、澪は胸を撫で下ろす。


「もし、魁が戻ってきたら、少し警戒したほうがいい。いつもと違うことがあれば、私に報告しろ。それと、魁の新しい携帯だ」


 壊れた携帯と同じ型の、真新しいそれを受け取る。


「また木曜の午後に来る。そういう約束だからな」


 言い残すと、柳澤はそのままの勢いで、部屋からいなくなった。

 半開きのドアが、外の生ぬるい風を運んでくる。ジージーと泣き喚く油蝉の音と、電車の走る音が、近くに聞こえる。

 涼ませる相手を失った年代物の扇風機の風が、部屋の隅に置かれた、「やなぎさわ行き」のビニル袋をゆらして、カサカサと音を立てさせていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る