第6話 揺らぐ極東

 スターリンは悩んでいた。

 ドイツの割譲は進み、すでに大戦は終結ムードを迎えていた。

 現状において、日本はすでにアメリカの支配下にある。確かにアメリカとは日本も分割統治の密約を結んでいるはずだったが、あくまでもそれは密約に過ぎない。公然として、分割を求める事も、それを口実に侵攻する事も難しい。それどころか、北方四島への侵攻自体が日ソ不可侵条約違反に取られる可能性もあった。

 「アメリカ側はこれ以上の侵攻に関しては条約違反を日本に提訴させる可能性もあると示唆しているか・・・あのクソ野郎・・・だが、これ以上、極東で損失を悪戯に増やしても・・・意味は無いか・・・」

 彼が机上に置いた地図を眺めながらウォッカを飲んでいると、隣から女の手が彼の顎に伸びる。

 「あら・・・もう、手詰まりなの?」

 その華奢な白い手で顎を撫でられたスターリンはいつもの野獣のような雰囲気を一転させ、猫が甘えるように顔を崩す。

 「そんな事は無い。世界を我が手に入れてやる」

 スターリンはウォッカを煽りながら、そう口にした。女はそれを笑みを浮かべながら見ている。

 「そう・・・だけど、まだ、東も西も・・・空いているわよ?」

 女に挑発されて、スターリンはまるで瞬間湯沸かし器のように顔を真っ赤にさせて、激高する。

 「解っている!そんな事は解っている!あぁ、すぐにやってやる。あのアメリカに良いようにさせてたまるか!」

 スターリンの言葉は数時間後には現実となっていた。


 ウクライナ領セヴァストリポリ

 黒海艦隊の司令部は大騒ぎだった。

 「命令の確認を急げ。こんな馬鹿げた命令を実行が出来るはずが無いだろう?」

 イワノフ艦隊司令は激高していた。彼に与えられた命令は荒唐無稽で、実行不可能に近いものだった。

 「同志。これはクレムリンからの勅命である。命令に応じられないとならば、貴官を逮捕せねばならない」

 政治将校が部下を引き連れ、彼の前に立っていた。その姿は階級が下であるにも関わらず、とても威圧的であった。

 「それは解っているが・・・黒海艦隊の殆どを日本に向けるなど・・・正気の沙汰じゃない」

 「安心しろ。あくまでも壊滅した太平洋艦隊の代わりになるだけだ。孤立した我等の領地に補給をする為の護衛任務でしか無い」

 政治将校の言葉にイワノフは彼を睨み付ける。

 「それで、なんで黒海艦隊の全ての艦艇が必要なんだ?ここの防衛はどうする?幾ら大戦が終結したばかりだと言っても、誰も攻め込んで来ないとは限らないぞ?」

 「その時はブルガリアやルーマニアなどが居る。ここは簡単には攻められはせんよ。それよりも今の戦場はオホーツクである。早く、艦隊を動かす準備し給え」

 「早く・・・これだけの艦艇をオホーツクまで移動させるのに必要な事がどれだけあるのか知っているのか?それを計算させるだけで主計係が頭を抱え込んでいるんだぞ?正直、ここに備蓄されている燃料なども足りるかどうか・・・」

 イワノフは言い訳めいた事を次々と放つ。それを聞いている政治将校の額に汗が流れる。

 「黙れ。敗北主義者として裁くぞ?同志」

 政治将校はイワノフを恫喝する。

 「そう言って、何人の軍人を処刑台に送ったんだ?同志」

 イワノフも負けてはいなかった。

 「ふん・・・しかし、この命令が履行されねば・・・どちらにしても貴様や貴様の部下がどうなるか・・・解るだろ?これは私の意思では無いのだよ?」

 政治将校にそう言われて、イワノフは黙るしかなかった。

 黒海艦隊に所属している艦艇はイタリアなどからの賠償艦を入れてもそれほどの艦艇数では無い。だが、それでも全ての戦闘艦とそれらを支援する艦艇を含めた艦隊を移動させるとなれば、かなり大規模なものとなる。これらを僅か一日の猶予で黒海からオホーツク海まで移動させるのは事実上、不可能であった。だが、スターリンはそれらを即座に移動させ、2週間以内に北方四島へ物資と人員を送り込み、更に1ヵ月以内に北海道の制圧を行い、密約に従って、日本の分割統治を実力行使するつもりだった。

 

 アメリカ合衆国 ホワイトハウス

 大統領執務室では驚きの声が上がった。受話器を持ったまま、大統領は驚きのまま、固まってしまう。

 「あなたは本気か?」

 僅かな間を置いてから、彼は一言、受話器に向かってそう告げた。相手はスターリンだった。

 『あぁ、密約通りに日本を分割統治させて貰う。無論、依存は無いはずだな?』

 スターリンがどのような感情で言っているのかは通訳を通した言葉からは解らないが、きっと、相当に悪い顔で言っていると大統領は思った。

 「確かに・・・密約ではそうだが・・・事実として、すでに日本は戦闘を停止して、多くの連合国と和平を結んでいる。今更、進軍するのは・・・世界の和平ムードに水を差すのでは?」

 大統領はそう告げるのが精一杯だった。だが、それを聞かずにスターリンは電話を切ってしまった。

 当然ながら、この事はアメリカ側から日本へと極秘裏に知らされた。

 大本営ではあまりに唐突なソ連の行動に懐疑的でありながらも対応に迫られた。

 現状において、日本海軍の戦力はその多くが海防艦、または駆逐艦であり、僅かに残されていた戦艦、巡洋艦はその多くが、未だに修理中であったり、改装中のままだった。

 「黒海艦隊の目的が我が海軍の壊滅とは・・・考えにくいな。数で攻めるにしても彼等の保有する艦艇の多くもかなりの旧式艦であったり、イタリアやドイツの賠償艦で、その訓練もそれほど終わっているとは思えない状況だと考える。だとすれば、現在、困窮する北方四島への補給が目的かと思われます」

 会議では事態を分析する情報士官が資料を基に説明を行った。

 「戦闘が目的では無いとすると・・・奴等は数で輸送艦群を守り、我々の補給線遮断を突破するつもりなのだな?」

 「それがまともな見方だと思います」

 「それでは・・・我々がこれまでやってきた事が無駄になる。それにあそこに強固な基地を作られたら、それこそ北海道侵攻の危険が高まるのではないか?万が一にも黒海艦隊がそのまま、オホーツクに残留した場合、脅威だぞ?」

 参謀の一人が不安を吐露する。それは誰もが思う事だった。黒海艦隊の目的が戦闘で無いにしろ。それは近い将来の脅威に違い無かった。

 「解っているなら・・・黒海艦隊がオホーツクに到着する前に決戦を仕掛け、その多くを沈めるしかありません」

 若い参謀は緊張した面持ちで答える。

 「やれるか?」

 「巡洋艦と戦艦の一部は実戦配備可能であります。現在、元乗組員を中心に乗組員を集めております」

 「修理中や改装中ばかりだが、大丈夫なのか?」

 「大丈夫ではありません。ただ、動くだけです。アメリカの装備を搭載した艦などはその慣熟訓練を行う暇がどれだけあるかですかね」

 「主要戦力である戦艦や巡洋艦がまともに使えないとなると・・・潜水艦による攻撃しか戦果は見込めないのでは?」

 「無論、危険ではありますが・・・現存する潜水艦戦力の多くを黒海艦隊の進路に差し向けるしかないでしょう・・・だが、奴等もその辺は考えているでしょうから・・・どれだけ効果が上がるか・・・」

 「だとすれば・・・黒海艦隊が到着するまでに・・・やはり、北方四島を奪還するしか無いようだな」

 大本営は決断を迫られ、御前会議の開催が決定された。

 

 その頃、モスクワの在露アメリカ大使館でも動きがあった。

 「奴等・・・我々の動きを完全に封じ込めるつもりだな」

 一等書記官のピーターは窓から外を睨みながら呟く。

 窓の外には警察官の数が多く見受けられた。この事について、ソ連側からの連絡は一切無い。

 「今、調べましたが、無線は使えませんね。やつら、この一帯に妨害電波を流しているようで、ラジオも聞けない有様です」

 大使館職員の男が困った表情で現れた。

 「本国からの連絡も不可能・・・何があったか」

 全ての情報が無く、更に不用意に外に出る事も危険な為に情報収集も出来ない状況に大使館内は不安に包まれていた。

 朝から室内でタイプライターで書類を作成しているのは大使館職員として勤務している日本人少女だった。その少女にコーヒーの入ったカップを差し出すアメリカ人女性。

 「スターリンは何かをやるつもりね。まさか、アメリカと戦争なんてしないわよね?さすがにこの国の現状では勝てる見込みが無いと思うけど」

 ルーシーは少し笑いながら言うが、瞳の奥には不安があった。話し掛けられた瑠璃はタイプする手を止めずに答える。

 「解りません。ただ・・・魔女の気配が強くなった気がします。前はここでは感じ取る事が出来なかったのに・・・今は僅かながら、気分の悪い気配を感じ取っている気がします」

 「気がするだけ?」

 「はい・・・明確な感じではありませんが・・・ただ、魔女が動いているとしか言いようがありません」

 「ふーん・・・まぁ、何にしても今は動けないわ。奴等、暗殺ぐらいはお手のものだからね。イギリスのスパイより質が悪いわ」

 「イギリスのスパイ?」

 「えぇ・・・あの国には専門の諜報組織があるのよ」

 「それで・・・ここは安全なんでしょうか?」

 瑠璃が少し不安そうに問い掛ける。

 「怖くなった?」

 「いえ・・・私も鬼を倒す力はあると言ってもそれ以外はただの人間なので」

 「なるほど・・・安心しなさい。何があってもあなたの身だけは私達が必ず守るから。こう見えても、銃の腕はそれなりにあるんだから」

 ルーシーは脇の下に納めた自動拳銃をチラリと見せる。

 「そうですか・・・ただ、逃げてばかりじゃ・・・魔女を討てないのですが」

 「解っているわよ。だけど・・・魔女は本当に世界を戦禍に巻き込むつもりなの?それじゃ、まるで世界を道連れに自滅するようにも思うけど・・・なんせ、我が国には原爆があるのよ?あれを100個も落とせば、ソ連だって壊滅するわよ?」

 この時点では広島、長崎に落とされた原爆についての情報は伏せられている為にその惨劇を精確に知っている者はアメリカにも日本にも少なかった。

 「魔女の狙いはただ、この世界を地獄に変える事だけ。多くの人々の阿鼻叫喚で埋め尽くされれば、それで満足する。未来なんて要らないのですよ」

 「なるほど・・・魔女って奴は数千年、生きているにも関わらず、未来を求めないなんて・・・人類が滅んだら、どうするつもりなのかしらね?」

 「さぁ・・・そもそも、魔女が何故、存在するのかさえ・・・我々には解らないのですから、彼女が何を思って、人々に殺し合いをさせるかなんて、解りませんよ」

 瑠璃はタイプを打つ手を止めた。

 「日本への報告書を作成しました。これを本国に送る手は・・・ありますかね?」


 捕虜の反乱によって、北方四島の幾つかの施設が日本兵の占領下となった。

 「本当に本国は応援に来てくれるんでしょうかね?」

 ソ連軍の物資貯蔵施設を占拠した捕虜集団を率いる井伏は部下に尋ねられて考え込む。日本がソ連を相手に再び戦争を起こすような事をするかどうかなど、あまりにも希薄な望みでしか無かった。

 「まぁ・・・何をしなくても餓えて死ぬだけだった事は倉庫を見れば解る。露助の奴等も食料が底を尽き掛けていたんだからな。まぁ・・・それなりに飯が食えただけ満足するしか無いかもしれないが・・・」

 井伏の弱気な発言に部下達も黙ってしまった。

 

 不穏な空気が北方四島を包む中、オホーツク海では新しい動きが起きていた。

 燃料不足の為に動かない沿岸警備用の小型艇を横目に埠頭で双眼鏡を覗くソ連兵が沖合に船影を確認した。

 「味方の輸送船か?」

 彼は期待をしながら必死に船影を確認しようとした。だが、次の瞬間、空気を切り裂くような音が響き渡った。彼はそれが船影から発射された砲弾だとすぐに解った。だが、彼が逃げるより先に砲弾は埠頭を襲う。

 次々と襲う砲弾は建物などを破壊し、そこに駐屯する僅かな警備部隊を吹き飛ばした。僅か数分の艦砲射撃によって、入江に僅かに構築物を置いただけの簡素な埠頭は消し飛んでしまった。これと同様の事が他の港においても同時に行われた。これにより、沿岸部のソ連軍部隊は壊滅した事になるが、あまりに電撃的な事にこの事態を北方四島のソ連軍司令部は把握していなかった。

 

 日本海軍所属駆逐艦『花月』艦橋

 「艦長、艦砲射撃の評価であります」

 副長が地図を指し示しながら説明を始める。

 これまで、ソ連海軍艦艇との戦闘を避ける為、北海道沿岸の警備しかしていなかった駆逐艦であったが、大本営からの命令に従い、北方四島沿岸へと急行、主要施設に対して、艦砲射撃を実行したのである。

 「周囲の警戒を厳にせよ。ソ連艦艇が居ないとは限らないからな」

 ソ連との戦争は終わっていないわけだが、世界的な和平ムードを優先した日本政府は本格的な戦闘を表立って行ってこなかった為に、現状において、ソ連軍の精確な情報は持っていなかった。

 「主力艦隊が到着するまで、我々はこのまま、警戒行動に入る」

 艦長はいつ、本格的な戦闘に入るのかと緊張した面持ちで双眼鏡を覗いた。

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