第3話 北海の猟犬

 「暑いな・・・」  

 元日本陸軍中尉の井伏茂雄はスコップで地面を掘っていた。

 彼は満州でソ連軍の捕虜となった。

 「中尉・・・いつまで続くんですかね?」

 ソ連兵の監視下で強制労働をさせられる生活がすでに1年、続いていた。彼と共に捕まった部下の黒瀬は不安そうに彼に尋ねる。

 「さぁな・・・。もう、戦争は終わったと言うのにな」

 すでに戦争が終わった事はソ連軍の兵士から伝わっている。ただし、彼等からは日本が負けたという事になっている。

 「やはり、戦争に負けた事で、我々は戦犯か何かで処刑されるのでしょうかね?」

 「解らん。ただ、我々の任務は出来る限り、多くの情報を掴み、それを本国に持ち帰る事。その為に捕虜になったわけだが・・・思うようにはいかないものだ」

 井伏は溜息混じりに呟く。

 季節が夏だから、太陽が輝き、汗ばむ程度の気温はあるが、長い冬になれば、雪と氷に閉ざされる極寒の大地となるシベリアで彼等は抑留されていた。すでに多くの日本人がここで倒れ、亡き者になっている。

 「日本が負けたとして、我々の任務はどうなるんでしょうか?」

 「任務か・・・まぁ、生きて帰る方が先だな」

 井伏はそう答えると再び、スコップを手にした。

 

 そんな彼らが必死に整備しているシベリア鉄道を使い、ソ連各地から運ばれた物資や兵員が輸送船によって、北方四島へと運ばれようとしていた。

 「輸送船15隻に対して、護衛が駆逐艦2隻だと?」

 輸送船団の団長に任命されたバハコフ船長は激しく怒りを露わにした。

 日本との戦争はまだ、終わっていない。ソ連は日米和平条約を結んでいないからだ。その原因は北方四島の帰属を巡っての事である。日本側は日ソ不可侵条約に従い、北方四島への侵攻は国際法上違反だとしている。だが、スターリンがそれを認めるはずも無く、交渉は途絶えた。

 北方四島を巡って、領土争いが継続している為に、この海域は危険だとしか言いようが無い。軍上層部はすでに日本側は降伏状態にあり、この海域に兵力を配置していないと言うが、それを真に受けていたら、魚雷で撃沈されかねない。

 「万が一にも日本の潜水艦に攻撃を受けたらどうするのかね?」

 彼は護衛を担当する駆逐艦の艦長に怒鳴る。

 「バハコフ同志、そこまでにしないか。軍は大丈夫だと言っている」

 割って入ったのは政治将校のミハエルだった。

 「むぅ・・・解った。だが、万が一にも攻撃を受けたら、軍に責任を取って貰うからな」

 バハコフはそう言って、駆逐艦の艦橋から出て行った。

 

 伊号第58潜水艦

 「田中一曹、アメリカさんのソナーの具合は?」

 飯島艦長は気分が良かった。

 彼が操るこの歴戦の勇士である潜水艦はアメリカ海軍によって破壊されるはずだったが、それを免れるどころか、アメリカ製のソナーや電子装備などを実装するなどして、戦闘力を倍増させた。

 「明瞭ですよ。今ならクジラの交尾をしている音だって解ります」

 ソナー員は笑いながら応える。

 「しかし・・・まさか、こんな任務を受ける事になるとは思わなかったが・・・」

 飯島はほくそ笑みながら呟く。

 「艦長、作戦海域まであと3時間です」

 航海長が海図を前に艦長にそう報告した。

 「そうか・・・ふん・・・コソ泥に一泡吹かせてやる」

 飯島は海図を睨んだ。

 

 2隻の駆逐艦に護衛された輸送船団は北方四島に向けて進んでいた。

 ソ連の極東艦隊は終戦間際の海戦で多く損傷し、未だに補充はされていない。限られた艦艇で北方四島を周辺の警備が行われている現状では輸送船団の護衛に駆逐艦を2隻付けるだけが手一杯だった。

 「不安しかない」

 輸送船団を指揮するバハコフは不満を露わにする。彼は出航してからずっと不満を漏らしている。政治将校が近くに居たら、どうなるか解らないような事まで口走っている。だが、この艦橋に居る者は皆、彼と同じ気持ちだった。

 「艦長、万が一、日本の潜水艦や航空機に攻撃を受けたらどうするんですか?」

 航海士の疑問にバハコフは少し考え込む。彼は根っからの民間輸送船の船長である。軍からの強制でこのような任務に就いているが、正直、海戦の経験も知識も無かった。

 「まぁ・・・武器も何もないんだ。とにかく逃げるしか無いだろう。ただ、下手動くとアレの主砲がこっちに向くからなぁ」

 バハコフは護衛に付いている味方の駆逐艦を見た。

 護衛と称しているが、彼らは輸送船が逃げ出さないように見張る役目もある。

 「早々に逃げ出すと味方に撃たれると?」

 副長が尋ねる。

 「あいつらはその気満々だよ。我々の本当の敵だ」

 バハコフは嫌そうに吐き捨てる。

 あと1日で目的地に辿り着く。だが、ここからが最も危険な海域である事は軍人ではないバハコフにも解っていた。

 夕暮れが近付く。海は沈む太陽でギラ付いた。

 「夜間になる。念のため、監視員を多くしておけ・・・俺もこのまま、艦橋に残る」

 バハコフは真剣な表情で副長に伝える。艦橋の緊張感は高まった。

 その時だった。突然、後方に位置していた輸送船数隻の側面に水柱が立った。

 「何が起きた?」

 バハコフは突然の爆音に驚いて、艦橋から飛び出し、後方に双眼鏡を向けた。そこには黒煙を上げて、傾き、沈んでいく僚船の姿があった。

 「魚雷か?9時から魚雷攻撃を受けた。ジグザグに船を動かせ。駆逐艦に連絡しろ」

 潜水艦による一斉魚雷攻撃だった。相手の位置は不明。多分、相手は攻撃を繰り返してくる。危険だった。

 「他の船に連絡。各々で対応しろ。とにかく、生き残ることを考えろと」

 「了解」

 バハコフの指示が伝わり、他の船も拙いながら、魚雷から逃げるように動き始める。それはとても艦隊行動とは呼べない動きだった。だが、そのバラバラな動きに反応したのは敵潜水艦では無い。

 砲声が轟く。

 一隻の輸送船の直近に水柱が立つ。

 「こちらアドミラル・パンテレーエフ。勝手に艦隊から外れれば、敵前逃亡として沈めるぞ」

 駆逐艦からの無線が艦橋に響き渡る。

 「野郎・・・陸に上がったら殺してやる」

 バハコフは怒りで顔が真っ赤になる。

 回避運動を取り始めた輸送船も再び、列を成そうとしていた。そこに違う方角から魚雷が飛び込んだ。更に3隻の輸送船が重大な被害を受け、航行不能へと陥る。

 「このままじゃ、全滅するぞ。駆逐艦は何をやってやがる?」

 バハコフは必死に敵潜水艦を探しながら怒鳴るしか出来なかった。

 

 伊号第58潜水艦の艦橋では静かに、それでいて、全員がテキパキと動いていた。

 「ふむ・・・輸送船、3隻への命中を認める」

 艦長は潜望鏡を下げる。同時に潜水艦は急速潜航を始める。

 「敵駆逐艦2隻の動きが悪いですね」

 副長は想像通りに敵の駆逐艦が動かない事に苛立つ。

 「あぁ、普通なら、対潜行動を取るはずだが・・・我々の想像以上に素人の艦長なのだろうか?」

 艦長も気にしていた。だが、一度、開いた戦端は簡単に閉じる事は出来ない。彼らは命じられた事をやり遂げる事しか無かった。

 海中は沈む輸送船などで雑音が酷かった。ソナー員は必死に敵の行方を探る。暗闇とは言え、潜望鏡深度まで浮上すれば、相手に見つかる可能性もある。ここから先は読み合いだった。

 航海長は海図を示し、ソ連艦隊の航路を予測する。

 「敵は回避行動をまともに取っている形跡がありません。だとすれば、こう真っ直ぐに突き進むつもりでは無いのでしょうか?」

 「しかし・・・輸送船だぞ?潜水艦から逃れるにしても、船足が遅く無いか?」

 副長がそれ否定する。

 「ソナーでの探索が難しくなるのを狙って、回避行動を取ると共に進路を変える可能性は・・・あるかもな」

 艦長は敵艦隊の進路が急激に変わる事を危惧する。

 「相手は駆逐艦を二隻、残している。万が一にもこちらの位置が判明すれば、反撃を受ける可能性もある」

 艦長の言葉に全員が唾を飲み込む。

 「それでは・・・どうしますか?」

 「まずは一度、無線通信を行って、敵艦隊の位置を知らせる。それから敵を失探しないように追跡する。可能であれば・・・仕留める」

 「了解」

 再び、潜水艦は慌ただしくなる。


 ソ連輸送船団は最大速度で海域からの脱出を図っていた。

 「船長、最後尾のゴロドワが機関から出火中!出力が半減しました」

 「くそっ・・・駆逐艦に連絡、対応を聞け!」

 バハコフは返答を予想しながらも、通信士に連絡をさせる。

 「船長!見捨てろです」

 通信士の言葉に苛立つバハコフ。しかし、ここで止まれば、潜水艦の餌食になるのは間違いが無かった。

 「先行する護衛艦が更に船速を上げました。離されます」

 前方を監視する航海士が叫ぶ。

 「野郎・・・何のための護衛だよ。糞野郎が」

 バハコフが激昂する。

 「船長、これ以上、最大船速を続けると主機が壊れると機関長が言ってます」

 「だろうよ。こんなオンボロに無理させやがって。とにかく何とか動かせ。止まったら魚雷を撃ち込まれるぞ」

 艦橋は誰もが必死だった。暗闇の中、いつ、撃沈されてもおかしくないのだから。

 「船長!最後尾の駆逐艦が被弾したみたいです!撃沈したとか・・・」

 通信士が叫ぶ。

 「ふん・・・役に立たねぇな」

 バハコフは少し留飲を下げたように見えたと副長は思った。

 「船長、どうしますか?このままだと俺らも・・・」

 副長が不安そうに尋ねる。

 「護衛も無しに貨物船が潜水艦から逃げ切れるわけが無いだろう?」

 バハコフは諦めたように椅子に座った。

 「白旗を上げろ。潜水艦からしっかりと見えるようにな。それで機関を停止して、反抗の意思が無い事をしっかりと見せろ。それしか無い」

 「味方の駆逐艦が気付いたら、我々は撃たれるのでは?」

 「知るかっ!」

 バハコフはそう怒鳴ると遥か先へと進んだ駆逐艦の影を見た。

 

 「んっ?敵輸送艦に白旗が上がったぞ?」

 潜望鏡を覗いていた伊号艦長は攻撃を仕掛けようとしていたソ連船の動きに注視する。徐々に速度を落とすソ連船はどうやら降伏を願っているようだ。

 「まぁ・・・沈められるよりマシという判断だろう」

 艦長は相手の意思を汲み取り、攻撃を中止する。

 「艦長、どうしますか?」

 副長の問いに艦長は僅かに考える。

 「司令部に連絡をする。彼らを鹵獲して貰うしか無いだろう。彼らにはその旨を説明しないといけないが・・・」

 艦長は潜望鏡で周囲を探る。

 「敵駆逐艦はかなり先行しています」

 ソナー員がそれを察したように告げる。

 「守るべき者を見捨てたか・・・」

 そう思っていた時、突如として爆音が響き渡る。

 「くっ、砲撃か?急速潜航!」

 艦長が叫ぶ。


 海面に水柱が立つ。

 揺れる船体。

 バハコフは窓の外を睨みつけた。

 「野郎・・・撃ってきやがった」

 彼が睨みつけるのは味方の駆逐艦である。先行していた駆逐艦は回り込むように動き、輸送艦の近くに砲弾を撃ち込んだ。

 「船長、通信です。すぐに動き出せ。敵前逃亡で沈めるそうです」

 「そうかい・・・こういうのを何とかって諺が東洋にはあったな・・・前門の狼、後門の虎だったか?」

 バハコフは焦る様子も無く呟く。

 「何を呑気に・・・それでどうしますか?撃たれますよ?」

 副長もどこか諦めた感じに尋ねる。

 「ふん・・・こんなポンコツ貨物船じゃ、大砲からも魚雷からも逃げられない。だったら、自分の運命をテーブルに乗せようじゃないか」

 二発目の砲弾が味方の船のすぐ傍に着弾した。

 駆逐艦は潜水艦を恐れているのか、距離を詰める事はしないが、輸送船の群れを囲う牧羊犬のように回っている。

 「煩いぐらいに動けと言ってますよ」

 通信士が呆れた感じに報告する。

 「俺らが欲しい通信じゃない。無視しろ」

 バハコフは面倒くさそうに答える。その間にも水柱が立つ。

 「ロシアンルーレットですね」

 副長が水柱を見ながら呟く。

 「そうだよ。俺らは試されているのさ。クレムリンの豚か東洋の猿にな」

 バハコフがそう笑った時、駆逐艦が爆発した。艦中央から黒煙が上がり、まるで折れ曲がるように沈み始める。

 「ふん・・・猿の勝ちか・・・俺らはしばらく、暖かい場所に居る事になりそうだ・・・」

 バハコフは沈む駆逐艦を望みながら、まだ見ない極東の島を想った。


 駆逐艦を葬った伊号第58潜水艦はゆっくりと浮上した。

 「周囲に貨物船以外の艦艇は見えず!」

 セイルに立った士官が海原を双眼鏡で眺めた。

 「ソ連の貨物船ですか・・・中身は何でしょうね?」

 同じくセイルに立つ士官が興味本位で隣の士官に尋ねる。

 「戦車か・・・弾薬ぐらいだろう。北方四島じゃ、何も手が入らないからな」

 「下手したら、飯だって手に入りませんよ。我々が奴らの補給路を潰しているんだから」

 彼が言う通り、日本海軍に残された数少ない潜水艦は米軍から貸与された装備を備えたりして、ソ連軍を干上がらせる為にこの海域に放たれた。彼らの目的は当然ながらソ連の南下を食い止める事。それは北方四島だけじゃなく、彼らが狙っている朝鮮半島や満州へのけん制であった。

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