第2話 魔女
1945年9月2日 東京湾 戦艦ミズーリ
甲板上には緊張した面持ちの男達が勢揃いしていた。
アメリカ合衆国・イギリス・フランス・オランダ・中華民国・カナダ・ソビエト連邦・オーストラリア・ニュージーランドが降伏文書に調印を済ませ、この日、日本は正式に降伏を受け入れた事になる。
調印式に参加した重光葵外務大臣と梅津美治郎参謀総長は疲れたように椅子に腰かけた。その横に同じように調印式に参加していたアメリカの代表であるニミッツが座る。彼は周囲を見渡した後、小声で重光に耳打ちをする。
「重光さん・・・ソ連は北海道を諦めていないようだ」
「解っています。北方四島を占拠しているソ連軍の再編成が確認されています」
重光にも情報は入っていた。
「極東の安定は君たちに掛かっている。アメリカは君たちを支配下に置きつつも、最大限の援助を行う。共産主義者の勝手にさせるな」
「はい」
ニミッツの言葉は重光にとっては予想通りだった。アメリカはソ連を含め、共産主義の台頭を恐れている。そのお陰で日本は独立国家として生き残る事が出来た。
「それと・・・OSSからの情報だ。ヒトラーの魔女をスターリンが手に入れた」
ニミッツの言葉に重光は眉間に皺を寄せる。
「魔女?・・・申し訳ない。それは何かの暗号ですか?」
重光は素直に魔女の意味をニミッツに尋ねた。
「ふふふ。日本は知らないのか。魔女は魔女だ。まぁ・・・我々としてもまだ、深くは知らないが・・・こいつは戦禍を好む魔女らしくてね。こいつに魅入られた者は戦争、虐殺など、人間の血が流れることを望むみたいだ」
「そんな迷信を・・・」
重光はニミッツに笑いながら告げる。
「悪いが・・・我々は冗談だとは思っていない。事実、ソ連は日本に対して、条約破りの手で侵略を試みている。満州もそうだ。いや、中東、中央アジアやヨーロッパに至るまで、スターリンはあらゆる場所へと侵略を行おうとしている。第二次世界大戦が終わったばかりなのに、奴は新たな戦争の火種を点けて回っている」
ニミッツの言葉に重光の表情は凍り付く。
「し、しかし・・・突然、そんな事を言われてましても、我々には余力がありません・・・ソ連と全面戦争など・・・不可能です」
重光の言葉にニミッツが笑みを浮かべる。
「安心しろ。アメリカは君たちを支援すると言っただろう?」
9月3日 歯舞
「同志ソロモン。本国からは北海道へと侵攻せよと命令が下っている」
政治将校のヤコブ中佐の言葉に苛立ちを覚える。
「同志よ。我々には海を渡る船が無い。そもそもあったとして、あの巨大な戦艦を沈める程の海軍が我が軍にあったかね?」
ソロモン大佐はいまだに北海道沖に居る戦艦大和の事を言った。それを言われると、政治将校の表情も曇る。
「解っている。だが、日本は我々に敗北したのだ。何を恐れるか?」
政治将校は威圧的にソロモンに言い放つ。
「ふん・・・だが、俺にばかり言うな。まずは船を用意しろ」
ソロモンは彼にそう告げると退屈そうにその場から立ち去る。
ソ連を牛耳る男は自慢の口髭を指で撫でながら、世界地図を睨んでいた。
彼の命令一つで多くの血が流れる。
戦争
殺戮
圧倒的な恐怖が支配を高める。
「ねぇ・・・今度はどこを狙うの?」
そんな彼に寄り掛かる一人の女。彼女はかつて、ヒトラーの愛人だった女。
ヒトラーと共に死んだとされたエヴァだった。いや、エヴァだった者。
彼女に顔は無い。彼女が選んだ者が最も好む顔へと変化する。
そうして彼女は数百年の時の中で力在る者の隣に居た。
多くの死を間近で感じる為に。
彼女は魔女。
殺された人々の苦痛や怒りを自らの命と美貌に変える魔女。
真の名前を知る者はもう、この世には居ない。
今の彼女の名前はエレーナ。
美しい金髪の髪を腰まで垂らし、彫りの深い目鼻立ちの美女。透き通るような青い目がその深さに吸い込まれそうになる。
「そうだな・・・やはり日本だろう。中国を抑える為にも必要だし・・・本来なら半分は我等の物なのだからな」
それはヤルタ会談の事を言っていた。日本はドイツと同様に半分にして統治するはずだった。それをアメリカだけが支配するのはスターリンからすれば、約束を違えたと言っても過言じゃなかった。
エレーナは口角を釣り上げて笑顔になる。
「日本・・・相手はアメリカになるわよ?」
「構いはしない。原爆は奴等だけの物じゃない。日本を穴だらけにしても我が物にする。エレーナ。そうだろう?」
「ええ。そうね。楽しみだわ」
エレーナは心底楽しそうな顔をする。その笑顔を見る度にスターリンの気持ちは昂る。
「鳳翔ともこれが見納めか」
日本初の空母にして、日本最後の空母となった鳳翔。
アメリカからの要請で日本は空母の保持が禁じられた。そのため、未成艦も含めて、全ての空母が廃艦となった。
戦争末期に被雷した鳳翔は修理される事無く、その身を大湊に置かれていたが、ついに廃艦が決まり、ビキニ環礁へと運ばれる事になった。
その作業を眺めるのは鳳翔最後の艦長であった大須賀大佐であった。
「水爆実験の目標艦にされるそうです」
「あれか。広島や長崎に落とされた爆弾の凄いやつだろ?」
「みたいですね」
大須賀は部下の将校と会話をしていると、一人の中年白人男性がやって来た。彼はトレンチコートを着て、一般人のように見える。しかし、ここは海軍基地である。普通の一般人が簡単に入れる場所ではなかった。
「大須賀大佐ですね?」
流暢な日本で彼は大須賀に話し掛けた。
「はい・・・そうですが」
大須賀は怪しみながらも返事をする。
「私・・・アレンと申します」
「アレンさん・・・それでご用件は?」
アレンと名乗る外国人相手に大須賀は慎重な感じに相対する。
「そう、警戒しないでください。私は大統領命令で気ました」
「大統領命令?」
大須賀は益々、相手を怪しむ。
「怪しむのは結構・・・ただ、また、戦争が始まりますよ?」
「戦争・・・そんなもんは彼方此方で起きているよ。東南アジアじゃ。独立戦争が勃発している」
大須賀は混乱の中であまり日本ではあまり知られていないニュースもそれなりに耳に入れていた。
「まぁ、独立戦争は世の流れと言う奴ですが・・・朝鮮半島で起きる奴はそうじゃない。こいつは大国の意志って奴ですよ」
「朝鮮半島・・・北と南に分断された半島が戦争をするのか?」
大須賀の額に一筋の汗が流れ落ちる。
「えぇ・・・この数年で朝鮮半島を統一する為の戦争が起きます。その後ろにはソ連。スターリンがあの半島を狙っています」
「狙いは何だ?」
「政治的には共産主義の拡大。ソ連にとっては不凍港を目指した南下計画の一端。そして・・・多くの人間が死ぬこと」
「多くの人間が死ぬ事だと?」
大須賀は男を睨み付ける。だが、彼はそんな事はお構いなしだった。
「あぁ、魔女は多くの人の苦しみが恐怖などの負の力を欲している。その為、多くの戦争、多くの厄災をこの世にもたらそうとしている」
男の言葉に大須賀は唾を吐き捨てた。
「あまり笑えない冗談だが・・・私に何をさせるつもりかね?」
「ソ連の極東侵攻は苛烈になるだろう。満州、朝鮮半島・・・そして北海道」
「ソ連は北方四島だけじゃ飽き足らんと?」
「先ほども申したが・・・飽き足らないじゃない。奴等は世界を再び戦火で焼き尽くしたいのですよ。その為に彼等は核武装までした。危険を通り越そうとしている。その為にアメリカを含むヨーロッパ各国はソ連・・・スターリンの魔女を討つ計画を発動させようとしています」
「スターリンの魔女?」
「そのためには日本も連合国の一つとして参加して貰う」
「連合国・・・また世界大戦を起こすつもりか?」
「また・・・じゃない。世界大戦はまだ、終わっていないんだ」
大須賀は彼の言葉に戦慄を覚えた。
焼け野原となった東京。
GHQの指導で日本政府は新憲法の草案作りに必死だった。
日本は長年の戦争によって、疲弊していた。
多くの国民は家族を失った悲しみ、傷を負った苦しみ、極貧の辛さに耐えていた。アメリカに敗北した事で政府に対する信用も地に失墜していた。
マッカーサーはコーンパイプを咥えながら、一人、指令書に目を通していた。
「ふん・・・世界中で戦争の臭いがしやがる」
日本は新しい国家体制下で非武装となるはずだった。そして、この国を守るためにアメリカ軍が駐留する。確かに独立国家ではあるが、実質、日本を支配下に置くための計略であった。
軍は解体されたが、戦艦大和などの残された兵器や軍施設を維持するために復員兵などから編成された軍務処理局によって行われていた。
軍務処理局は解体された軍の縮小版のような組織である。これは残された兵器や施設の維持だけが目的では無く、今後の有事に備えて、再武装がいつでも可能なようにするためだった。
大須賀は軍務処理局海事部に所属していた。この部署は海軍に相当する部署であり、大須賀は戦艦大和の艦長に着任していた。
「石油が無くて、動かす事も出来ない戦艦など・・・解体して、復興資材にすべきなんじゃないかと考えてしまうよ」
大須賀は大湊基地の官舎で将棋を打ちながらそんなことを呟く。戦中ならば、非国民と罵られない言葉だが、今の時代なら誰も咎めたりはしない。
「しかし、空母の無い我が国では、あの大射程距離の主砲は有用かと?」
彼と将棋を打つ士官は渋い顔で駒を打ちながら尋ねる。
「大射程距離ね・・・当たるかどうか分からない代物では飛行機に勝てないよ」
大須賀は軽く笑う。
「だが・・・いつまでもこいつを解体しないって事は・・・」
大須賀はスターリンの魔女という言葉を思い出していた。
「朝鮮半島からアメリカの支配を排除せねば」
スターリンは世界地図を見ながら、そう呟く。
野望
そう言えば、まだ、聞こえは良い。だが、今の彼を駆り立てるのはただの野蛮な血と虐殺への甘美な誘いだけだった。
「そうよ・・・もっと・・・もっと・・・ソ連には力が必要なのよ」
スターリンの傍に媚びる女は笑みを浮かべながらそう囁く。
その囁きはスターリンの脳を痺れさせる。
愛欲に絡め捕られた野獣はその牙を世界に向けていた。
モスクワ アメリカ大使館
「ここの消毒は?」
一人のロシア人女性が神妙な面持ちで部屋の中に居た男に尋ねる。
「問題ありません。まぁ、常に監視されている場所ですけどね」
彼は笑いながらそう答える。
「私の身の保証をして貰わないと・・・」
不安そうに彼女は告げる。
「解っています。我々はあなたの亡命を受け入れるつもりですよ。それで提供していただける情報は?」
男がそう告げると女は上着のポケットからフィルムを取り出した。
「これに写っているはず」
「はず・・・ですか」
男はそのフィルムを受け取ると、電話機の受話器を取り上げる。
「あぁ、ラルフか。来てくれ」
1分も経たずに一人の男が入ってきた。男は彼にフィルムを手渡す。
「例のフィルムだ。慎重に現像をしてくれ」
「はい」
フィルムを手渡された男は素早く部屋から出て行った。
「それで・・・話を聞きましょう」
男は女に向かって、そう尋ねた。
女は徐に言葉を紡ぐ。
「それが・・・スターリンを操っていると?」
女の話を興味深げに聞き終えた男は僅かに疑念を抱いたような尋ね方をする。
「はい・・・あの女は・・・いつの間にかスターリンの傍に居て、知らぬ間にあの男を操っているのです。このままではロシアは更なる死地へと多くの将兵を赴かせる事になります。下手をすれば、あの強力な爆弾によって、世界中を荒野に変えるやもしれません」
女は怯えたように告げる。
「解りました。あなたの身柄は我々が責任を持って、アメリカまでお送りします。安心してください」
男は彼女にそう告げると、受話器を取って、再び、男を呼んだ。彼に女を渡し、別の部屋と連れて行かせる。その後、彼は用心深く、廊下を眺めた後、別の電話機を用意して、受話器を取った。
日本 大湊海事基地
戦艦大和を含む数隻の艦艇が停泊している。
大須賀は大和の艦橋でこの船の保全作業を行っていた。
「大須賀一等管理官。局長からの電話が入っております」
艦橋に部下が彼を呼びに来た。
「局長から直々だと?」
軍務処理局の局長は政治家である。閣僚ポストでは無いが、国防にGHQとの折衝も行わねばならないので、生半可な者では務まらないとされる。現在、この職に就いている大河原英輔も元外務省官僚で知米で知られている。
大須賀は慌てて、事務室へと駆け込み、受話器を取る。
「局長、お待たせしました」
大須賀が頭を下げながら受話器に喋り掛けると受話器から大仰な声が聞こえる。
『あぁ、待ったよ。だが、そんな事はどうでも良い。かなりマズイ事になってな。今すぐ、大湊の軍艦を全て長崎と呉に回せ。改装だ』
「改装?どういう事ですか?」
『GHQからの命令だ。残存する全ての戦闘艦をアメリカ海軍に準じた装備に改装するそうだ』
「アメリカ海軍が日本海軍の戦闘艦艇を使うのですか?」
大須賀は驚いて尋ねる。
『違う。使うのは日本人だ。GHQの命令で警察予備隊が発足する。軍務処理局はそれと入替で解散となる』
「それは・・・軍備を保有すると言う事ですか?」
『そうなるだろうな。とにかく、急いで回航の準備をしろ』
「しかし、ここから軍艦が居なくなるとすれば・・・北方四島のソ連軍がどう動くか・・・」
『そこは安心しろ。アメリカ海軍が北海道沖に展開をする。どうやら、かなりキナ臭い感じのようだ』
局長の言葉に大須賀は絶句する。それは再び大きな戦争が北海道を中心に起きる可能性を示唆しているからだ。
「解りました。これより任務に入ります」
大須賀がこの一大事に自らがやる事は時間との勝負だと感じた。
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