第4話 拉致監禁

 上野を出て三時間、八戸に着きどうするかという事もなく彷徨っていたら、丁度弘前行きの特急が案内板に載っていた。深く考える事もなくそれに乗り込み、また二時間も揺られて弘前へ。

 辿り着いた弘前の構内では、いかにも地方のローカル線といった雰囲気に溢れた古ぼけた車両が目に留まり何となしに乗り込んだ。どうやら五能線と言うらしかった。乗り込むと東京の列車の雰囲気はまるでなく、あくの強い方言がそこかしこから漏れて聞かれた。

 そのまま小一時間も揺られているとふと煙草が吸いたくなり、五所川原駅という場所で降りる。

 もう夕焼けていた。

 ほんの何時間か前までいた上野駅のそれと比べずとも、驚く程に、絶対的に何もない駅で、それは耳鳴りを覚えるほどだった。

 駅の隅で煙草を咥えながらぼんやりとしていたら、跨線橋の向こうに私鉄のものだろうか、駅舎らしき建物が見える。

 適当につかまえた駅員から話を聞くと津軽鉄道という路線らしい。見ると丁度ホームに車両が入ってきた所で、どうせだから乗ってみようかと決めた。

 清算を済ませ隣接する私鉄の駅舎へ移ると、どうにか備え付けたと言った体裁が良くわかるような自動券売機が、微笑ましくあった。料金表を眺めながら、元より目的地の無い乗り継ぎであることもあり見慣れぬ地名に惑っていると、守矢と同じ位だろうか、年の若い駅員がふと顔を出してきて、旅行かい、と気さくに声を掛けてきた。

「どこからだい、見たところこっちの人間じゃないだろう?」

「今日の昼に上野を出て、ここまで」

「上野って……まさか、東京の?」

 守矢が頷くと駅員は驚いているようだった。

「桜桃忌でもなっきゃ桜が咲いてる時期でもねえのに。鉄道オタクの人って風にも見えねえし……何だってこんな所まで来たんだい?」

「何となくですかね、何となく。それより、桜桃忌って何です?」

「金木町ってところがよ、津島さんとこの、ああ、ほれ、人間失格とかの、太宰治の生家がある場所で、毎年全国からファンが集まってよ、六月十九日に生誕のお祝いやってんだ。前は命日に因んでやってたんだが、縁起が良い方にしてくれって親族の方から申し入れがあってな……って、それ知らねえなら、まさか斜陽館を見に来たって訳でもないんか?」

「生憎と、文学には疎くて」

 苦笑する守矢に、駅員は困惑の表情を浮かべる。

「そういうのに興味があるんでなっきゃこの先本当になんもねえけど、本当に良いのかい?」

「ええ、これを機会に興味を持つかも知れないし……元々目的なんて無いんです。いける所まで行ってみようと、そういう旅ですから」

 妙な男だ、とでも思ったのだろうか、駅員は暫く訝しげな視線を守矢に送ったが、ふと、芦野公園駅だ、と呟いた。

「兄さん、目的地が無いなら芦野公園の切符買っておきな。面白い体験をさせてやろう」

「面白い体験ですか?」

「おうよ、アンタが上野から来たってのが丁度良かった。さあ、ともかく芦野公園駅を一枚、芦野公園だ、早く買っちまいな」

 そういうと駅員は風を巻いて駅舎の中に引っ込み、どったんばったんと中を引っ掻きまわして何かを探しているらしい。守矢も、見ず知らずの人間から貰った親切を無下にする事も無いだろうと芦野公園駅までの切符を一枚買った。

 切符を切って貰いながら改札を通ると、例の駅員は一冊の本を守矢に手渡した。太宰治の『津軽』という本だった。

「くれてやる、津軽土産だ、俺の私物だ、気にするな」

 面白い体験とはこれに関する事なのだろうか。半ば強引に押し付けられてしまいここで突き返すのも却って失礼だろうと、その親切を有難く受け取る事にする。

「何も知らんで旅するのも良いがそういうもんを持って旅するのも楽しいだろう? 死にそうな顔してっからよう、そんなんで旅しても面白くねえだろ。折角本州の端まで来たんだ、どうせなら楽しんでけや」

 死にそうな顔と言われて自身の頬を撫でてみた。どんな面構えで今までいたのだろうか、鏡を覗けないのが不安だった。

「それの百九十二頁の真ん中から、芦野公園に着くまでに読んでおくんだ。気に入らなければ、ポイッと捨てちまって良いからよ。万が一、案外気に入ったら、斜陽館でも回りながら、その本の足跡辿ってみてくれや。自慢じゃねえけど良い所なんだ、津軽は」

 守矢が乗り込むと同時に駅員が合図を出し列車は動き出した。それはまるで守矢の乗車を待っていてくれたかのような優しい路線だった。


『――ぼんやり窓外の津軽平野を眺め、やがて金木を過ぎ、芦野公園という踏切番の小屋くらいの小さい駅に着いて、金木の町長が東京からの帰りに上野で芦野公園の切符を求め、そんな駅は無いと言われ憤然として、津軽鉄道の芦野公園を知らんかと言い、駅員に三十分も調べさせ、とうとう芦野公園の切符をせしめたという昔の逸事を思い出し――』

と、例の駅員が示した箇所は太宰治が五所川原駅から津軽鉄道に乗り終点の中里へ向かう途中の描写だった。そしてどうやら駅員は、上野から来た守矢のことを件の金木の町長さんに重ねてみせたらしい。

 参った、という思いがした。実際の所守矢と金木の町長さんの共通点と言ったら上野から出発して芦野公園に向かうというただのそれだけだが、しかし、こんな風に重ねてみせられると、どうしたって面白いと思ってしまうのもまた人間の常だ。

 小説と現実の奇妙な連動。それを自覚した途端に守矢はすっかり小説の虜になりここに来るまでの鬱屈とした感情などはこの雄大な自然に向けて千切り捨て、太宰治の足跡を辿って津軽を旅しなければいけないという、使命のようなものを感じ始めていた。

 ただ一面の草原が、行く手に沿って広がっている。茜を通り越し、薄紫の憂いを帯びた空は星々の細かな煌めきに彩られている。

 暫く津軽を旅しようと守矢は決めた。何の興味もなかった一文人にあやかるというのも妙な巡り合わせだが、それもまた天啓かも知れないと思った。

 小さな、本当に小さな芦野公園駅に着いてから、これまですっかり存在を忘れていた腕時計に目をやると既に六時を回っていた。津軽巡りは明日から始める事にしてまずは宿を探した方が良いらしい。

 芦野公園駅は無人の駅だった。客どころか駅員すらもいなかった。時期を外した桜と年期を感じさせる松の木が幾つも並び、さながら森の中に潜む隠れ駅のような風情があった。

 これは良い、と守矢は思った。あの駅員は意図した楽しみも与えてくれたが、しかし同時に意図しない喜びも与えてくれた。

 こういう場所で落ち着きたかった。木々の間をすり抜ける冷ややかな空気を浴びて清々しい気分で歩いていると、或いは本当に、無理をせずともピアノの事を止められる気がした。

 切符箱に切符を入れ駅舎の外に出ると、町の灯りから遠いせいか、すっかり夜の気配に覆われていた。近くの売店に入り缶コーヒーを一本買うついでにこの辺りで宿をやっている場所を尋ねると、どうやら金木駅の方に戻る方が良いらしいとの事だった。

 金木までは徒歩で十分も行けば付くような距離なので悲観せず早速来た道を戻り始める。唐突に始まった明日からの津軽旅行が目に浮かぶようで妙にわくわくしていた。


 ところが、奇妙な事が起きた。守矢は津軽鉄道の来た道を、線路に沿って、ただどこまでも広がる草むらに囲まれて歩いていたのだが、どこからか、雄大な自然の落ち着きを吹き飛ばす爆音が響いてきたのだ。

 ヘリコプターのそれだった。更に輪をかけて奇妙だったのは、そのヘリコプターのサーチライトが、守矢の事を捉えた瞬間に、さながらルパン三世のオープニング場面のようにガッチリと狙いを定めて照らし始めた事だった。

 そして極めつけに草むらに降りようとしている。

 明らかに、着陸しようとしている。

 嘘のような現実だが確かだった。守矢はその場に尻餅をつきただただヘリの暴風に飛ばされないように身を屈め、吹き荒ぶ風に飛びちる草葉の欠片が目に入らないようにと視界を細める他にできない。

 やがてヘリが完全に着陸するとそこから降りてきたのは一人の女性――その人物の美しく整った顔を認めた瞬間同時にその内面の強烈さが思い出された。

 ヘリを降り、一直線に、ゆっくりと草原の中を歩いてくる女は、月乃だった。

 或いはここでワルキューレの騎行が轟音として流れていても何ら違和感はないだろう。そういう雰囲気が彼女からは溢れ出ている。

 何故かは知らないが月乃はひどく怒っている――かろうじて守矢に悟る事ができたのは精々その程度のことだった。それ以外の思考は完全に抜け落ち消え去った。

 月乃は尻餅をついたままの守矢の眼前に仁王立ちした。ヘリのヘッドライトに煽られたその姿は何よりも濃い影という圧迫感を持って守矢に映る。

「さ、帰りますよ」

 そう言いながら手を差し出してくるが、守矢は完全に腰が退けていた。

「お前……どうしてここにいるんだよ」

「ウチの三番目の兄さん、医者やってるんです。で、今日は貴方の診察だったでしょう? 逃げ出してしまったという事を聞いてから人を使って、そしたら新幹線に乗ったという情報が入ったので、東北全域に網を張りました。

 実際に尾行が付いたのは八戸より少し前、私は連絡を待って青森空港からヘリでここまで……これで納得しました?」

「ちょっと待てよ、三番目の兄が医者って、まさか」

「そうですよ、知らなかったでしょうけど」

「おかしいだろ。俺があそこの世話になり始めたのは四年前からだ、お前と関わるよりも前――」

「――だから、五年前にあの事件が起きてしまってから、貴方がピアノを止めてしまわないようにって、ウチはずっと手を打っていたんです」

 聞いた瞬間、猛烈な目眩に襲われて、思わず守矢は口許を押さえた。

「その一環で、偶々兄さんが医者をやっていたからそうなるようにしたんです……尤も、別に兄さんじゃなくても使える人なら誰でも良かったんですけどね」

「ずっと、全部見てたってのかよ」

「ええ、そうですね」

 一寸の陰りも見えない月乃の口調に守矢の怒りは限界を超えた。それはあまりに人を見下した行為だった。

「人の醜態見て笑ってたって訳だ……趣味が悪いな、ぶち殺してやりてえよ」

 怒りをぶちまけるように、睨み付けながら守矢は言ったが、しかし同時にその頬が何かによって叩かれた。

 それは月乃による、平手の一撃だった。

「笑ってたですって……こっちがどんな気でいたかも知らないで、甘ったれるのも大概にしなさいよクソ男」

 守矢の怒りは一瞬にして吹き飛ばされた。まさか殴られるとは思っていなかったというのがこの上ない本音だ。

 それに言葉遣いがおかしい。元より奇天烈な女であることは察していたが、ここまでぶっ飛んだ話し方はしなかったはずだ。

 ――まさか、アレでも猫を被っていたとでもいうのだろうか。

 悪夢のような想像など露知らずといった風に、月乃の言葉は更に続く。

「精一杯配慮してそうまで言われるならもう遠慮しない。アンタの腐った根性無理矢理にでも叩き直すから、その覚悟でいなさいよね」

 どうして自分が怒られているのか守矢には理解出来なかった。

 しかし、この場で月乃に刃向かう事もできなかった。

 彼女にはそれをさせない圧倒的な何かがあった。

「爺や!」

 月乃が指を鳴らした。空気を切り裂くような、鋭い高音だった。

 その音に従うようにヘリの中から数名の黒服が颯爽と現れ、それは守矢も知った顔――松田や南郷、あの日家に来た連中だ。

「捕獲して、連れ帰るわよ」

「何勝手な事言ってんだよ……俺は津軽観光するんだっつーの」

 精一杯の虚勢を込めて守矢は笑ってみせたが、しかし無論、月乃に通じるはずもない。

 恐怖。守矢は明らかなそれを感じていた。

「守矢さんは少し疲れてるんですよ……人間って、冷静な判断が出来ない時は一度寝るのが良いんですって。そうすると思考がリセットされて、目覚めた頃にはスッキリしているそうです。康介兄さんが教えてくれました」

 突然、守矢の背後から何物かの手が伸びてきて、首にぶすり。

 注射針が刺し込まれた。痛みを感じる暇も無かった。暴れようにも気が付けば四肢と首は黒服達によってしっかりと固定されてしまっている。

 万事休す。

「大丈夫ですよ。厚生労働省お墨付きの医療用麻酔ですし、打ってる人間もちゃんとした資格と経験を持ってますから」

 微笑みを携えて、月乃が近付いてくる。急速に守矢の脳を冒していく麻酔は既に視界を大荒れの海よりも激しく揺らしていた。

「目覚める時はとても良い気分ですから。だから安心してゆっくり休んで下さい」

 守矢の髪をそっと撫でながら、月乃は言う。

 混濁する意識の中、ピアノと和宏と菜々子と太宰治と月乃がごちゃ混ぜになったような奇妙なイメージが脳内に泡の様に浮かんでは消える。

 クソ女、と意地だけで言い終えた所で、守矢の知覚は強制的に切られた。












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