第3話 原罪

                  ※


 アップライトがようやく収まろうかという練習室でピアノを弾いていると、何か視線を感じた――いつものことだ、ドアの小窓から覗かれている。

 視線があってしまったこともあり作り笑顔を浮かべようとするも、どうしても頬が引きつって、きっと呆れたような表情になっていることだろうが、それでも窓の外の女生徒達は歓声を上げて喜ぶ。

 エライナアと信州鈍りで呟きながら練習の手は止めない。

 流石にピアノ椅子に座ろうとはせず地面に座っていた【   】が、あれはヴァイオリンの子達だと言う。そうなんだと適当に相槌を打つと、よく見るからだよと、その声は拗ねたようにも聞こえる。

 自分の練習は良いのかと問う。

 【   】は大抵手作りのお菓子を食べている。綺麗なラッピングはわざとビリビリに破られている。

 見てないと、不安なの。


 暗転


 同じように練習室でピアノを弾いていても誰も来ない。

 ヴァイオリンの子は援助交際をしている打楽器の子は家の工場が潰れかけで大変ピアノの子は色仕掛けで守矢を陥れようとしているファゴットの子は―――

 見てないと、不安なの。


                  ※


 冷たい寝汗に目覚めると、まだ陽が上る前だった。

 悪夢から醒めた直後ではもう一度眠ろうという気持ちにもなれず、のそのそと起き上がって煙草を咥えた。

 






 ウエノメンタルクリニックは、まだ午前の早い時間である事もあったろうが今日も守矢以外の患者の姿が無いようだった。受付に座る顔なじみの看護婦に潰れやしないかと軽口を叩いたら、先生の場合は半ば道楽ですからとこの上ない笑顔で返された。

 白を基調とした診察室の隅に置かれた観葉植物を眺めていると、いつものように青いカッターシャツとスラックスというラフな格好でその医者は現れた。白衣を着ずに普段着で診察するのがポリシーなのだと以前に聞いた。

「待たせたね。相変わらずの色男だが、少し痩せたかい?」

 冗談交じりに言いながら、守矢の対面に腰を下ろす。

「ちゃんと食べないとダメだよ、ご飯を美味しく食べる事が万事健康の秘訣だ」

 線が細く柔和な顔立ちをしており、微笑むと目が消えてしまう男だった。年は守矢よりも二つほど上らしく、兄二人に妹が一人、両親は健在、働かずとも遊んで食っていけるような金持ちの三男坊で、開業医として構えるのは医師としての純粋な向上心から、その上未婚。

 さぞやモテるだろうと話の種にした時は、女性関係は苦手なのだと顔を赤らめて照れていた。どうやら本当に奥手なタイプらしく、守矢は以前、例の看護婦から、このどうしようもなく純真無垢な医師――名を康介と言い、彼女は親しみを込めて康ちゃん先生と呼んでいる――の口説き方を教えてくれとせがまれた覚えがある。

 その時は、診療中の雑談で映画の話をした直後だった事もあり、話題に昇った作品を何本か薦めた。そのアドバイスは結構な成功を収めたようだったが、二人で映画に行ったという報告以来主立った進展は未だ届いていない。

 看護婦のレベルを考えれば、想像以上の奥手か、或いは女性に全く興味がないという線も考えなければならないかと思ってしまうほどだ。

「今日は報告がありまして」

「報告か……嬉しいものだと良いんだけど、さて」

「ピアノを辞める事にしたので、その事と――」

 守矢が言うと、康介は普段の冷静さから一転、血相を変えて割り込んできた。

「――ちょっと待ってくれよ。また急に、どうしたんだ」

「色々ありまして、いい加減に区切りをつけようかと」

 守矢の話した内容に康介が反対することは、基本的には有り得ないはずだった。しかし目の前の彼は渋い表情を崩そうとしない。珍しい、と守矢は思った。

「あまり賛成は出来ないな」

「どうしてです?」

「君が考えた結果である事は理解するけれど……正直な話、それは逃げだろう?」

「それでも、もういい加減に前を向かないとダメだと思ったんです、自分のピアノに結論を出さなければ前を向けないとも」

「それは、技術的に衰えているということかい?」

「家で練習している分には……ある知人に言わせると、むしろ巧くなっているそうです」

「例の五年前より?」

「ええ。五年前より格段に巧くなっているのだそうで」

 そう答えた脳裏にふと月乃の顔が浮かび、思い出すと苛立った。無責任な女だ。

「それなら止める理由は無いじゃないか。無理にやめようとしたところで、却って精神的には負担なだけだよ」

 全く正論である。事実止めようとすればするほど日常の息苦しさは増している気もするし、今朝のような悪夢を見ることも増えた。嫌な循環だ。

「……なまじ指がついてるから良くないんでしょうね。いっそ切り落とそうか、なんて」

「馬鹿な事を言うもんじゃない!」

 冗談のつもりで純粋な笑みを浮かべながら言った守矢に、康介は過剰とも取れる反応を見せた。場の空気を読めていなかったらしい、自らの軽口を呪った。

「すみません、冗談が過ぎました。けれども、本当にピアノは止めます」

「どうしてそこまで思い詰める、君はまだ――」

「――資格がないんです」

 執拗に食い下がる康介に思わず溢れた言葉だった。

「ピアノを弾くのに資格がいるなんて、少なくとも私は聞いた事がないよ。下手糞にはピアノを弾く資格がないとでも言うつもりかい?」

「誰かを傷つけて、迷惑かけてまでピアノを弾く資格なんて、ある訳が無いということです」

「五年前の事件かい?」

「そうです……けど、その他にも沢山。うまく言えないけど、でもあの事は、自分が今まで積み重ねてきたことの報いだと思う。他人を傷つけて、気付いていたのに知らんふりをして、そうして生きてきたから……あんな最低の事まで出来たんだ」

「折角だ、ゆっくり話を聞かせてもらいたいな。例えば、どんなことだい?」

 そう問われても、話せることは一つも無い。

 塞ぎ込んだ守矢の虚ろな視線に限界を見た康介は、取り敢えずとして三十分程度の休憩を取る事を提案した。

 守矢はその三十分の間に産まれたほんの一瞬、康介がトイレに席を外し、入れ替わりに部屋に入ってきた看護婦が目を離した一瞬にクリニックを逃げ出した。



 手近な銀行で口座にあっただけの金を下ろしそのまま駅へと向かった。券売機の前で百円硬貨を取り出すと、表ならこのまま北、裏なら西と大雑把に定めて指で弾きあげる。

 表が出た。北。

 案内を見ると、北に向かう最も早い線ははやての八戸行きか、こまちの秋田行きだった。どちらにするか悩みかけたが、秋田よりも青森の方が何もないだろう、という偏見に満ちた理由ではやてに決める。

 人混みに紛れるように構内を抜け、新幹線の乗換口を通り過ぎてから、守矢はようやく息を吐いた。

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