第2話 貴族襲来
その日、営業が始まるより二時間ほど早く、まだ女達が店に顔を出していない時間帯に守矢は松方を尋ねた。退職の意思を伝えるつもりだった。
無理を言ってまで直ぐに辞めようとも考えてはいなかったが、例えば、一般に金持ちと思われていそうな音大生の実情を守矢は経験として知っている。女の場合は筋金入りのお嬢様か、でなければ風俗嬢、極論でまとめればそんな世界だ。この店であれば他のバイトと比べて破格の給与を示してくれるだろうし、何よりピアノで稼げるという感覚が彼等にとっては有難いはず。適当な音大の学内に求人を出せば遅くとも一、二週間で見つかるだろう。ひょっとすれば今の自分より余程にレベルの高い人間が引っかかるかも知れない……と、これは自嘲も込めてだが。
松方は渋い表情を見せた。守矢の辞意そのものに戸惑う風ではなく、単純な慰留の類だった。或いは華鳥から何らかの連絡が、あの日の演奏に関する失敗が、既に伝わっており、ある程度察していたのかも知れない
守矢は穏やかに固められた意志と共にはっきりと首を振った。
「今の自分の演奏じゃ……まるで詐欺ですから」
初めてかも知れなかった。松方に対して初めて口にした心からの言葉かも知れなかった。初めて口にした本音が辞めていく為のものだという事が妙におかしくて頬が緩んだ。案外勤め人などというのはそんなものなのだろうか。
「しかし君がそう言ってもだ、こちらにも都合がある」
松方としても必死らしかった。折角固めたオールバックの髪型をむしろ崩すように、乱雑に頭を掻きながら、珍しく落ち着かないという風に煙草まで咥えている。漂ってきた煙草の煙は甘いヴァニラの匂いがした、いかつい顔に似合わずかわいい趣味をしている。
「大丈夫です、次の人間が見つかるまではやらせて頂きます。求人の方もそれなり以上の人間が見つかるように責任は持ちます」
「そういう事じゃないんだよ、そういう事じゃない。大体、君はそれで良いのか――」
口調に熱を帯び始めた松方の言葉を遮るように、
「――申し訳ありませんが、それ以上は。もう決めた事です」
守矢は頭を下げる事で会話を打ち切った。
いつもより気の入った演奏だった。仕事を終えてバックルームで着替えをしながら守矢はそう振り返り、いつ以来かの充実した息を吐く事ができた。終わりが見えるとメリハリが付くものなのだろうか、それとも未練が顕れたのか、客の事が全く目に入らず、ピアノにだけ没頭していたような時間だった。
結局は全て自分に問題があったのだなどと当たり前の事を今更に認識しても苦笑しか浮かばない。
ドアがノックされた。どうぞと答える前に扉は開き、そこには化粧を六割落として私服に戻ったメグミが立っていた。三十路手前の古株、この店における正しい表現を使うならば売れ残り寸前の女、守矢が入店する以前から居着いている女で、自然と口を交わす事が多くなっていた存在だった。
「若い子じゃなくて悪いわね」
「自虐はよせよ。そんな事より、着替えを覗く趣味は頂けないな」
「喜べるようなモン持ってる人間がいう言葉でしょ?」
堂々と守矢の股間を指しながら、メグミは言った。守矢はトランクス一丁の姿だったが、別段と慌てもしない。暇つぶしに寝るような関係だった、松方や他の人間も殆ど織り込んでいるような関係、今更だ。
「俺が来た当初はトップ争ってたのにな、女の期限切れは早いもんだ」
「若めの極太以外切ったのよ、量より質。そろそろ本腰入れて相手絞らないとね……愛人なんて御免だし」
以前のメグミはこの店で働く理由をそういう方向に持っていなかった。有名なデザイン学部出身として自己ブランドを起業する事を目標に、ただコネ作りに来ていただけだった。夢を捨てたという事だろうかと勘ぐりかけたが、首を突っ込む事でもないと早々に思考を打ち切る。
「そんな事より、今日付き合って」
もう何年も履き続けたジーンズに足を通しながら、守矢はそれに頷いた。
路地裏の居酒屋、有線の演歌が絶え間なく流れる、清酒か焼酎以外置いていないような、カウンターが油でべとついている店。そこが二人で呑む店だった。
「――辞めるんだって?」
焼酎のグラスを揺らしながらメグミは言った。店の禿げ親父がメンチカツを運んできた、唯一メンチカツだけは美味い店だった。精肉店に知り合いがいるらしい。
「耳が早いな」
「松方さん頭抱えてたわよ。で、これからどうすんの?」
「さあな」
メンチカツを頬張りながら今後を想像してみたが、アテなどあるはずもない。
「アンタじゃ絶対就職出来ないと思うけど……まあピアノ関係ならあるんだろうけどさ」
「ピアノは弾かない、もう完全に止める」
それだけは即答できた。
「じゃどうすんのよ、ピアノがなきゃ最悪の不良債権じゃない」
「ヒモかな」
「少しは恥じなさいよ」
「女なんて大抵ヒモじゃん。男女平等、ジェンダーフリー、時代の最先端だよ」
そんなおちゃらけた答えに、メグミの空気が重くなった。タイミングがまずかったらしいが後の祭りだ。どうせ突っ込んでしまったのだからと、守矢もここで収めようとは考えなかった。
「そっちこそ、夢はどうした?」
「なんの話?」
「最近聞かないけど、前は起業するって言ってただろ」
言うと同時に肩に重みがかかる。メグミが頭を預けてきたのだった。茶色がかったナチュラルウェーブの髪が守矢の胸元に流れてきていた。
握り拳の響き渡る場に相応しくない、薔薇の匂いがする。
「いつまでも言ってらんないでしょうよ、そんなこと」
やはり決断したのは最近らしい、割り切ろうとしているような言い草だった。
「じゃあ俺も同じだ」
「アンタとは違うわよ、私はデザイン止める気ないもの」
返答の速さが“一緒にするな”とその心中を言外に表している。
「極太にアパレルの二世がいてさ、何枚か画見せたら反応良くて、趣味が合うみたい。小さい規模から始めるので良ければ、私のブランド作ってくれるって、一緒にやろうって言ってくれたから。私に入れ込む位だから性格は穏和だし、顔も悪くはない、年は三十四……落としどころなのよ」
「違わないだろ。昔のお前ならそういう方法は採らなかった、しがらみが嫌だから大手の内定も蹴飛ばしたんだって、自分で言ってたじゃないか」
「違うわよ……私はアンタみたいに欲張りじゃないの、妥協してでも自分のやりたい事をやろうって思えるの。アンタみたいに、一から十まで一切妥協しないで、妥協する位なら全部投げ出すなんて、しないの、できないの」
泣き出しそうな雰囲気を察してしまい、そうか、と守矢はお茶を濁した。関係が重くなることは望んでいない。
付かず離れず、堕落した大人の距離感がお互いに必要な相手だ。
「そんな才能、ないの。アンタみたいになんて、一か十だけなんて、無理よ」
「才能の問題じゃないな。お前には熱意があって俺には無かったってことさ」
メグミはふと微笑んだ。子を諭す母親の雰囲気に似ていた。
「妥協する人間は自分の限界に気付いたからよ、貴方がそれをできないのならそれはまだ限界が見えていないから。貴方がどう思ってピアノを止めるかなんて畑違いの私には解った事じゃないけど、無理よ、貴方はいずれ戻ってくる。本当に限界が見えるまで止められる訳がないから」
予言めいた事を言う女は総じて酔っているものだ。守矢は聞き流した。
店を出る頃になるとメグミは完全に酔い潰れていた。
守矢としてもこの状態ではどうこうする気にもならず、通りでタクシーをつかまえようとしたのだが、背におぶったメグミが、ふと呟いた。
「エッチしようよ」
溜息が漏れるような一言である。
「結婚すんだろ。二世が泣くぞ」
「本気でエッチしよう。した事、ないじゃない」
首に頬を擦り付けながらメグミは言う。
こんな風に甘えてくる女ではなかった。辛いのだろう。
「最近抜いてねえし、生って事ならまず当たるぜ?」
下卑た親父のような馬鹿笑いを装って、やんわりと拒否を伝えた。抱いたところで翌朝にはお互い揃って死にたくなるのがオチだ、そういう遊びは趣味でない。
「それでいいよ。三日も、四日も、ずうっと部屋に籠もって、気が狂う位エッチしよう」
「やってらんね……勝手に言ってろ」
「それで、エッチの合間にピアノ弾くの。私の為だけにピアノを弾くの、あそこで弾いてる時みたいに弾くんじゃなくて、私の為だけに弾くの。そうしてくれたら、良いわ、子どもなんて幾らでも産んであげる、二世なんて振ってアンタと結婚してあげる」
「アホ言うなって。ほれ、タクシー拾うから」
「本気で言ってるの。貴方の夢、真っ白で汚れてない夢、終わりまで一緒に見たいの。私は駄目だったけど、貴方なら夢を見続けられるから」
「帰ってクソして、さっさと寝ろ」
止まったタクシーにメグミを放り込み、なおもだだをこねる彼女を押さえつけながら、タクシーの運転手に金を渡し、彼女の住所を伝えて頭を下げる。
「それにな――」
――生憎とそういうピアノは持ってねえんだよ、とドア越しに伝えると、メグミはようやくの笑いを見せながら、そういうのがガキ臭いのよバーカ、と深いキスで返した。
走り去っていくタクシーに向けて、ガキはどっちだ、と守矢はぼやく。
日曜日、ジャージを着たままの守矢はとてつもなく暇だった。店は定休日であるしピアノはもう弾かないと決めた以上プライヴェートでは一切触らない。そうなるとまるでやる事が無かった。
ワンルームの狭い室内はその四分の三以上をグランドピアノが占拠し、寝る時はピアノの下に布団を敷いて寝るような環境。当然テレビなどを置いているはずもなく、パソコンの類も一切無し、部屋にある本は楽譜か音楽関連の学術書か、或いはクラシック雑誌、それも何年も前のバックナンバーに限られている。CDはと言えば山のように積んであるが、それも全てがクラシック。煙草を咥えながら己の人生で一体何をしてきただろうかと振り返ってみても、ピアノに向かっている以外の記憶は皆無、と来れば、本格的に音楽以外にはやる事がない。
どうしたものかと考えていたら、ふとインターホンが鳴った。来客など珍しい。
店の人間が暇にまかせて遊びに来たのだろうかと疑い、無視しようかとも考えたが、その呼び出しはしつこかった。出るまで止まらないだろうと思わせる連打だ。
舌打ちをしながら鍵を外して扉を開くと、目に飛び込んできたのはサングラスをかけたいかにも厳つい三人の黒服。
「どちら様……でしょうか?」
心なしドアを手前に戻しながら言う。少なくとも借金をした記憶は無い。
「部屋の中を見させて貰う、開けろ」
有無を言わさずと言った具合に、黒服の男は力尽くにドアを引き開けると、守矢を押しのけてドカドカと上がり込んだ。唖然とする守矢に、ドアの外、背後から声がかかる。
「突然すみません。大丈夫だって言ったんですけど、みんな聞いてくれなくて」
聞き覚えのある声にゆっくりと振り向くと、そこには月乃がいた。てっぺんに間抜けなボンボンが揺れるグレーがかったニット帽に白いダボめのパーカー、デニムのミニスカート、足下は茶色のファーロングブーツ。気負った様子など欠片も無い、完全に私服だ。
「で……何しに来たんです?」
「言ったじゃないですか、遊びに行くって」
記憶を辿ると確かに――あの夜、酩酊した守矢は結局華鳥に一晩世話になったのだが、翌朝帰宅する際見送りに出てきたこの女はそう言っていた。
「で、遊びに?」
「ええ。お邪魔しますね」
絶句する守矢を素通りして上がり込んでいく。やる事がない、という事態は無くなりそうだが、かえって良くない方向に変わって行くらしい。
重い足取りで月乃の後を追った守矢に、黒服の男達の捜索模様が目に入る。あちらこちらをひっくり返し、何を調べているのか、まさか爆弾でもあると思っているのだろうか。
「この人ら、何探してるんです?」
月乃に問うと、
「さあ……どうも松田さんの指示らしくて」
無責任な答えが待っていた。
暫く待っていると彼等の様子が一変した。何かを発見したらしい一人の所に集まり、何やらざわ・・・ざわ・・・としている。そうして突然、胸元にイヤホンマイクでも付けているのか、外部への連絡らしき言葉を口にし始めた。
何かまずい物でもあったのかと不安になりながら、守矢がそっと覗き込むと、彼等は小さな箱を抱えていた。ラテックスアレルギーを考慮したポリウレタン素材、ピンクとブルーのカラーバリエーション、十二個入り二千円、『生々しい肉の感触、まるで素肌のフィット感』を謳い文句に激薄で売っている商品である。
目眩がした。
『物品Cを確認……ええ、激薄です』
黒服は大真面目にやっている。
「やだ、もう……激薄なんて」
いつの間に横に居たのか、月乃が頬を染めながら守矢の背を勢いよく叩いた。顔を背けながらもチラチラと伺ってくる辺りが鬱陶しい事この上ない。
バカバカしさに堪えかねて、守矢は溜息を残し部屋を出た。
煙草を三本も吸っただろうか、部屋の捜索を終えたらしい黒服が出てきた。その手には様々な物が握られており、先程の物品Cはもちろん、ジョークで買ったヌンチャク型の大人のオモチャだったり、麻縄と手入れ用のオイルだったり蝋だったりゴム製のムチだったり、その他にも様々、特にひどい物としては、どこから出てきたのか、女物のきわどすぎる下着まで持っていた。アレの持ち主はどうやって帰ったのだろうかと気に掛かった事もあり記憶を巡らせてみたが、持ち主までは定かでない。
「お嬢様が居る間、これらの物は預からせて貰う……それと、室内は監視させて貰うからな、くれぐれも妙な気は起こさない方が良い」
そんなものは起こしやしない、と笑い飛ばしてやりたかったが、黒服の目が笑っていないのでそうもいかず、重々に承知したといった具合にヘコヘコと頭を下げてから、守矢は部屋に戻った。
月乃はピアノの椅子に座っていた。守矢の方に顔を向けようともせず、その後ろ姿はあからさまに不機嫌だ。
人の家に無理矢理上がり込んでおいて不機嫌な態度もないだろうと思うのだが、如何せんお嬢様であるからその辺の思考も平民とは違うのかも知れない。平民代表の守矢は平穏な休日を諦めた。
「来て頂いた事は光栄ですが、見ての通り何もありませんから。する事無いですよ?」
「軽蔑しました」
守矢の言葉はまるで聞かず。言いたいことのみを伝えてくる。コメカミがピクリと引きつるのを感じた。――このクソアマ。
「何ですか、アレは。武道を志すならあんな卑猥な物でなくきちんとしたものを――」
「――ヌンチャクですか? それともムチですか?」
いずれにせよ、武道を志す者が買う商品としては有り得ない。
「両方です。ムチはまだしも、どうしてヌンチャクの先端があんな形をしてるんですか」
「実際に使った事なんてありませんよ。笑いが取れるんです、ああいうの」
そういう下らない笑いが好きなのだと、敢えて自然な風に言ってやる。
「汚い人だったんですね」
「まあ……そうなるんでしょうか」
汚い人という表現があまりに珍妙で、どこまで本気なのかと疑ってみたくなるが、この女の事であるから恐らく本気で言っているのだろう。
「女の人の事を玩具とでも思っているんでしょう、だからあんな物を――」
クドクドと説教を始めた月乃を右から左へいなし、換気扇の下で煙草を咥える。何をしようと考えるよりいつになったら帰るだろうと考え始める方が早かった。
「――なんですよ。聞いてますか、守矢さん!」
と、それまで決して合わせようとしなかった視線を守矢に向けて、月乃は説教の終わりを口にした。
今後気を付けます、と守矢は軽く頭を下げてみせた。アホ臭かったが、大人のオモチャに関する説教を延々聞かされるよりはマシだ。
「じゃあピアノ弾いて下さい」
いかにもそれが当然である風に月乃は言ったが、守矢は表情を固くした。
「どういう繋がりでそうなるんです?」
「謝ったじゃないですか、だから私も許してあげます。代わりにピアノを弾いて下さい」
冗談の類ではなく、本人は至って真面目な口ぶりなのだ。いっそ清々しいまでのジャイアニズム。
「申し訳ありませんが今日は休日です、ピアノは弾きません……何か聞きたいのでしたらCDでもかけてください。それなりに揃ってますよ」
狭い室内の一角を占拠するCDラックを指しながら守矢は言った。総数で四、五百枚はあるだろうか、見かけた端から買い漁っていたら増殖していた。
強い調子で言った事もあり、納得してくれるだろうと楽観していたのも束の間、月乃はハッキリと首を振っていた。
「CDなんて家でも聞けますよ、守矢さんのピアノを聴きに来たんです」
流石にここまで好き勝手をされると、守矢としても礼儀立てをする意義が薄れた。隠そうともしない舌打ちを一つ響かせる。
「俺が弾きたくないんですよ。もう弾かない、この前にもそう言ったでしょう」
多少威圧的に言ったつもりだった。機嫌を損ねる事になるだろうが、構うものか、この横暴な女を我が家から叩き出すつもりで言ったのだ。
ところが、月乃は全く動じない。
「いや、だからそんな事は聞いてませんから。早く弾いて下さいよ」
そんな事を言う。あまりに平然と無茶苦茶な言葉を返されたので、かえって守矢の側が、自分の論理が間違っているのではないかと疑ってしまう。
目の前で繰り広げられる奔放な振る舞いに、常識の存在を疑いながら、その行動を見守っていると、突然月乃は立ち上がり、部屋の隅に転がっていた楽譜を拾い上げた。
「丁度良いのがあるじゃないですか、優雅な日曜にピッタリ。これ弾いて下さい」
やけに分厚い冊子を掲げていて、どうやらアマデウス・モーツァルトのピアノ曲集らしい。満面の笑みだった。
「何番?」
つい、うっかり、だった。守矢は尋ねてしまった。
「取り敢えずこれ一冊、通しで、お願いします、手抜かないで下さいね」
逐一丁寧にそんなもんやっていたら何時間かかるだろうか、と考えるだけで気が遠くなりそうな注文だ。
「どうせ今日は暇ですから一日かけて弾いて下さい。これ終わったら次のも探しておきますから、休む暇無いですよ。
……あ、ご飯なら私が適当に作っておきますから、とにかく弾いて下さい……何ボサっとしてんですか、ほら、ちゃっちゃと始めて下さい」
弾かないという考えがハナから除外された物言いだった。
「いやだって言ってるだろう。弾きたくないんだよ」
「いつまでもわがまま言ってると、乱暴されたって言っちゃいますからね。松田さん怖いんですから、猟友会では日本のシモ・ヘイヘって呼ばれてるらしいですよ」
何を言っているんだこのバカは……と、室内の間抜けな空気に嫌気がさした守矢がふと窓の外を見ると、向かいのビルの屋上で、何かのレンズが反射したような気がした。
「冗談だよな?」
「いや、本当に。今日だってトランクにライフル積んでましたよ。私に何かあったらすぐ撃てるようにって」
引きつり笑いを浮かべる守矢に、ビルの屋上がキラキラと輝く。意図的にやっているようで、隠れるつもりは無いらしい。
『いつでも撃てるぞ』
そう言外に伝えている。
いずれにせよ諦めるより他にないらしいと、渋々ながらピアノに向かう。
鍵盤を撫でていたら、冷蔵庫に何も無いんですけど、と言われた。
「これ、どうやって暮らしてるんです?」
「ウチの前にホカ弁あるだろ、あそこ……別に無理して料理しなくていいよ、ホカ弁が嫌だってなら好きにすりゃ良いけど」
会話をしながらも、指は忠実に楽譜を追っている。最初は嫌々だったが、弾き始めるとアマデウスなど近頃は滅多に弾く事がなかった事もあり、その新鮮な感覚に没頭していく。
「折角私が来てるんだし、何か作らせて下さいよ」
「そういうの、確かに有難いけど鬱陶しい」
「じゃあホカ弁にします?」
「好きにすりゃ良い、そう言ってるだろ」
いつの間にか、交わす言葉を気遣う事が無くなっていた。行き過ぎれば良くない事なのだろうが、今日一日を敬語漬けで過ごす事よりは幾分マシだろう、そもそもとして、束縛されないはずの日曜だったのだ。
「解りました、好きにやらせて貰います――あ、もしもし、私です。ええ、買い物お願いしたいんですけど」
オタマジャクシと白黒の鍵盤に視界を奪われている守矢には確認できないが、その言葉から、どうやら電話をかけているらしかった。
「買い物くらい自分で行けよ、これだからお嬢は」
「私が行ったらピアノを聴けないじゃないですか――いえ、こっちの話です。はい、すみません……ええ、そうです。それに長ネギに豚ロース、あとは――」
受け流すような応対に守矢は漠然と苛立ち、その影響を受けた一瞬、一小節にも満たないほんの何音かが荒れた。素人にはそれと判らない程度の、喩えれば無限に伸びる砂浜に落ちた一粒のガラス玉と同じ位に、悟られるはずのないミスだったのだが、
「何やってんですか、ちゃんと弾いて下さい――あ、いえ、こちらの話です。守矢さんがたわけた演奏をしたもので、つい――」
月乃は耳ざとく聞きつけていたので、守矢の頬は引きつった。
そしてそういった事がこの時間では何度も起きたので、出来上がった料理を囲む頃には、守矢の精神は大分磨り減らされていた。チクチクと刺されるせいで、ぶっ通しの演奏の最中に一度として気を抜けなかったせいだ。
「何だかんだで口挟んでしまいましたけど、ぶっつけでここまで高いレベルの解釈を聴けるとは正直思ってなかったです。最近譜読みしたんですか?」
散々駄目出しした癖にのうのうと言う。
「まあ暇だし……滅多に弾かなくなってたけど、たまに眺める程度はな」
豚肉の味噌炒めらしい。キャベツと長ネギと人参とピーマン、それに豚ロースをみりんで溶いた味噌で炒めるというシンプルな料理だが、しかしそれなりに美味かった。
「味、どうです?」
「ああ、普通」
「そうじゃなくて、ホカ弁よりも良かったでしょう?」
「何が?」
「情がこもってますから、私の」
「ホカ弁だっておばちゃんの情がこもってるだろ」
「ひねくれてる、って良く言われません?」
「正直者とは良く言われるな」
憎まれ口を叩く一方で、確かに普段よりも箸は進んでいた。
食事を終え、一服を始めた守矢にお茶を煎れながら、月乃が言う。
「それにしても、どうしたんです?」
「何が?」
「この前は手抜きでやったんですか?」
お茶を啜りながら、どうやらジョークの類でも無いらしく、その声は決して軽いものではない。しかし守矢はその事に気付かないフリをして、有り得ないだろ、と笑い飛ばした。
「でも、音が違ったんですよ。慣れてるピアノだからとかそういう程度じゃなくて、一から十まで全く違ってました。うん、幼稚園児の描いた母親の似顔絵とモナ・リザを比べた時くらいの違いがありました」
どんな喩えだ、守矢は思わず吹き出した。
しかし月乃は表情を崩さず、それどころか、言葉を繋げるだけかえってその表情に真剣な色が増していく。
「五年前と比べても……確かに鬼気迫るような感覚は隠れてましたけど、単純な技巧、音の色彩だけ取ればむしろ――」
「――つまんない事言うなよ、それ以上続けるならもう弾いてやらねえぞ」
殊更に深い息を吐きながら話を打ち切ると、
「はいはい……解りましたよ」
見透かしたような、気の抜けた返事が返ってきた。
「じゃあ、解ったから、一つだけお願いしても良いですか?」
かといって完全に諦めた訳でも無いのか、守矢の様子を伺っている。
「ラフマニノフ作品三二の六番、スクリャービン作品七二、リストのパガニーニ・エチュード六番。弾いてみて下さい」
つい先日に弾いたプログラムを読み上げる月乃の目は、笑っていなかった。
守矢は一つ息を吐いたが、今更抵抗をした所で意味がないだろうと諦めて渋々頷いた。
演奏を終えると、全身にじっとりと汗をかいていていることに気が付いた。久々の感覚だった。精神は刃物よりも鋭利に研ぎ澄まされ身体の奥底から溢れ出る熱量を鍵盤に叩き付ける、女の肌などとは比べようもない恍惚。瞬く間に脳を染め上げた、焼け付くような閃光。
乱れた呼吸は暫く治まりそうにない。
「やっぱり言った通りじゃないですか。自分が一番解っているでしょ?」
月乃は言った。
「技術や表現の類は間違いなく向上しています。比べ物にならないくらい、それこそ、今の録音を聴かせればどんな人間でも貴方の名前を認めなければならないほど。
怯えているんです、何かに。自分の外、広い範囲に向けてピアノを弾く事を怖がっている……どうしてかとまでは、私にも解りませんけど」
「つまらない分析が趣味なのか? それにしても、そこら辺で止めておけ」
暴力的な雰囲気を滲ませた守矢が脅すと、月乃は、脅しに屈するというよりも敢えて取り合わないような口調で、まあ良いでしょう、と流した。
「じゃあ続きはこれ弾いて下さい。私は暫く読書しますから、BGMにさせて貰いますね……手抜きは駄目ですよ」
そうして、今度はショパンの前奏曲集を手渡すと、自分は文庫本を読み始めた。
舌打ちをしながらも、守矢は未ださめやらぬ己が指の欲望に対して抗う事も出来ず楽譜を開く。
ショパンのプレリュードを経てドビュッシーのエチュード、そこからバルトークの小品に繋がりブラームスのバラードに至る。とりとめもなく、指定された端から弾き続けているうちに陽は暮れ、窓からは夕焼けが射し込んでいた。
流石に手首を重たく感じ始めた事もあり、一息吐こうとした守矢がピアノから立ち上がると、いつの間に布団を敷いたのか、勝手に寝入った姿の月乃が目に入った。
わがままに付き合わされた挙げ句本人は夢の中では溜息しか出ない。あまりに癪だったので、床に転がっていた洗濯ばさみでその鼻を挟んでやる。
ふぎゃ、と妙な寝言を言ったが、相変わらず寝入ったままだった。
煙草に火を点けてから、もう陽も暮れた事であるし十分だろうと、一つのアテを持って部屋を出た。
マンションのエントランスまで降りていき駐車場を覗くと、やはりと言うべきだろうか、あからさまなセダンが停められており、中を覗き込めば朝一に雪崩れ込んできた黒服達の姿がある。
窓ガラスを軽くノックすると、静かに開いた。
「お宅のお嬢さん寝たみたいだから、今のうちに連れて帰って下さい」
「何もしてないだろうな?」
「監視してたんでしょう? 見ての通りですよ」
運転席に座っていた男が後部座席に向けて手を振ると、二人の男が車から出て行った。
「お疲れ様ですね、貴方達も」
守矢が言うと、
「お互い様だろ……金持ちってのは何考えてんだか解らんよ」
どうやら黒服としても、現状の職場に対して何一つ不満が無いと言う事は無いらしい。
「御名前は?」
「南郷だ。今日はすまなかったな、守矢さん」
そう言うと、どうやら一服点けるつもりらしい、南郷は車を降りた。何となく手を差し出した守矢にも気軽に応える辺り、彼に敵意は無いらしかった。
「俺等もなあ、したい仕事じゃないんだが。職場の親分がよ、なにぶん過保護で」
「松田サン?」
「ああ。二十年も面倒見てりゃ情が移るんだろうよ、ありゃあ怖いぞ」
「なるほどね……そいや、俺のコレクションはどこです」
「助手席に積んであるよ、良い趣味してんのな」
「店、教えてあげましょうか?」
「今度な……っと、来たみたいだ」
見ると、黒服の背中におぶられて未だ夢の中の月乃達がマンションから出てきた所だ。洗濯ばさみは鼻を挟んだままである。
「これ、どうするんです?」
月乃を背負った黒服が、小声で守矢に尋ねた。洗濯ばさみのことだろう、口元に皺を作って笑いを堪えている。
「俺からのプレゼント、って事にしておいて下さい……あとは、監視カメラとか付けてないですよね?」
「回収済みです、どうぞ今晩は御自由に」
残る一人の黒服が言う。付けてたのかよと、守矢はうなだれた。
「じゃあ、お邪魔したな」
そう言った南郷の後ろで、黒服達は月乃を後部座席に座らせて撤収の作業に入っている。
「そっちも、お疲れ様」
没収されていたコレクションを受け取ると、ようやく、守矢から安堵の息が漏れた。
車のエンジンがかかり、手を振ろうとした守矢に予期せず、運転席のウインドウが開き、南郷が身を乗り出してきた。
「守矢さん、引っ越しの予定とかあったりします?」
不思議な事を聞くものだ、と守矢は思った。確かに、ピアノを止めるとなればこのマンションから離れる事も必然の流れであるから、丁度そういう事も考えていた時期だ。
「あると言えばありますけど、どうして?」
「いや、出来れば東京の外に出たりするのは勘弁して欲しいなと……それじゃ、また」
謎めいた言葉を残して、南郷達は去っていった。守矢はその言葉の意味を深く考える事もなく、戻ってきたアダルトグッズを手に部屋へ戻った。とにかく疲れていたから、一刻も早く落ち着きたかった。
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