第1話 後悔
予想に反し、高級住宅街からは距離を置いた所にその邸宅はあった。
全容を一度に視界に収めきる事が不可能な程に巨大な門の脇には番犬の数百倍の効力を発揮するだろう、守衛用の詰所まで設けてある。
門の前に立ちふさがる見るからに屈強そうな四人の若者は、月乃が言うには、客を招いた催し物をする時にだけ臨時で雇う警備員という事らしく、仰々しい外観に見せてはいても、普段は警察官を引退した六十過ぎの守衛が一人でお茶を飲んでいるような、至極適当な警備らしい。一緒にお茶を啜りながら将棋を指す事もあるなどと彼女は笑顔で流していたが、規模が規模だ。“適当な警備”という言葉自体は間違いで無いのだろうが、一般家庭の思考は持ち込めない。
守矢はそれなりに金持ちの相手をして彼等の無駄な生体を把握していたつもりになっていたが、それは浅はかな認識だったのだと月乃という人物から悟った。華鳥という家は、守矢の店に来るような成金とは金持ちのケタが違う。
ちょっとコンビニに行くだけでも苦労しそうだ……などと下らない思考を巡らせている間にも車は進み、一定間隔で植えられた小高い並木が窓の外に映った。庭と言うにはあまりに大きなスケールに、守矢はここが日本である事を疑った。
「白木蓮なんです。家を建てた時にひい、ひい・ひい・ひい・ひい……あれ?」
「三つでよろしゅうございます」
頭がこんがらがったらしい月乃に、運転席から松田の救いが飛んだ。
「そう、ひい・ひい・ひいお祖父さんが植えたらしいです」
そこまで遡るのなら素直に御先祖様と言った方が楽だろうに。
「じゃあ、もう百歳近く?」
「そうなんでしょうね。こう見てもなかなか実感が湧きませんけど」
「百年経っても咲くものなんですか?」
「ええ、毎年元気に咲いてくれます。とても良い香りなんですよ」
白木蓮の並木が数十メートルも続いただろうか、やがて現れた屋敷は、いかにも明治に作られた近代風の洋館で、何かしらの文化遺産に登録されていてもおかしくないと思わせる、荘厳な佇まいだった。
「いつの頃です?」
「日清戦争の頃だそうですが――」
月乃はそこで一度言葉を止めて、守矢の顔をちらと覗き込んできた。
「――でも、大丈夫ですよ。ちゃんと耐震用の補工もしてますし、他も、中は殆ど弄り回してあります。私たちだって住めていますから、大丈夫です、不便はないと思います」
そんな心配は誰もしていない、と伝えるべきか惑ったが、月乃がやや早口になっていると気が付いて守矢は言葉を飲み込んだ。冗談の類ではなく、月乃は、本気でそれを言っているのだった。バックミラーをちらと覗くと、松田が目を細めて微笑んでいる。
いずれにしても恥を掻かせる訳にはいかない、話を逸らす事にした。
「設計はどこの国の人間が?」
「ええと……フランスだったか、ドイツだったか……イギリスだったかしら?」
「ドイツでございます」
しどろもどろになった月乃を、またも松田が救う。
「そう、ドイツでした。ドイツです」
「ああ、ドイツ人か。それを聞くと、良いですね」
少なくともフランス人でなくて良かったと、守矢は少しばかり思ったのだ。
「ドイツがお好きなんですか? そうすると、ワーグナーとか?」
ドイツ人の音楽家で真っ先に思い浮かぶのがヴァグナー、月乃の思考は、確かに模範的な解答の一つだ。
「大バッハより、アマデウス、ベートーヴェン、ハイドン、ヴェーバー、メンデルスゾーン、リスト、シューマン、ブラームス、リヒャルト・シュトラウス――」
「――モーツァルトやハイドン、それにリストだって、違うでしょう?」
「いや、ドイツですよ」
「オーストリアの方に刺されますよ?」
「彼等の前では違う口で喋りますから」
言葉を口に出してから一つ息を置く間も持たずに守矢は後悔した。
地獄の一歩手前で浮かれている自分の間抜けさたるや、店に来る客を笑えたものではない。
「守矢さん、何だかドイツの人みたい」
喜んでいる月乃に悪態を返す訳にもいかず、守矢は曖昧に笑う。そして車が止まった。
「どうしましょう、まずはお茶にでも――」
「――それよりもピアノを見せて下さい。感覚を確かめておきたいので」
「解りました、それではサロンの方へ」
月乃が車外へ降りる姿を守矢は車内で見る。いっそのことこのまま逃げてしまおうかとすら思う。その思いは実際に守矢の足を硬くする。
「さあ、守矢さん」
そう促す、月乃の柔らかな声が全てを見透かした上の物かも知れないと疑うと、視界が歪むようだった。
通された部屋は、小学校の体育館程もあろうかという広さで、むしろコンサートホールに近かった。
客席は百人が精々と言った所だろうか。しかし天井や部屋の広がりを見る限り、音響効果までも十分に考えて作られた、初めから音楽鑑賞の為だけに作られた部屋、ホールなのだろう。
「守矢さん、ピアノはどうしましょう」
「どうしましょうとは?」
「はい、ピアノの機種のご希望がありますか? 御三家や、一般的な所の物でしたらば大体揃えてありますが」
「ああ。いえ、特別には無いのですが」
まさかピアノの機種を聞いて貰えるとは思っていなかった。今までに演奏を依頼された家の中では、こんな事は一度も無かった。そもそもサロン用のピアノでリクエストを問える程に揃えている家など、そうそうありはしないのだろうが。
「それなら、あのコンクールの時と同じでよろしいでしょうか?」
あのコンクール、それはつまり守矢がここに呼ばれた理由でもあり、思い出したくない過去そのものでもある。
全ての悪夢が現実よりも鮮明に蘇る。――観衆で埋まった客席、スポットライトの眩しさ、頬を伝った冷汗の感触、晒し者のような表彰式、嘲笑の幻聴。そして、離れていった彼女の影――足が震え息が詰まる。吐き気と共に意識が遠くなる。
「――さん、守矢さん?」
肩を揺すられてようやく声に気が付いた。視界一杯に、月乃の顔が近付いていた。
「お身体よろしくないんですか?」
「いえ、大丈夫です。ピアノもそれで御願いします」
「でも……真っ青ですよ?」
月乃は目に見えて動揺している。
クソッタレ、初めから呼ぶな。守矢は明確に思った。
「取り敢えずピアノに軽く触ってから、少し休ませて頂いてもよろしいですか?」
作り笑顔で言うと、月乃は心配そうな表情のまま内線機を手に取った。
「私です、インペリアルで御願いします。それと松田さんに連絡を取って、守矢様用にお部屋を一つ用意して下さいと、ゆっくり休める場所を。……ええ、至急御願いします」
通話が終わってから暫くの後で、ホール全体を震わせるような大がかりな機械音が響き始めた。
「楽器はどうしても場所を取りますから。普段は全て地下の保管室に置いて、奈落からエレベーターで上げるようにしてるんです」
その言葉通り、壇上に迫り上がってくる黒い塊の影が見えた。スポットの入る音と共に、漆黒の巨体がライトに照らし出される。間違いようもなく、あのコンクールで守矢が弾いた楽器と同じ物だった。
「どうぞ、壇上に」
守矢の身体を気遣っているのか、寄り添おうとする月乃を手で制し、ピアノへと向かう。既に屋根を上げられてあるピアノの蓋を開き真紅のキーカバーを取り去ると、全音九七鍵・底部五音の白鍵を黒く塗り潰された特異な鍵盤があった。
「練習、拝聴してもよろしいでしょうか?」
「いえ、やはりミスも出ますし。人様にお聞かせするには恥ずかしいので」
「そうですか、解りました。くれぐれも、ご無理はなさらないで下さいね」
「ええ、大丈夫です」
月乃の退室を見送ってから、それとなく落とした右手第二指がA5を鳴らした。垂らした音が空っぽのホールに反響すると守矢の肩が僅かに震えた。
通常のそれよりも硬めに感じる鍵盤も、深淵と澄徹を兼ね備えた無欠の美を誇る音も、昔ならば高貴な楽器に触れられる事を素直に喜べていただろうに、今となってはそこに恐怖しか感じない。
誰も居ないホールではただ時間だけが流れ、練習すらまともに弾けなかった。
ホールから引き上げ、控え室だと案内された部屋の中で、守矢は考える。
案は二つあった。
一つは適当に流した演奏をする案。音をなぞるだけなら指が勝手に動くだろう、細かな表現や音の繋ぎの一切を無視すれば一応の体は保てるはずだ。ただし、この場にはそんな小細工が通用するような素人はいない。あの店の客とは違う。どちらにせよ恥だ。
二つ目は、いっそ逃げる。今、この屋敷から抜け出してしまえば良い。その場合は店に戻れなくなるだろうが、その程度ならばどこか場所を変えて働けば良いだけの話、塵のような演奏をして恥を掻くよりは何倍もマシだ。
それにあの店では嫌々弾いていたのだ、頃合いかも知れない。
「決まり、だな」
自嘲気味に呟きながら、最後に一服していこうかと懐から取り出した煙草を咥える。元々急な事だったのだ、などと言い訳がましい事を考えながら火を点けたその時、扉が外側からノックされ、心臓が気味悪い跳ね方をした。
「どうぞ」
どうにか取り繕って返すと、開いた扉の向こうには会いたくなかった、懐かしい相手がいた。
「お久しぶりです、先輩」
守矢よりも一回り小柄な男、昔のようなお坊ちゃんのヘアスタイルは流石に止めたようだったが、細い糸目は変わりようもない。
「修か」
上松修(ウエマツオサム)。音高、音大と後を追いかけてきた、二つ年下の後輩だった。当時は可愛がっていたし向こうも良く慕ってくれていたが、部屋に入ってきた修の様子を見ると、感動の再会には程遠い雰囲気のようだ。
無理も無いと守矢は思う。音楽関係の知り合いとは侮蔑されても仕方ないような別れ方以外していない。
「あれ以来、五年ぶりですかね」
修は守矢の対面となるソファに座り、一本良いですか、と煙草を求めた。
「お前、吸うのか」
「もう二十四ですから……先輩、変わってないんですね」
「口に合わない?」
「いえ……別に」
何となく、守矢は手元のセブンスターを眺めた。五年前と変わらない物はこれだけかも知れなかった。
「ホール行って見てきましたよ。インペリアルなんて、大丈夫ですか?」
嘲笑が籠もった修の言葉に戻らない歳月が表れている。
「あれ、確かに凄いですよ。他とは弾き方から全く違いますもん」
何ならコツでも教えてあげましょうか、とでも続けそうな表情だ。いくら嫌っている人間に対してでもこんな態度をとるヤツではないと思っていただけに戸惑いを覚えたが、それだけのことをしたからだと、当然の結論は直ぐに行き当たった。
「何しに来たんだ?」
「月乃さんの誕生日パーティにと招かれたので、一月前のマドリード国際の報告も兼ねて。華鳥さんには本当にお世話になってますし」
「マドリード国際?」
「先輩、本当に音楽から遠ざかってますね……優勝してきましたよ。日本人では珍しい事だって、こっちじゃ一般ニュースでも軽く流れたって聞きましたけど」
マドリード国際コンクールと言えば、若手対象の人材発掘を目的とした物では欧州でもトップクラスの規模で行われるコンクールだったか。ともかく、そんなメジャーどころで優勝したのなら欧州でも演奏依頼は受けるだろうし、日本であれば、プロ活動を行うには十分すぎる程のハクが付いた事になる。
「直ぐに戻るのか?」
「ええ、向こうの依頼入ってますから。今回はどうにか一週間だけ時間が作れて」
守矢は反応することも出来ず、呆けたように白い煙を吐き出すばかりだったが、それが気に障ったのか、
「……追い抜かれた気分はどうです?」
続いた言葉は棘を隠そうともしていない。
「素直におめでとうとしか言えないな、俺には無理だよ」
「そりゃそうですよ。アンタがあんな馬鹿な事やらかして僕達の前から逃げてから五年間、こっちは向こう行って死ぬ気でやってましたから」
「留学、どこに行ってたんだ?」
「フェレンツ音楽院」
「へえ、ハンガリー女のアレはどんな具合だった?」
ケタケタと笑った直後、修の手が伸びてきた。守矢の喉元を締め上げるその表情はまっ赤に染まり、咥えていた煙草が床に落ちている。
「アンタふざけんなよ! あの時、周りがどんな思いでアンタを捜したか――」
「――手、離せよ。少しは落ち着け、はずみで指痛めても責任取れないぞ……それこそどこぞの馬鹿みたいに後戻りできない事になっちまう可能性だってあるんだ」
煙草を咥え、煙を呑みながら、守矢は冷め切った声で答えた。真面目に返答してやるつもりなどこれっぽっちも無かった。
「失望したよ、本当に負け犬だな」
「……そうだな、だから逃げた。今だって、逃げるかどうか迷ってる」
修はゆっくりと手に込めた力を抜き、守矢は言い訳すらも諦めた。
「解った。もう良いよ」
床に落とした煙草を拾いあげ、灰皿に捨ててから、修は部屋を出ようとする。守矢も、特別に声を掛けるつもりは無かった。
「逃げるつもりならご自由に。代役は僕がやりますから、後の事は心配しなくても良いです」
「良くできた後輩だ、ありがとよ」
「でも、今日逃げると言うのなら……二度とピアノを弾かないで下さい」
いつまでも中途半端に縋っているな、みっともない。つまりそういうニュアンスだ。
背中越しの言葉に、守矢は静かに、ああ、と頷いた。
「それと、最後に」
「まだ何かあるのか?」
「今日、津村(ツムラ)さんも来ますよ」
修と共通する知人に津村という姓は一人しかいない、津村和宏(ツムラカズヒロ)だ。シンガーソングライターとして広く活躍しているような人間でクラシック畑ではないが、守矢の幼なじみだった。
「今度のツアーコンサートでクラシックの奏者が必要だったそうで、それに絡んで華鳥との縁ができたとか。奥さんと子どもも連れてくると。河合菜々子(カワイナナコ)さん……今は津村菜々子さんですか」
今度こそ本当に、守矢の意識が轟音に染まった。それは冬の夜よりも真白い絶望だった。
「他にも、楽壇のお偉い方が来るそうですから。弾くつもりなら、本番でつまらない動揺はしないようにしておいて下さい」
閉ざされた扉の中、守矢は五年前の夜を、和宏を殺しかけた夜を思い出していた――
いつからだったか、菜々子を蹴り飛ばす事が当たり前になっていた。崖っぷちのコンクールを控えての練習が思うようにいかず、焦りがあったと言えばそうだろう。泣きながら部屋の隅に丸まる菜々子を無理矢理に犯して、気に入らない事があればサンドバックの様に蹴りを入れ、そんな風に過ごす事が当然のようになっていた。
だから、守矢は気付かなかった。自分の暴力に菜々子が悩んでいて、それを和宏に相談していた事など、まるで気付いていなかった。コンクールが終わったあの夜、良くない結果だったからと不安になった菜々子が電話で助けを求め、そうして現れた和宏を見るまで、まるで何も、気付いていなかった。
赤く染まった顔面に幾度も拳を叩き付けた。泣きすがる菜々子を突き飛ばしてなおも殴った。和宏は血まみれになりながら守矢を罵った。守矢は、皮の剥げた拳の痛みを遠くに感じはしても、自分が何をしているのか解らなかった。雪崩れ込んできた警官に押さえつけられ、硝子戸を染める赤燈の色に気が付くと、窓の外では夜闇に生温い雨が降っていた。
――その夜の事を、思い出していた。
あの夜のように、雨が降っている。守矢はグラスを片手に、人混みから逃れるようにして、一人で離れたテラスに立っていた。流石は華鳥と言うべきか、やたらと美味いウィスキーで、二度と角瓶なんて飲めなくなりそうだった。
演奏後に送られた拍手は呆れ半分同情半分だったろうか。高校生レベルだというような酷評も中の輪に入り込めば聞こえてくる事だろう。いっそ清々しい程に無惨だった、奏者である守矢が一番良くわかっていた。
右手を空に掲げ、眺める。見た目は五年前と変わっていないように見えるがその中身は朽ち果てている。同じ構成を同じ機種で弾いたからこそ、認めざるを得ない現実に目が向いた。今日の演奏では、“どうにもレベルが低い”と評されたコンクールでも本選にすら残れないだろう。
いくら集中出来なかったとは言え明らかな衰えを実感させられた。空回りする指が鍵盤を捉えられずに横すべりし、滑らかな曲線を描くはずのフレーズにひどい段差が出来ていた。昔なら十以上に分けて表現できたはずの音色が今では精々で五か六だ。
あの店の客を見下すどころか恥を感じる資格すらも今の守矢には無かった。恐らく修などは呆れを通り越して憤っているだろう。
いっそ、止めるか。
綺麗さっぱりピアノから足を洗って真っ当な仕事を探す。二十六という年齢を考えれば、今でギリギリ、それでもかなり切羽詰まっているラインだ。
悪くないような気がした。修に二度とピアノを弾くなと言われて妙なプライドを見せたは良いが、所詮は底の浅い悪あがきのようなもの、既に限界は見えている。
「おとうさん?」
突然届いた背後からの声に振り向くと、少女というにもまだ幼いような子どもが一人立っていた。子どもは守矢の顔を認めた途端に顔を背けたので、どうやら人違いらしい。
「どうしたちびっこ。迷子か?」
ほろ酔いの加減も手伝い、守矢は背を屈めて話かけていた。子どもの顔を良く見れば、赤い目元の泣き跡が残っている。
「何ならお兄様が捜してやるぞ、お前のとーちゃん」
言ってから、ハッとした一瞬、確かに呼吸が止まっていた。
目元は父親に、鼻立ちは母親に似たのだろうか。和宏と菜々子の子どもだと一目で気が付いてしまった。
守矢は、グラスを呷って表情を隠す。
「あ!」
子どもが急に声をあげた。声はどちらが遺伝したのか知らないが、母親に似ても、父親に似ても、美声になるだろう。
「ピアノの人!」
「そうだな、ピアノのお兄様だ。ちびっこ、名前は?」
「ようこ。つむらようこ」
「へえ、ヨウコか。良い名前だ。年はいくつよ?」
「みっつ。ピアノ、すごかった」
コロッと元気になったその子どもを見て、どうやらこの位の子どもならまだ騙せるようだと捻くれた感想が浮かぶ。
「だろうな、何せ他でもないこの俺様のピアノだからな」
「おしえて!」
「そうか……でもヨウコのお父さんもお母さんも音楽のセンスがあるからな。俺様に教わるよりもずっと良いと思うぞ」
「やだ」
「どうして?」
「おとうさんのはだめな音楽だから、やだ」
「天下の津村和宏に駄目な音楽は無いだろ。女子高生から中年の親父まで敵に回すぞ?」
「だって、おとうさんが言うんだもの。ユキネのおんがくはビシっとしてかっこういいけど、自分のはだめだって。きょうのピアノはユキネに似てた、ちょっとだけ似てた」
心臓に杭でも撃ち込まれた思いだった。大学の頃、あんな事になる前、ピアノの練習を覗きに来た時に和宏に言われた台詞そのままだった。
「ユキネってヤツは、もうピアノを弾けないよ」
それにしても、ちょっとだけ似ていたという表現は面白かった。恐らく昔に録音した何かを聞かせているのだろうが、やはり衰えているという事なのだろう。
「ユキネ、やめちゃったの?」
「入れ替わりの激しい世界だからな、よほどの人間でなきゃ消えるのも早いんだ」
自分で言っておいて、どうしようもないなと思う。
その時、屋敷の内側から、ヨウコの名を呼ぶ懐かしい声が聞こえた。
「おら、行ってこい。とーちゃんだぞ」
声の主を目で見ることなく言うと、ヨウコは守矢をちらと見て、
「おなまえは?」
内緒だ、とはぐらかすと、ヨウコは膨れ面を作って見せたが、その頬を人差し指で突いてやると、途端に笑って父親の方へ駆けていった。
「葉子、どこに行ってた!」
「ピアノのお兄さんとしゃべってた」
守矢は立ち上がり、声に背を向けて庭を向く。自身がユキネであることを、葉子に知られてはいけないと思った。それは信念に近かった。恐らく、背後では葉子が自分の背を指しているのだろう。後は和宏が自分の名を呼ばない事を祈るだけだ。
「お母さんも探しているから、みんなの場所に戻ってなさい」
「お父さんは?」
「ピアノのお兄さんとお話ししたいから、先に行ってなさい」
「わかった。じゃあね、お兄さん!」
和宏の懸命な判断に胸をなで下ろしながら、後ろ手を振って返す。
今日が初対面の子どもだが、葉子には幸せに育って欲しい。だからこそ、自分のような人間と関わってはいけないと思った。
革靴が床を叩きながら近付いてくる音がする。五年ぶりの和宏にどう話せばいいのか、守矢はまだ決めかねていた。
「雪音、か?」
「誰だと思って話かけてんだよ」
「ああ……雪音だな。相変わらずだ」
和宏に声を掛けられると、それまで考えていた全ての事が杞憂に変わって、口を出たのは昔と変わらずの憎まれ口だった。全治三ヶ月の傷害事件、その加害者と被害者であるのに、再開は驚く程に落ち着いた物で、それは長く開いた時間のお陰もあるだろう。
「かわいい子だ。お前に似なくて良かったな」
「抜かすなボケ、俺にそっくりだって評判だっつーの」
「そうかよ、ボケ」
「そうだよ、ボケ」
互いに鼻で笑いながら、グラスに口を付けた。
「なあ、雪音……頼みがあってさ」
「何だよ、高いぞ」
「ツアー、やるんだ。その時に、小さい頃からクラシックをみっちり弾き込んでるような、ちゃんとした技術のある演奏家が必要でさ。他のメンバーは華鳥さんのお陰で縁があったけど、ピアノだけ見つからないんだ……頼めないか?」
「バーカ、他当たれ」
「俺だって自分がお前に追いつけたなんて思ってないよ、でも一緒に――」
「――ストップだ和宏。断る理由はな、お前はプロなんだから腕で選べって、それだけだ。今日日そこいらのバックバンドやってる奴等だって音大卒だ、ピアノ科の人間だってその中に腐る程いるし、クラシックなんてみんなそれなり以上のレベルでやってるよ。
その上でお前は更にちゃんとした演奏家を選びたいと言った。今日のアレを聞いた人間なら、ましてやプロなら、俺と組みたいなんて言えないはずだ」
「違う! お前のピアノの凄さは俺が一番良く知ってる、実力が出せなかったってだけだ。俺があんな馬鹿な事しなけりゃあの後も幾らだってチャンスはあったはずなんだ」
「何言ってんだ、勝手に殴り掛かったのは俺だろ。それに……菜々だって、お前に救われたと思ってるはずだ」
和宏をなだめるつもりの言葉だったが、失言だった。菜々子は本当にそう思っているだろうと“表層に浮かべたくない当然の事実”を一瞬でも自覚してしまった。
「あの夜、お前、俺に最低だって言っただろ? その通りだったんだ。大きなアザ幾つも作らせて、そんなだったから……むしろこの結果に感謝してる。
だから、頼むから、俺に気を使っているにしても、止めてくれ」
そうでなければ自分がもっと惨めになるから。
「でも、俺は」
「二度言わすな、お前酔ってるよ」
「違う、そうじゃない、俺はお前のピアノに憧れて、音楽を始めて、ずっと憧れて、だから――」
「――それでも、悪いけどピアノはもう止めだ。今日弾いてはっきり解った、限界だ」
「ふざけるな!」
和宏が、守矢の喉元を締め上げる。修と言い今日はとことん厄日だな、と守矢は思った。
「落ち着けよ、本当に酔ってるのか?」
「お前と同じ位だよボケ。それ以上舐めた口上垂れるなら、あの時の分やり返してやる」
「ヘタレの分際で無理するなって」
二人の眼光が限界まで鋭くなった瞬間、その声は届いた。
「守矢さーん、私の守矢さーん、どこですかー」
テラス手前の廊下を千鳥足で歩いている、月乃だった。
「あ、いた!」
守矢を視界に捉えた瞬間、おぼつかない足下で駆け寄ってくる。二人の間に流れていた一触即発の空気も、そのあまりの抜け具合に、どこかへ霧散してしまった。
「萎えたわ……お前もう行け。菜々も、あの子も、待ってるぞ」
「ふざけんな、お前が続けるって言うまで俺は行かないぞ」
和宏は粘ろうとしたが、月乃の酔いは凄まじかった。
「三流の分際で守矢さんに絡むな!」
そう言いながら、和宏の尻を思いきり蹴りあげた。骨に響いたような鈍い音と共に、いい年をした男が顔を歪めて飛び上がったのだから、その威力や推して知るべしだ。
守矢も思わず顔をしかめる。
「……ツアー前なんだろ、怪我させられる前に行け」
倒れ込むように胸に飛び込んできた月乃を抱きとめると同時に、和宏を突き放す。
「もう俺の事は忘れろ。お前は立派にやってるよ、俺なんかよりずっと前を行ってるって、本当に認めてる。だから、家族の前で自分を卑下するような事は言うな。あの子にとっても、菜々にとっても、お前が一番でなきゃ駄目だよ、父親だし、旦那なんだろう?」
和宏の居たスペースにはすっぽり月乃が収まり、守矢の胸を抱いている。相当酔っているのか、発情した犬のように体を擦りつけている。
その様子を見て和宏も諦めたのか、胸元から名刺を取り出すと、直通の物らしい携帯の番号を記入して、守矢のポケットに押し込んだ。
「今日は引くよ。でも、絶対に諦めないからな。俺はお前と組む為に、お前の横に並ぶ為に、それだけで音楽やってきたんだ。絶対に諦めない。連絡、待ってる」
「依頼はお断りだが、金に困った時は遠慮無く頼らせて貰うよ」
何度も振り返る素振りをみせながら、少しずつ離れていく和宏を見て、そういや昔から妙な所だけはしぶといヤツだったな、と、守矢は笑った。妙に清々しい気分だった、ピアノは駄目になっても、こんな風に昔の友人と語れるなら、恥を掻いた甲斐もあっただろう。
「守矢さんの事がずっと好きだったんですー、結婚してくださーい!」
感動的な状況に浸っていたいのにと思わず溜息を吐いてしまいたくなるような。もう一方の御嬢様はどうやらメッキが剥がれたらしい。ここまで見事なまでの酒乱ぶりを見せつけられると、酔いも醒めるというものだ。
「お酒は初めてですか?」
「だって今日から二十歳だもん。法律遵守!」
「お酒はね、節度を守れれば未成年でもオッケーなんですよ」
「嘘」
「半分は本当です、父にそう教わりました。今日はどれ程お飲みになりました?」
「ケーカチンシュ、イッパーイ」
ワインでここまで酔える辺りも、大学生らしいと言えばらしいのだろうか、微笑ましいような、鬱陶しいような。
「でしたら、次からはその半分にしましょうね。それでも十分に楽しめますから」
酔いも手伝ったのだろうか、守矢は月乃の髪を撫でていた。胸の中にいる女性は、無性にその髪を撫でたくなってしまうものだ。
そうして暫く、ふと言葉が紡がれる。
「ピアノ、嫌になっちゃったんですか?」
話を聞かれたのかも知れない、バツが悪くなり答えに詰まったが、言葉が途切れることはなかった。
「と言うより、限界を感じまして。お誕生日にあんな演奏をしてしまって、本当に申し訳ありません」
「確かに、今日はひどかったですけど」
容赦がないと苦笑するより、下手な世辞を言わずにいてくれる事に救われる。
「でも、そうじゃないんです。技術的な事より、守矢さん、ピアノが嫌いになっちゃったんじゃないかって」
桂花陳酒のせいらしい、キンモクセイの甘い匂いが月乃の体から放たれている。
匂いに釣られるように守矢は吸い寄せられ、自身の状況の危険性を悟ったのは腰をぴったりと合わせるように左手を回してしまってからだった。
マチガイという名の沼地が、つい、という言葉で片付けられてしまいそうな程に、跳ねた泥で裾を濡らしてしまう距離まで近付いている。
「ピアノの前の守矢さん、弾きたくないって……泣いちゃいそうに見えたから」
声が徐々に鼻がかってくると堪えていた物を吐き出すように泣き出した。ごめんなさいと謝る月乃に、気にしなくて良いと守矢は返す。
「それに、ピアノの前で泣くほど女々しくは無いつもりです」
「五年前……あの演奏を聞いて、凄いと思ったの。この人はピアノの事しか考えられないんだって、ピアノがなければ生きていけないんだって、そう思って、だから」
ピアノの事しか考えられない。ピアノがなければ生きていけない。守矢は、同じような事を二人に言われた記憶が既にあった。
菜々子と、ピアノの師に、言われたのだ。そして師は、それでは駄目なのだとも言った。ピアノはあくまでも手段に過ぎないと、いくらシューマンとクララの書簡を読んで研究した所で、君自身に恋をした経験がなければ弾ける訳がないと、口酸っぱく言われた。ピアノを弾く事で君はどうしたいと問われ、守矢は何も答えられなかった。当時は菜々子という恋人がいたはずなのに、守矢がシューマンで誉められた事は一度も無かった。
「だから駄目なんだってさ。ピアノ以外何も無いからつまらないと、昔言われた」
「違うの、だから私は、この人は本当にピアノが好きなんだって」
見え透いた慰めほど腹立たしい事は無い。恥辱の念に犯された頭が熱く燃えあがった瞬間、守矢はグラスを一気に空にして、言葉を遮る。
「もう良いから」
守矢は月乃の顎を引き上げると、唇を重ねる事で言葉を止めた。驚きに暴れる細腕を押さえつけるその感覚は、菜々子を無理矢理犯した時の、苛立ちに流されて動く体の感覚に極めて似ていた。
相手が壊れてしまえば良いと思いながら、力を込める。
月乃は、キンモクセイの味がした。これからキスする相手には桂花陳酒を前もって飲ませておこうかと一瞬でも考えてしまう程、美味しいキス。秒という単位が繰り上がり、舌まで、それも深く、唇の裏側を舐めるような事をしてから、体を離す。
「さっき、ピアノが嫌か、って聞いただろ」
目を逸らしながら、女の甘い匂いに頭を預けた。
「ピアノを弾かなければ良かった、とは思う」
「今日の事なら、全部私のせいだから――」
そうじゃないと言葉を遮り、息を吐く。意地を張らずに全てを認めてしまえば楽になるのだと気が付いた事への、区切りがついたという安堵の息だった。
「二十二年も前の事だよ」
初めてピアノを弾いたのは、近所に住んでいた音大出のお姉さんの家だった。
お姉さんは優しくて、膝の上は柔らかくて、今感じているような、甘い匂いの人だった。
そんな事を思い出しながら、酔いに任せて目を閉じた。
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