Je te veux

@yane

プロローグ

 金の臭いが満ち溢れたホールの片隅にピアノがある。コンサートホールに置かれていても遜色ないグレードの物だが、しかしそれが本来の役割を果たす事は有り得ない。永遠に、置物として扱われる為だけのピアノ。観客のいない事を前提とされた孤独なピアノ。

 ――何故サティなんて弾いているのだろう。

 置物のピアノを奏でる男、守矢雪音(モリヤユキネ)の脳裏に、そんな言葉が浮かんだ。

 セレブリティ・クラブを自負するこの店は、その看板に違わず、大企業の重役やスターと呼ばれるようなタレント、果ては大物政治家まで、金を腐る程に余らせた人間にのみ来店を許す。ここで働く女の九割、或いはそれ以上の割合が、莫大な金に満たされて暮らす将来を夢見ている。客である男達は、自分のステータスを損なわないような、整った顔と美しく若い身体を持った女を、妻に、或いは愛人として、求める為に訪れる。

 君が欲しい。おまえが欲しい。嗚呼、馬鹿馬鹿しい。欲しいではなくて、買いたい、の間違いだ。この場に流れるサティなんて、お笑いだ。お笑いであると知りながら曲を奏でる自分は、さながら三流の道化だろうか。守矢は表情に出さずに自嘲した。

 演奏を終えると、一応の拍手が向けられる。――私は音楽には五月蠅い人間だがね、ここのピアニストはとんでもなく巧い、そこいらのプロよりもずっと巧い、実に繊細なタッチをしている。ここで修行を兼ねてコネでも作り、いずれは世界に羽ばたく心積もりなのだろうよ。――そんな言葉が客の一人から漏れて聞こえた。モスグリーンのスーツを着た男、昼間のワイドショーで誰しもが一度は見た事があるだろう、有名なコメンテーターだった。

 守矢は心の中で大いに嘲った。演奏家として食えなかったからこんな所に拾われた、そんなありがちな自分の過去を話してやったらあの男はどんな顔をするだろうか。演奏家の成績として扱えるレベルのコンクールでは一位無しの二位が精一杯だったと話したら、その時の審査員が『今回はどうにもレベルが低かった』と苦笑交じりの総評をした事を話したら、二度と知った顔でテレビに映れないはずだ。

「何か、リクエストは御座いますか?」

 営業用の笑顔を浮かべながら守矢は尋ねた。この店で先ず覚えたのは、笑顔を作る技術と手抜きの演奏だった。それ以外は必要でなかった。守矢がこの店に買われたのは、演奏技術が特別に秀でているからではない。それなりのコンクールでの入賞経験と店の品格に合う外見、何より、演奏家一本でやっていける程の腕はない、という条件に適ったからだ。

「ラヴェルを頼むよ」

 真紅のソファに腰を下ろしている男が、その片腕を女の肩に回しながら言った。

「かしこまりました」

 どいつもこいつも、成金共はリクエストまで芸がない。フランス人のクラゲみたいな音楽ばかりリクエストしてんじゃねえ、クソッ垂れの豚共が――そう悪態をつきたくなった事もある。サティを、ラヴェルを、特別に嫌っていた訳でもなかったが、それでも、ここに来る奴等には言ってやりたかった。

 お前らに音楽の何が解る。

 昔はそう思いながらも歯を食いしばった。今はもう、それすら忘れた。



 閉店後、バックルームで着替えをしていたらオーナーの松方から呼び出された。手抜きの演奏を責められるだろうかとも思ったが、しかし松方もまた音楽と言えばロック程度しか聞かない人間であるからその思案は一瞬と待たずに打ち切られた。

 足早に着替えを終えてオーナー室に向かうと、松方が一人で書面に目を通していた。特別に嫌悪する理由がある人間でもないが、どのような形であっても雇用者と対面するのは精神衛生的に良いものではない、と守矢は思う。

「お疲れの所悪いね、守矢君」

 松方は最低限のねぎらいの言葉をかけると、部屋に備えてあるソファに守矢を促した。

「今週末の土曜、夜なんだけど、行って貰いたい所がある」

「土曜……こちらは構いませんが、店の方は良いんですか?」

「仕方ないから、その日の演奏はお休みって事にするさ」

 どうせやってもやらなくても良いのだから、そう言われた気分になった。

「解りました。どこに行けば良いんです?」

 松方から顔を背けるようにして返した。気が緩んでいたせいか顔が歪んでいた。

「御本人はウチの店に来る人でもないんだがな。ほら、良く来る山本先生が親しいらしくて、その伝で頼まれたんだ。華鳥恭一(ハナトリキョウイチ)って、君なら知っているだろ? 邸宅でパーティをやるそうなんだが、その席でピアノを演奏する人間が欲しいと」

 守矢は言葉に詰まった。依頼の内容に戸惑った訳ではない、今までも、上得意の客の家に招かれて演奏した経験は何度かあった。戸惑いの理由は、単に依頼主の名前にあった。

「華鳥恭一の依頼って、何の冗談です?」

「冗談ではないよ」

 華鳥一族と言えば、旧華族に繋がる明治来の有名な資産家であり、そして同時に、国内音楽の振興に最も貢献していると言われる一族でもある。音楽留学生に対する幅広い奨学金を始めとして、自らの名を冠するコンクールの主催は元より、その他の大きな音楽事業にも必ず共催として名を連ねるような音楽道楽、いや、音楽狂の一族。その華鳥の当代当主こそが華鳥恭一だった。

「冗談でないのなら遠慮させて頂きます」

 華鳥のパーティともなればプロのピアニストだって確実に出席するはずだ。華鳥の後援を得て世界へ出て行った人間など数が知れないのだから、かつて目を掛けた、現在も第一線で演奏しているような人間がやって来ないとも限らない。そんな環境で演奏するなど冗談ではなかった。見下され、恥を掻くのは目に見えている。

「駄目だ、行ってくれ」

「どうしてですか」

 棘を含んでいるようにも取れる言葉は、動揺が口を出た事を示していた。しかし松方も、守矢の荒くなった声を意に介した様子を見せない。

「先方からどうしてもと頼まれているんだよ。君、華鳥のコンクールで良い線行った事があるんだろう? それを覚えていて、君の演奏を聴きたいと言うご親族がいるらしい。君にしても悪い話ではないじゃないか、音楽関連のコネを持てるかも知れないぞ」

「コネなんて、今更ですよ」

「とにかく、これは決定事項だ。今週の土曜、送迎は先方が君の家まで回してくれるそうだから。それとこれが先方がリクエストしている曲だそうだ……くれぐれもね」

 話は半ば強引に打ち切られ、守矢は一枚の紙切れと共に部屋を出された。扉の前に立ち尽くし、吐いた溜息は鉛のように重く、それでも変わらない現実に、畜生、と一言、呟くしかない。

 諦め交じりの心境で、押し付けられた紙切れを眺める。記された三つの曲名、その構成には覚えがあった。かつて華鳥の主催したコンクールで一位無しの二位となった、全てを捨てて死に物狂いで追いかけた夢が粉々に砕けた、悪夢の象徴とも言うべきレパートリー。

 あの時も、あれからも、全てが思い出したくもない現実に満たされている。

 守矢は再び、畜生と呟いた。






 時は待たず、それどころか苦悩を煽るように、いつより早く流れていった。土曜の昼下がり、彼の家に現れた送迎車を守矢は溜息で迎えた――のだが、ここで一つ守矢の予想が狂った。

 いかにも高級そうなセダンからは使用人らしき初老の男性が降りてきたのだが、ここまでは別段予想通り。ところが、もう一人、真白いイブニングドレスを着た、若い女が降りてきたのだ。高校生、いや、大学生だろうか、薄く化粧をした表情にはまだ幼さが残っており、守矢よりも若い事は間違い無いだろう。身長は、一般的な女性平均よりはやや大きいだろうか、スラッと縦長に伸びた、モデル体系というやつだ。

「お待たせ致しました。守矢さん、守矢雪音さんですよね?」

 会釈をした女の、肩程に揃えた黒髪が、絹のように波打った。

「ええ。……失礼ですが、貴方は?」

 間違ってもエスコートを務める人物では無いだろう。もしそうであるなら、もう少し落ち着いた雰囲気のある人物をよこすはずだ。どうしてこの女をよこしたのか、守矢は華鳥の意図を掴みかねていた。

「あ、私は華鳥月乃(ハナトリツキノ)と言います」

 あっけらかんと女は言った。

「華鳥……ってことは、娘さん?」

 あまりにあっけらかんとされたので、守矢も驚くに驚けなかった。

「あ、はい、長女です」

「あ……長女さんなんですか」

「ええ、兄が三人居ますけど、女は私だけで」

「ああ、お兄さんがね」

「一番上が恭介兄さん、二番目が宗介兄さん、三番目が康介兄さん、で、一番下が私なんですよ」

「はあ……そうですか」

「年は、上から――」

 喋り続ける月乃に釘を刺すように、背後に立っていた初老の男性がわざとらしい咳払いをした。月乃も我に返ったらしく慌てて取り繕っている。一方、守矢は呆けていた。

「守矢様、本日は誠に有難うございます。私は華鳥家月乃様付使用人、松田と申します」

 松田のそれは、背筋を綺麗に折りたたむ、見惚れてしまいそうなお辞儀だった。

「じゃあ、早速行きましょう。今日は私の誕生日パーティなんです。ね、松田さん?」

「さようでございます。が、月乃様、私の事は爺やとお呼び下さい」

 そう言うと松田は踵を返し、後部座席のドアを開けて構えた。

 月乃は守矢の手を取り、エスコートの体を取る。そして車に乗り込むと、

「でも、松田さん、私もう今日で二十歳なんだから。いくら何でも、ね?」

「駄目です、私の生き甲斐を奪うおつもりですか。月乃様付の命を賜ってより二十年、私に死ねと申すのですか。それだけは……なりませんからね」

 月乃を睨むようにして言いながら、松田はドアを閉めた。

 すっとぼけたような会話をしているが、やはり基本的に階級が違うのだ。守矢は、ふと息を吐いた。

「あの。……今回の依頼は、やはり御迷惑でしたか?」

 そう尋ねる月乃は、大きく身を乗り出していた。イブニングドレスから白い谷間が不意に覗けて、顔の表情だけ見ると幼く見えたのになかなか発育した良いものが付いている。

「両親や、兄にも、守矢さんの御迷惑になるから駄目だって言われたんです。でも、私が無理を言って押し通した物だから」

「いえ、別に。そんな事ありませんよ。ただ少し、庶民には慣れない車なものでして」

 今更言った所で始まらないというのが正直な所だったが、職場で身に付けた作り笑顔が役に立ったのか、多少なりとも月乃はほっとしたようだった。

「……私、守矢さんのファンなんです、五年前に聞いた時から、貴方のピアノがまた聞きたいって、ずっと思ってたんです。だから、今日は嬉しくて、松田さんに御願いして付いて来ちゃったんですよ」

 眩しい位の笑顔と熱っぽい言葉を向けられて守矢は顔を背けた。歯を食いしばり畜生という言葉を飲み込んだ。

 やがて松田が運転席に着き、月乃の令を待ってから、車はパーティへ向けて走り出した。






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