第9話

 あれから累計9体の四眼狼を屠り、帰りの車を完成させた犬井は帰路についた。辺りはもう薄暗くなってきている。念のためMP7A1は膝の上においた状態で、車を運転し、検問に戻る。

 検問で帰還手続きを済ませ、わずかばかりの報酬金を受け取る。財布をもったいないので、とりあえず受け取った封筒のままでダッシュボードに入れて保管しておくことにする。

 検問を出たときにはもう辺りは真っ暗だった。そういえば腕時計もない。とにかく金が足りないのだ。犬井はまた車を走らせ、第一九区の池谷の店に行ってみることにした。

 一九区の街についたのは夜も更けた頃だった。もういまさら池谷の世話になるのもどうかと思うが、一応店の前まで来るまで行ってみることにした。

 『再形成のイケタニ』の看板のかかった店の前に車から降りて立ってみると補足明かりが漏れているのに気づいた。まだ起きているのだろうか。

 世話になってばかりだが、ここで引いてもまた路上生活に戻るだけだ。生還できた報告だけでもして後は車中泊でもするか。

 犬井はそんなことを考えながら店のドアを叩いた。

 どたどたという音がして、ドアが薄く開いた。

「おう!生きて帰ってこれたか!」

「死にかけましたけどね」

 池谷次郎は豪快に笑った。

「いやいや、俺は帰ってこれない方にかけてたんだけどな――まあ、入れよ」

 失礼しますと行ってから、犬井は店に上げてもらった。再形成反応炉のある店側はもう電気は落とされ、裏の和室から漏れる電気が薄く部屋を照らしていた。

「ちょっと待っててくれ、華子に頼んで晩飯の残りくらいは食わせてやるからな」

「え、大丈夫ですよ。俺が自分でなんとかします」

「女の子が俺なんて、一日検問外を走り回った割にまだ慣れてないんだな」

 池谷は豪快に笑った。

「どうせ俺たち以外に顔の効くやつなんていないんだろ、しばらくなれるまでは俺の店においてやるから安心して座ってろって」

「すいません本当に……ありがとうございます」

「いいってことよ」

 犬井は池谷に連れ添われて裏の和室に上がった。

 和室には二つの座布団にちゃぶ台が置かれ、薄型テレビには夜のニュースが流れていた。華子は池谷の話を聞いていたのかキッチンの方に行っているようだ。

「異世界でもテレビが映るんですね」

「ああ、受信料を払わないといけないがな」

 池谷はどっかと畳に座り、あぐらをかいた。犬井もそれにならって畳に座りあぐらをかく。

「異世界でも時事情報は大事だからな。戦力図の塗替えがあれば、俺達も身の振り方を考えなくちゃいけない」

「戦力図……ですか」

「ああ」

 池谷はチャンネルを切り替える。『中央軍広報』と小さく緑の字で表示される。

「今のこの異世界は『転生者正規軍』を名乗る集団が覇権を握ってる」

「はい。私も転生してすぐに保護……いや身柄を拘束されたので知ってます」

「そうだな」

 池谷は苦々しい表情で吐き捨てるように言った。

「そのとおりだ……あの集団は新規転生者を保護という名目で囲い込んで、そのまま自分の戦力にしてる。そうやって自分の戦力を拡充してきたんだ」

「そうなんですか?でも私は……」

「ああ、そうだよ。覇権を握ってからは新規転生者をないがしろにするようになった」

 池谷は嫌悪感を隠さずに言った。多少酔っているのかもしれない。犬井はまだ池谷の一面しか知らないが、それでも今日の池谷は感情を表に出しすぎているようなきがする。

「それに加えて新規転生者を利用するようになった。何も知らない、なにもわからないのを良いことに性的な暴行を加えたり奴隷のような扱いをしたり……俺や華子もその被害者だ」

「ご飯が温まりましたよ」

 華子のよく通る声がした。華子も中年の女性だが、若々しく優しげな表情には犬井も母親に対するものに似た安心感を抱いてしまう。

「あ、ありがとうございます」

 決して豪華ではないが、質素な食事の中に家庭の食事の温かみがあった。犬井は借り物の漆塗りの箸でつつき始める。

「おう華子、茶を入れてくれんか」

「はいはい」

 そう言うと華子は急須を取りにキッチンに戻っていった。

「正規軍も今は検問を整備したり、結果的に俺たちの安全を確保するようなことをやっているが……信用しすぎるのも良くないし依存しすぎるのも良くない。最低限身を守れるくらいの力は持っておく必要がある。

「……」

「まあ、そういうことはまだまだこれから覚えていけばいい」

 犬井は考える。現世にいた時、自分は何を考えて生きていただろうか。学校。定期試験。受験。将来の夢。

 いや、将来の夢なんて考えてはいなかった。本音を言えば全てに希望はなかった。絶望もしていなかったが、何かを考えていたわけでもない。なんとなくで大学に行き、そのまま流れで就職をして、なんとなく結婚とかして死んでいくのだと考えていた。

 いや、「なんとなく」すらなかった。何もなかった。流れ。日本人全体の中で存在する流れに身を任せるだけだった。それに疑問を持つこともなかった。

「ところで――お前、いける口か?」

「はい?」

「あらあらごめんなさいねえ、この人、新しい子とお酒が飲みたいって昼間から言ってて……」

 華子が済まなそうな声で言ってくる。池谷は少しだけ赤くなった顔で笑う。

「せっかく異世界に来たんだ。健康も法律もないんだぜ?呑まなきゃ損ってもんだろうがよ」

 池谷は豪快に笑った。華子の注いだ緑茶を一気に飲み干すと、冷蔵庫に向かった。

「何か好みの酒はあるか?大概の酒はここに揃ってる」

「あ、えーと……」

 まだ何も言っていないのに、もう呑むことになっているらしい。

「じゃあ、缶チューハイとかもらえますか?」

「缶チューハイなんてジュースだろ、まずはビールだ」

 缶チューハイといったはずが、強制的にビールになってしまった。困った顔で華子に犬井が助けを求める。

「あなた、新人さん困ってますよ」

「まあまあそういうなって。初めてだったら誰だって不安なもんだよ」

 池谷は冷蔵庫から取り出した缶ビールをどんとちゃぶ台の上においた。

「サントリーの金麦だ。安い第三のビールの中では最高峰だと俺は思ってる。初めてでもきっと飲みやすい」

「はあ……」

 そんなこと言われても犬井には酒の種類なんてわからない。途方にくれている犬井に華子が助け舟を出す。

「この人、お酒大好きなのよ。ごめんね?」

「い、いえいえ。そんな……」

「そうだよなあ?ほら、まずは少しでも飲んでみろって」

 否応なしにコップにビールを注がれてしまった。二人は酒が初めてだと思っているが、犬井自身無論これが初めての酒では無い。異世界転生当日に缶チューハイを一本飲んでいる。

 ただ、一本飲んだだけで潰れてしまった以上、強くはないのだろう。酒自体、あまりうまくは感じなかった。ただ、これで異世界初めての人脈が手に入るなら、飲んでも良いか、と少しだけ考えた。

「じゃあ、いただきますね、少しだけ」

「おう、気にせず飲め飲め」

 犬井は口にビールを含んだ。

 苦味、と言うより独特の匂いが鼻についた。決して美味くはない。だがまずくも感じなかった。

「苦くはないだろう」

 池谷が言う。口にビールを含んだままで頷く。

「金麦は飲みやすさでは一番だ。俺はアサヒの方が好みなんだが……初めてには金麦を俺は推す。俺の家に来たからには、毎晩飲み会にご招待だ」

 池谷は豪快に笑った。

「この人、新しい女の子と呑めるって、ずっと楽しみにしてたのよ」

「おうともよ、男だったら女と呑むのは楽しい、あたりめえだろうがよ」

「あら?私と呑むのは楽しくないのかしら?」

「んなことは言ってねえ、家と女房は慣れてるのが一番だ」

 今度はふたりとも楽しそうに笑った。池谷もいつの間にか机の上にあったはずの金麦のビールの缶を手にして時々中身を呷っていた。

「じゃあ、私も……」

 華子もいそいそと自分用の酒を取り出した。お茶の休憩を挟んで、密かに二人のエンジンがかかったようだ。

「お注ぎします」

「あら、そう?じゃあお願いするわね」

 ほとんど反射的に、手が動いていた。大きな茶色の瓶にはいった透明な液体を、小さなコップに注ぐ。

「このお酒はなんですか?」

「これは黒霧島っていう……焼酎ね、独特の臭みがあるし、アルコールも強いから初めてには勧めないわ」

 そう言いながら、華子はその焼酎を舐めるように口に運んだ。

「そのビールが終わったら、なにか飲みやすいお酒を探してくるわね。大概のお酒はうちにおいてあるから、きっと口に合うものもあるはずよ」

「あ、終わりました」

「あら?お酒つよいのね、じゃあ、こんなのはどうかしら」

 そう言うと華子は牛乳パックを大きくしたような容器を取り出した。2L近く入りそうな大きさのそれには杏のイラストが書かれている。

「あんず酒よ。ビールみたいな苦いのは苦手みたいだから、こういう甘いのを私はおすすめするわ」

 なんだか今日は色々なお酒を勧められてばかりのような気がする。犬井はコップを持って華子に杏酒を注いでもらった。一口、飲んでみる。

「甘いですね」

「そうでしょ」

 とても甘かった。芳醇と言うには違うかもしれないが、アルコール独特の鼻に来る感じが甘さで緩和されている気がした。

「僕、これなら飲めるかもしれません」

 そういうと華子は口元を隠して笑った。ぽかんとしていると華子が楽しそうに言った。

「もう、女の子が僕なんて、まだ慣れてないのね」

「あ、はい、そうかもしれません」

 そういえばそうだった。あまり実感がない。『再形成』とかいう謎の技術で、自分の身体を変化させたんだった、と改めて思い出す。前の自分がどうだったかを思い出して、訓練場で白鷺に殺された事を思い出して、なんとなく嫌な気持ちになる。杏酒を呷った。

「そうですよね……私、女の子なんですよね」

「そうよ、昔のことなんて忘れちゃえばいいじゃないの」

 華子は少しだけ寂しそうに笑った。

「この世界には過去も未来も無いの。お酒で流して忘れちゃえばいいのよ。嫌なこと全部、杏酒で流して忘れちゃいましょう」

 そう言うとコップに入っていた焼酎の残りを一気に呷った。手酌で焼酎を更に注ぐ。

 思えば異世界に来てから色々なことがあった。白鷺舞にあって、色々な事を教わって。殺されて、殺して。それからここで酒を飲んでいる。

 異世界に来るまでは、自分に一緒に酒を飲む相手ができるなんて思いもしなかった。そう考えると妙にしみじみとした気持ちになる。

「今日はお前の初めての検問外チャレンジの記念日だ。寝かせねえからな?」

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