第16話
3年の月日が流れていた。
牧村は、父の経営する関連会社で取締役を任されていた。28歳という、社内では異例の若さでの就任である。
1年の大半を、海外や国内を飛び回る過酷なスケジュールで、ようやく1週間のまとまった休みが取れた。8月中旬の夏季休暇だ。
仕事からも、スケジュール管理で常に同行する秘書からも解放された、完全なる休日。
牧村は、静岡に降り立っていた。…とある店の、開店前に合わせて、夕方に着いたのだ。
美緒の伯母が経営する小料理屋。彼女が唯一頼れると話していた、母の姉だ。
牧村は、ずっと、美緒を探していた。住むところを転々としていたせいか、見つけるのに時間がかかってしまった。それから美緒の伯母と密かに連絡を取っていたことは、彼女も知らないはず。
牧村から身を引いた美緒が頼った先は、やはり伯母で、アパートは引き払い、転校をしていた。静岡の大学に進学した今、伯母の家を出て一人暮らしをしていると聞く。
駅から10分程歩いたところに、その店はあった。飲食店が立ち並ぶ一角に、白い壁に木製の扉。石造りの小さな箱庭に、打ち水がされた店先。
牧村は、小ぢんまりとした何処か懐かしい、暖か味のある暖簾をくぐり、引き戸を開ける。
「すみません、まだ準備中で…」
上品で張りのある声。着物姿のおかみさんが申し訳なさそう。
美緒の伯母、晴美だ。
「初めてお目にかかります。私、牧村と申します。いつも手紙で失礼して―――…」
「…まあ! あなたが、牧村さん? 思ったとおりの、優しそうな方だわ」
晴美は、嬉しそうに頷いている。向けられた笑顔は、美緒に似ていた。
手紙の文面や、電話越しの声や話し方から想像していたとおりの、いや、それ以上の好青年に、安心したとでもいうのだろうか。
彼からは、きちんと自己紹介をしたいという気持ちが伝わってきた。しかし、2人にそんな時間は勿体無いと、牧村の言葉を止めて、裏で料理の仕込みを手伝っている美緒を呼ぶ。
「美緒! お客様よ!」
呼びかける声から少し間が空き、裏から返事が聞こえてきた。
サンダルだろうか。パタパタとした足音が近づく。牧村の鼓動が、強く打ち始める。ずっと探していた美緒が、もうすぐ―――
「はあい。私にお客さん? 誰かな」
黒いエプロン姿の女性。肩下まで伸ばした黒髪に、女性らしい横顔。大人びた雰囲気だが、目の前の女性が美緒なのだと判る。
カウンターの向こうに、人の気配。美緒は振り向き、彼を視界に捉える。
数秒、言葉もなく見つめ合う。
「…――真一さん?」
まさか、そんなはずはない。人違いだろうけど、でも、彼としか思えない。…そんな思いが込められた問いかけ。
「うん。――随分、探したんだよ」
3年前と変わらない、牧村の優しい眼差し。懐かしくて、切なくなる。
美緒は、彼の左手に視線を落とした。指輪をしているのか、無意識に確認してしまう。見る限りは、していないけれど、付けない人もいるというし…。
「美緒ちゃん、久しぶりだね。元気そうで良かった」
「あっ… うん。真一さんも」
彼の名を言葉にする度、胸に熱い気持ちが溢れてくる。心の底に鍵を掛けて閉じ込めた想いが、暴れ出しそうだ。
もじもじしている美緒を、晴美は微笑んで見ていた。
この日が来たら、そうしようと思っていた。
「美緒。今日はお店いいから、牧村さんと一緒にいなさい」
「え!? ダメだよ。今日は予約のお客さんが――…」
「大丈夫よ。これまで何十年、一人で切り盛りしてきたと思ってるのよッ!」
美緒が遠慮をしないように、元気良く突き放す。
エプロンの紐を解き、無理矢理に脱がせるとカウンターから押し出した。
「女将の命令です! ハイ、いってらっしゃい! ――じゃあ、牧村さん。よろしくお願いしますね」
半ば強引に店から締め出され、美緒と牧村は顔を合わせて笑った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます