第18話 3章03……デッサン娘を怒らせたら、本気で殺し(物理的)に掛かってくるので逃げましょう。




「――あー……ったく、由乃たちも容赦ないよなぁ。

 まあそこが照れ隠しっぽくてギャルっぽさの裏に隠された可愛げ要素でもあるんだけど」



 最終的に由乃から十三連コンボの蹴りを叩き込まれつつも、幹は驚異的な回復力でピンピンしていた。

 相変わらず、懲りない男である。

 ……そしてにぶい男である。




 廊下に放り出された幹のすぐ目の前には、南向きで採光と眺望が良く、デザイン科棟三階の中では一番スペースの広い教室の戸があった。



「あっ! そういや製図室のすぐ側はデッサン室だったな。それならもしかして……」



 とある女子のことを思い出した幹が意気揚々とその部屋に入って行くと、そこには想像通りの人物が鎮座していた。



 ……部屋には幹が予想した女子が一人いるのみ。



 まるで一枚の絵画であるかのようにデッサン室との一体感を醸し出している。

 白い一体の胸から上の男性石膏像と組んだイーゼルの上に置かれたカルトン(画版)にセットされた白い紙に向かうポニーテールの美少女――新賀未来の姿があった。



 放課後になって「キュッ」と後れ毛も無いように再度結び直したポニーテールが、自己紹介の場では入学直後であるのにすでに「三年後の進路では藝大に行きたい」と豪語していた未来の真剣さと集中力の高さを表している。



 ……けれどもその集中力がここではあだとなったようだ。




「やあ未来! こんなところで他の男と浮気かい?」

「――ひゃっ!」



 幹が背後に迫って声を掛けるまで、未来は気付かなかったのだ。


 視線は当然のこと。

 耳もただひたすら、自分の走らせる鉛筆の音に傾けていたので、幹が部屋に入って来る足音にも気づかなかった。



「な、何よ。吉田か――って!!

 あっ、コラ! あたしの『マルクス・ブルータス』に影作ってんじゃないわよ!」


 気付いた未来が振り向くも、今度は自分と像の間に回って遮った幹に対して怒りを顕わにする。



 デッサンで大切なのは、時間配分とモチーフの質感の表現を鉛筆と消しゴムだけでどこまで表現出来るか……だが、それは描いて描きまくって経験を積むしかない。


 それ以上に根本的なところで重要なのは自分とモチーフの位置取りと光源(ライティング)だ。

 モチーフの陰影は日が落ちるとともに、または照明のライティングで変わるため、あまりに時間を掛け過ぎてライティングが変われば、最悪のパターンではこれまで描いてきたモチーフを全て描き直し……という事態に陥る破目になる。


 けれど黒い遮光カーテンのある室内ならば、それを閉めて完全な密室にして光源自体を変わることのない電灯にしてライトアップすれば良い話だ。


 だが、いまのここは未来だけが利用している広いデッサン室。


 一年生の自分がたった一人利用しているだだっ広い室内で、遮光カーテンを全て閉じた上に室内の明るい照明を全て点けて回る……などはさすがの未来も気が引けた。

 ただでさえイーゼルもカルトンも、更には使用している木炭画用紙もこの部屋の棚から拝借しているのだ。

 デザイン科の生徒ならばこのデッサン室の画材や石膏像などを最終下校時刻までならば別に教師に断りを入れずとも好きなだけ利用してもよい……というお墨付きを、入学式の最後のデザイン科棟見学の折、科長の西大戸先生から説明されてもらっているとはいえ……という遠慮の気持ちがあったのだ。


 それにデッサンは本人の集中力がいかに切れないか――これは人間の集中力の限界は最大でも二十五分と言われているので、これを超越してまでモチーフを網膜に焼き付けるほど、木炭や鉛筆の一線ごとに命を削るほどに集中出来るか。

 故に、デッサンというのはある種の精神修行であるとも言われている。


 そんなふうにして集中力の深い海に入っていたところを乱された上、未来がわざわざ胸から上とはいえ重たい石膏像をなるべく陽の落ちる影響を受けない場所にまでセッティングしていた位置取りのライティングまで邪魔されては、彼女が怒るのも当たり前というものだ。




「いやー、未来。どうせならこんな石膏像じゃなく、おれを描いてくれよ! ヌードモデルでもオッケーだぜ!」


 けれど幹は未来の言葉など馬耳東風で、本日のモチーフである白い男性型石膏像(マルクス・ブルータス氏)に頬杖をつく。

 しかもブルータス氏の向きを変えたり、前後に揺さぶったり、コンコン・ぺちぺちと叩いたり、やりたい放題だ。


「おれのほうがこんな生っ白くて頭にコロネの大群を乗っけてるヤツよりも、魅力的だろ?」


「うぎゃあっ!! それ以上あたしがセットしたブルータスに触るな! う、動かすなーーっっ!!」



 未来は半狂乱だ。

 その内どこかで「ブチンッ」という音が聞こえた気がした瞬間――



 ――シュッ!



 幹の頬を、何か鋭利なものが掠めて行った。

 そして遠くで、「ガツッ!」と何かが壁にぶち当たる音。

 熱い、と一瞬感じた後に頬にじくじく来る痛み。

 幹が自分の頬に手を当ててみると、手の平にはうっすらと赤いものが付着している。鮮血だ。



「い、いまのは……何、だったのかなぁ……? 未来さん……?」


 顔色を蒼褪めさせて怯えながらも、幹は未来に尋ねた。



「あはははは……。自己紹介の時に、さあ?

 もーー……っとしーっかりと、言っとけば良かったわねえ……。あたしだってねえ?

 いまの家に生まれてなくって、せめて貧乏なら貧乏なりに画塾にこんな放課後にバイトしたお金で通わせてくれる親でさあ……。

 まかり間違っても


『バイトなんぞしてまで行くような画塾ごときに価値など無いから、みっともないことをするな! それぐらいなら俺の仕事を手伝って学べ!』


 ……とか変なプライドを娘に押し付けて、自分は好きなようにいつも売れない茶器なんかを作ってる陶芸家の父親じゃなかったらさあ……もっと周囲に優しく接せるような性格になれるルートはあったかもしれないのよ?

 でも時間は有限……。あたしの『藝大合格』のためのデッサンを邪魔するヤツは……もう……【殺す】わ……」



 未来の顔は、もはや幽鬼のようにぎらぎらと目だけ眼光を放っていた。

 整えられていたポニーテールは振り乱されて足立ヶ原の鬼女のようだった。

 手には包丁の代わりによーく先の尖った、デッサン用の鉛筆の中でも特に硬い『2H』以上の物を何本も手にしている。

 木炭などは折れないよう避難させている辺り、値段の序列を理解している理性はなんとか残っているようだ。



「は、はひ……。未来はそのぐらい真剣に『藝大』に入りたいんだ、ね……」


 そして未来は瞳孔の開いた瞳のまま、それらの画材の鋭利な先端部を幹に突きつけた。



「そうよ! 『藝大』に入れさえすればねえ!

 そこで大した結果を残せなくても、あそこに合格しただけでも地方の画塾ならチヤホヤして雇ってくれるようになるから、少なくともいまの生活から一発逆転の下剋上生活をしたいのよ!

 それぞれの家庭環境ってものがあるから、あたしの苦労や心労を理解出来ないならともかく、このあたしの努力を邪魔する奴らにはいまから有言実行してあげるわよ!

 さあ、アンタが被害者第一号だーッ!!」



「お、おんぎゃーーーーッツ!! 邪魔してごめんなさーーーーいッッ!!」



 慌てふためいた幹はデッサン室から脱兎のごとく走って逃げる。


 背後から、未来の放った先端が鋭利な鉛筆たちが飛んでくるのを回避しつつ、二階へと通じる階段を下りて行った。

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