第007話 偽りのヒーロー<前編>

 朝。

 肩にのしかかる幽鬼のように、重い小雨が降っていた。

 彩夏は、スマートフォンを耳に当てて立ち尽くす。

 あれから、全く音沙汰がない。

 今日は四種チーズ・四種キノコのハンバーグを主菜とした弁当だった。

 どうやら、それなりに制作時間を費やしたこの作品は、自分の栄養源として空消費されそうだ。

 彩夏の表情に変化は無い。

 いつものように、体温の低い面差しだ。

 メガネの奥で、黒色の濃い――黒瑪瑙オニキスのような瞳が、真っ直ぐに前を見据えている。




 海沿いの工業地帯にある、とある工場。

 元は工業用機械のリース会社であるそこは、平日であるにも関わらず閉鎖されていた。

 コンプレッサーやボール盤、鉄製のケースに入った電動工具達……送風機、集塵機、発電機などなど。

 無数のそれらと、死んだように動かないフォークリフト。

 数日間、誰にも触れられずに、振り子運動も忘れた、床上操作クレーンのペンダントリモコン。

 鉄粉と砂塵が器官を冒すような、コンクリートの牢獄に、二人の男が居る。

 片や、手錠をかけられて跪くようにしている若い男――生身の白井真吾。

 片や、煙草を吸いながら、白井を見下ろす中年――南郷組の三河。

 今、大型工業用機械がひしめく工場倉庫は、白井ひとりを軟禁する為だけの牢獄として使われていた。

 白井に外傷は全くない。

 三河の上司であり、組の本家筋ナンバーツーである南郷愛次が、不必要な暴力を蛇蝎だかつのごとく嫌う為だ。

 自慢の空手で拷問する事はおろか、髪の毛を引っ張る事すら許されない。

 せっかく、雪辱の相手を捕まえたと言うのに、組のしがらみがそれを許さないのだ。

 そうした鬱憤を表現し、三河は苛立たしげに吸殻を棄てた。

 白い灰と、オレンジ色の火粒が無数、か弱くバウンドして消えた。

「ヤクザどもの仕事場が、人気のない工場とは。

 貴様らも、ほとほと芸が無いな」

 飼い犬のように縛られた白井は、嘲弄を浮かべて言った。

 正確には、嘲弄する人間を真似た、イメージデータを表情筋にエミュレートしてみせた。

「口の利き方に気ぃつけな。

 カシラが来れば、お前はおしまいだ。

 カシラは不必要な暴力は嫌うが、必要なら人を埋める事に何の感情も無いだろうよ」

 どこか、台本を読み上げるような、三河の罵倒。

 ――はてさて、時々銀色のヒーローもどきの皮をかぶる“カシラ”とやらは、そんなに御大層なものなのか。

 ヤクザに仇敵として捉えられた一般人には有り得ない、尊大極まりない態度――の模倣。

 三河は、その態度に、珍しく表情をこわばらせた。

 捕えているのは三河。

 自慢のスーツも無く、無防備に這いつくばって居るのは白井。

 力関係は、目に見えているはずだ。

 なのに……。

 三河は、曰くしがたい不安に襲われる。

 手の震えは、アル中の症状だけではあるまい。

 ――何をする気だ、この男は。

 そう、懊悩おうのうにも似た感情を持て余している所へ。

 車のエンジン音が流れ込んできた。

 小雨で白んだ情景の中、満を持して現れたのは、

「カシラ!」

 銀色を基調としたオペコットスーツの男だった。

 三河はつい最近、自分の“カシラ”にも、こういうコスプレ趣味がある事を知ったばかりだ。

 サイコシルバーは、四人の取り巻きを伴い、白井と三河の眼前まで歩み寄ってくる。

 何一つ、言葉を発しないまま。

「カシラ! 例の店の件で邪魔しやがったクソ野郎を、捕まえてきましたよ! この通りッ!」

 三河は、半ば上擦った声で訴えかける。

 一見してそれは、出世欲にまみれた俗物にふさわしい態度ではあった。

 だが。

「面倒です。猿芝居はやめにしませんか? 三河さん」

 サイコシルバーから放たれた言葉は、少しの体温も存在していなかった。

「な……、なっ……!?」

 三河の顔つきが、みるみる、しかめられた。

 これまでの、意地汚く生きてきた男なりの矜持が一瞬で四散し、代わりに浮かび上がったのは迷子の幼子のような、半泣きの顔。

 半開きになった口から、凄まじいリズムで呼気が出入りする。

 過呼吸が心配されるほどの、哀れな姿だった。

「単刀直入に言います、白井さん。

 あなた、三河さんに相当ひどい事をしましたね?」

 三河には欠片の興味も失ったように視線を外し、代わりに、その無機質なヘルメットを白井に向けた。

「意図を理解できない発言だな。この姿を見てくれ。僕はむしろ被害者だ」

 サイコシルバーは、淡々とした足取りで歩を進める。

「ぅ、ぁ……ひっ!?」

 三河はすっかり怯えきり、彼が一歩踏み出すごとに、一歩を逃げる。

 だが、完全には逃走できない。

 もし、三河がこの場を去れば……それが意味する所は――。

「白井さん。あなたが人間を“改造人間”に仕立て上げるプロセス……俺は、この目と耳で見せつけられる羽目になったんですよ。

 三河さんの“思考盗聴”に関する一連の事は、俺がリアルタイムで指示していたんですから。

 彼の見たものは、俺の見たものでもあったんです」

 サイコシルバーの言葉に、白井の口元が裂けるように歪んだのは、いかなる感情からか?

「俺も仕事柄、肝は太い方のつもりでしたが……あなたがこの数日間、ご自宅に連れ込んだ三河さんにした仕打ちは、最後まで直視できませんでしたよ。

 よくも、あんな事を、合法的にやってのけたものです。

 あなたは、そういう方面において、掛け値なしの天才だ」

 サイコシルバーをして、語るもおぞましい話があった。


 そのきっかけくらいは、説明できる。

 ――あの時。

 築浪明日実つきなみあすみが三河に絡まれ、助けに入ったサイコブラックが“敗北”した時。

「僕の負けだ。もう許してくれ」

 サイコブラックは降参を表明した。

 怨敵のしおらしい態度に、一転して上機嫌となる三河。

「おうおう? 何だって? 今なんつったァ?」

 確かに三河は、敬愛する“カシラ”からヒーローのルール――他人を傷付けてはならない事――を教えられていた。

 だから、万に一つも負ける要素が無かった。

「お前、かっこつけて出てきておいて、それか? なぁ、おい?」

 そしてもくろみ通り、あのクソ忌々しいサイコブラックとやらは、自分に跪いたのだと。

 そう確信した時、三河の手は止まってしまった。

「じゃあよ、態度で示してもらおうか?」

 一瞬の出来事だったが、ヒーロースーツのバックアップを受けた超人・サイコブラックには充分すぎる間隙だった。

 サイコブラックは、ばね仕掛けのごとく、瞬く間に三河の懐へ入り込むと、若さとスーツ性能に任せた腕力で三河を拘束してのけたのだ。

「おいこら、テメェ!」

「引っ掛かる方が悪い」

 いったん掴んでしまえば、たかだか人間の中年男に過ぎぬ三河ごときに逃げられるものでは無い。

 必死にもがくが、自分の身体が自分のものでないかのように、びくともしない。

 そして。

「おいおい、何事だ?」

「喧嘩か? 殺しか?」

 興味半分、恐怖半分の野次馬が、徐々に増えてきた。

 警察が来るのも時間の問題だ。

 サイコブラックは、ここで、三河の手をあえて放してやった。

 身体が自由になった三河は、反射的に正拳突きを繰り出してしまった。

 それを、千鳥足のような、妙な挙動で回避するサイコブラック。

 ――しまった!

 大勢が見守る中、三河は先に手を出してしまった。

 時に、敵対組織へ素手で潜入し、ことごとくを生き延びた空手家。その、脊髄反射にまで昇華された達人技が、この場合は災いした。

 このままでは、一方的な加害者として吊し上げられるのは三河の方。

 だが、サイコブラックはそうはしなかった。

 代わりに、

「よってらっしゃい、見てらっしゃい!

 今からはじまるは、熱きヒーローによる、美しい演武劇!

 路上ゲリラ演武ですよ!」

 道化じみた口上で、そう言ってのけた。

 もう、“切り札”を伏せて置く必要は無くなった。

 ジンガ――カポエラにおける基本動作・大ぶりに屈伸しながらのステップで、サイコブラックは三河を煽る。

 動転と恥辱で頭に血が上った三河は、身に染みた空手を反射的に繰り出す。

 腰を大きく捻って、振り子のようにしなる突き――振り打ち。

 これを、地面に手をついての側転アウーで大袈裟に躱したサイコブラックは、そのままアクロバティックな宙返りを観客に見せつけて、三河が次に放った突きから逃れた。

 苦し紛れに放たれた三河の回し蹴りを、サイコブラックは、酔漢の尻餅が如きしゃがみ回避ココリーニャで抜ける。

 実戦なら、そのまま三河の胸板にでも突き込んでやれば良いのだろうが、そうもいかない。

 代わりに、低アングルから三河の顔を覗き込むようにして、煽る。

「ヘイヘイ、どうしたオッサン? これは、闘牛ごっこか何かかい?」

 そのナメ腐った首を刈り取るべく、三河は間合いを取り、一撃必殺の後ろ回し蹴りを放つ。

 サイコブラックも、負けじと、大げさなバック転でこれを回避。

 そうしてこの瞬間、お互いに突き出した手首が、綺麗にクロスした。

 そして、サイコブラックは、

「はい、捕まえた……」

 甘いピロートークのように。とても優しい声で。三河の耳元に囁きかけた。

 サイコブラックは、再び三河の手首を掴んでいた。

 もう二度と、この手を離すつもりは無い。

 ――彼はもう、僕のものだ。

 三河は、顔を紅潮させてもがこうとするが、身じろぎの一つも出来ない。

「皆さま、自分で言うのもなんですが、この熱きヒーローショーに盛大な拍手をお願いします!」

 完全に、事を“演武”として認識してしまったギャラリーたちは、サイコブラックと三河に惜しみない拍手を送った。

「さあ……家で、僕達の将来について話し合おうよ?」

 そうして、親愛の情を示すように囁くと、サイコブラックはそのまま彼を連行してしまった。

「あ、あ? ちょっと、ちょっと待――」

 誰も、三河の異変に気付くものは居ない。

 なお、最初に絡まれた明日実は、そうした“演武”に発展するより前に、現場から逃げ去ってしまっていた。


 そこから先は。

 三河が白井邸に“招待”されてからの出来事は……。

 極道の若頭ですら身震いし、閉口するものだった。

 かくして、三河は、元あった人格に徹底的な“曲げ加工”を施され、サイコブラックの改造人間004番として生まれ変わったのだ。

 もう彼は、あの卑劣漢・三河などでは無い。

 サイコブラックは、本来救いようのない悪漢を、見事に純白の心の持ち主へと変貌させてのけた。

 ねじまがった鉄筋を逆側へ曲げ直したとして、それを“真っ直ぐ”と言うべきかどうかは、誰にもわからないが。

 ともあれ。

 そうして三河、改め、004番は“白井真吾を捕まえた”と称し、元の主であるサイコシルバーをこの工場におびき寄せた。

 かつて“カシラ”と呼んでいた男を、売り渡そうとしたのだ。

 そして今に至る。

 実際の所、三河が“こはく”の常連客に対して起こした思考盗聴事件は、サイコシルバーが主導で行って居た事だ。

 三河はカメラとマイクを持たされており、サイコシルバーが現場をモニタしつつ、彼にアドバイスを与えていた。

 思考盗聴。

 それは、サイコシルバーが元来持ち合わせていた疑似的な読心力テレパスを、彼自身が自作した固有の演算システムによってより精密に昇華したものだった。

 南郷愛次としての人生で得た、膨大な演算結果をあらかじめ入力しておき、“ある程度以上観察した”人間の思考を、リアルタイムでシミュレートしてくれるプログラム。

 今回の件において、三河は、ただ単に、サイコシルバーが導き出した答えを棒読みしていたにすぎなかったのだ。

 勿論、白井は、三河に付着したカメラとマイクの存在を把握していた。

「そうか、バレてたか」

 いけしゃあしゃあと、白井が言う。

「あ、ああぁ……あああああァァァ嗚呼ァあぁ!? お、おゆる、お許しを、お許しをカシラ! あっ、今のは、その、違うんです、ご主人様・・・・

 あ、ぁぁああああァぁあああアア唖嗚!? 許してご主人様、許して、許して、許して許して、何でもしますッ! 何でもするからッ!?」

 自分の命を絶対的に握る人物ふたりの間で板挟みとなった004番は、絶望に歪み切った顔で泣き崩れた。

 白井真吾は、別段、三河を罰する素振りも見せず、

「知ってたんなら話は早いんだけど、僕、これ・・欲しかったんだ。

 譲ってくれないかな?」

 三河を親指で示して打診する。

「そんな風に改造されたら、もう組の構成員として使い物になりませんよ。

 まあ、なまじ彼は南郷の中でそこそこの立場にあった分、切りにくくて困っていましたし……それ・・は有効に使って頂ける方に、お譲りしたいと考えておりました」

 恩赦が降りた。

 004番がそれを理解したのは、一呼吸の沈黙を経てから。

 白井からもカシラからも、何も咎めを受けずに済む!

 それは、ありがたい天啓に等しかった。

「……あ、あ、あ、ありがとうございます! ありがとうございますッ!」

 三河は、感極まったように、本来の主カシラへ感謝を表した。

 というよりは、九死に一生を得たかのような、生への執着心にも見えるが……それは、白井もサイコシルバーも見なかったことにした。

 どんな境遇に立たされていようと、生きてさえいれば、良い事があるものだ。

 改造人間004番として白井邸の闇につなぎとめられる宿業を背負った彼は、まあ哀れではある。

 それでも。

 それでも、一抹の希望は捨てて欲しくないと、白井とサイコシルバーは切に願った。

「そんな事は、どうでも良いのですよ。白井さん。

 三河さんを譲ってくれと言うのであれば、素直に言ってくれればそうしました。

 その程度の事で、俺がここまで来るつもりはありませんでした」

 三河を餌に、サイコシルバーを釣るという作戦は、本来無駄だった。

 南郷にとって極道の品性を著しく落とすこの男は、むしろ不良債権ですらあったのだ。

 だが、サイコシルバーには、ここに出向かねばならない理由が出来てしまった。

「白井さん。俺が三河さん、改め、004番さんをモニタしてた事さえも本当は織り込み済みだったんでしょう?」

「さて、どうだろう」

 今やサイコシルバーは、白井の“真の意図”を看破していた。

 だが、もう何もかもが遅い。

「あなた、自分が何をしたのか、本当にわかっているのですか?」

 サイコシルバーの語気が、珍しく熱を帯びてゆく。

「わかっていますよね。

 事によっては、取り返しがつかない」

 白井の顔が、聖者のような清らかな笑みをたたえた。

「なら、そちらが知っている事も、この際、洗いざらい教えてもらえないかな」

 そして、

「ああ、聴こえてきたね」

 もう一台、車のエンジン音が聴こえた。

 そして。

 一同の前に、一つの細い人影が現れた。

 長い黒髪。怜悧な顔立ち。

 メガネの奥に佇む、細めながら切れ長過ぎもしない瞳は、黒色が濃かった。

 蓮池彩夏。

 いつもの“汚れて良い簡素な服装”とは打って変わり、今日は何やらおめかしをしているようだ。

 どこか儀礼的な雰囲気を纏う、黒を基調としたシフォンワンピース。

 ……シフォンワンピース、と一口に言って良いのだろうか?

 本来、柔らかさと軽快さを演出するはずのそれは、どこか真夜中の闇を極限にまで濃縮させたかのような重い存在感を醸し出していた。

 その繊手に携えるは、飴細工のように緻密なデザインの、金色の短杖。

 その、異様な装いを風になびかせながら、彩夏は、

 いや、

「サイコオニキス」

 サイコシルバーは、蓮池彩夏の顔をしたそれに向かって、そう名指しした。

「そこまでです、サイコシルバー。

 彼を、白井さんを直ちに解放なさい」

 有無を言わせぬ語調で告げたのは、“ヒロイン”としての言葉。

 ヒーローに守られる女役ヒロインでは無くて。

 漆黒の瑪瑙めのうの名を冠した――、

 サイコブラック達と同等の、ヒーロー資格者たる女ヒロインの宣言だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る