決戦! 三河<後編>
主婦・
自宅までは歩いて一〇分程度。
その道のりは、楽しみを噛み締める様でもあり、同時にもどかしくもある。
何故なら、この後「若い彼氏を家に招くんですかい? 奥さん」
――。
振り向くと、下卑た顔の中年男がいた。
「お相手は、二八歳のアンティークショップ経営者。町田
なるほどねぇ。昼間、旦那に隠れて会うには、自営業の男はうってつけだ」
「なん、何なの、あんた、失礼な――」
「年下なら、誰でも良かったんだろ?
旦那の建てた、築五年の新居に若いツバメ君を招き入れる昼間。
で、旦那と何食わぬ顔で過ごす夜。
両方にそれぞれ楽しみがあるってのが、また良い根性してやがる。
俺は、嫌いじゃ無いぞ。そう言うのはよォ」
波留子は、後ずさる。
後ずさるだけだ。
逃げられない。
何故なら、恐らくこの男は「おっと。俺は探偵でも無ければ、別れさせ屋でも無い」
……!?
――どうして!? あたしの考えてる事が「わかるのか? ってか?」
「ぁ……? あ……?」
「考えてもみろや。
ただの探偵や別れさせ屋が、こんな事出来るか?」
探偵でなくとも、出来る事ではない。
何か、トリックがあるのは確かだ。
「そう。
あんた、思考を盗聴されてんだよ」
この男はいったい、何を、
「別に信じなくても構わんが、現実に俺は、あんたの思考を間違いなく傍受できてんだろ?」
三河の顔が、餌を捕まえた蜘蛛のように、卑しく歪む。
「なあ、あんた、知り合いにえらい勘のいい奴がいねえか?」
波留子の脳裏に、一人の女が浮上する。
今しがた出てきたネコカフェの、若い店主。
彼女は、怖い程聞き上手だと、常々思ってはいた。
「あの店は、
俺ァ、それを横からちょいと傍受してるだけだ。
あんたら被害者に警告してやる為にな」
悪い冗談だ。
しかし。
自分の心の中を完璧に読まれているこの状況を、他にどう説明する?
白井真吾は、ここの所、
夕方の公園。
彼女に持たされた生姜焼き弁当を食べながら、今も思案している。
タレは甘過ぎず辛すぎず薄すぎず濃すぎず。
素材である豚肉も、赤身にやや控えめな脂身が織り交ざった絶妙な物で、良い口当たりだ。
これと白米だけでも最高の贅沢だが、副菜も充実している。
ひじき豆、ツナと胡椒の香るポテトサラダ、アスパラベーコン、卵焼き。
男一人暮らしの偏った食生活を、彼女には完全に看破されているらしい。
この弁当からは栄養バランスの大切さを教えられた。
改造人間の餌も、見直しが必要だろうか。
今使ってるのよりも良いサプリはあるだろうか。
それとも、漢方薬とか?
その辺はよくわからん。
まあ、今はどうでも良い。
それより。
南郷と対決したあの夜から、彩夏の事をずっと考え続けていた。
これほど、特定の個人に思考時間を取られたのは、初めての事かも知れなかった。
もっとも。
「まあ、じきに理由もわかるでしょう。っと」
まずは小さな事から済ませよう。
コツコツと、堅実が一番だ。
白井は、右耳に付けていたイヤホンをおもむろに外し、大きく伸びをした。
これで三度目。
彩夏は、クレームの電話を受け付けていた。
「いいえ、当店にはその様な事実は御座いません」
《だったら、だったらどうして、あたしの考えがダダ漏れになってんのよ!?
理由が無いとおかしいじゃない!》
他人の思考が“盗聴される”など、過去に例を見ない事態だ。
流石の彩夏にも、自分の心を暴かれて半狂乱となっている相手に、適切な言葉が浮かばない。
「落ち着いて下さい、児島さん。
その方が、当店にその様な機器が存在すると仰られたのであれば、私どもとしても、店内の全ての機材を開示する
《今からあたしが行った所で、証拠を隠ぺいするかも知れないじゃない!》
手詰まりだ。
これはどう答えても、否定で返ってくるパターンでしかない。
何しろ、波留子が今欲しているのは、“自分の心を読まれた理由”だ。
決して“こはくの無実”が欲しいわけでは無い。
これ以上、波留子を追い詰めないよう、彩夏は、彼女の心を取り繕うように
十五分ほどして、僅かに落ち着きを取り戻したらしい波留子は、通話を切った。
だがもう二度と、彼女の来店は望めまい。
彩夏は、瞳を閉じて黙考する。
これで、三河であろうその男の攻撃の正体が、ほぼ掴めた。
思考盗聴。
先日の低周波攻撃と並んで、巷では妄言扱いされている、集団社会的攻撃だ。
いや、理論上は確立されている低周波兵器・電磁波兵器に比べれば、更に馬鹿げた話ではある。
しかし、現実に児島波留子や、
現実的な理由づけをするならば……ターゲットを四六時中監視・盗聴した上での、高度なプロファイリングか。
――それが出来るくらいなら、世の人工知能技術は何倍も発展して居るのだろうけれど。
彩夏自身にやられる分には痛くも痒くも無いし、南郷に逆らっている時点で覚悟はしていた。
けれど、何の落ち度も無い客をそういう風に不幸に突き落すのは、本当に止めて欲しい。
そう考えるのも、彼女の負う責任から考えれば、甘えなのかも知れないが。
やはり今は、サイコブラックに託すしかないようだ。
明日実は、今日も“こはく”に訪れていた。
当然、ボイコットする格好となった予備校からは自宅に連絡が入り、母親にはこっぴどく叱責を受けた。
なので、今日も予備校を放り出した。
代わりに、バイトも放り出す格好となったが。
恐れていた母親からの“断罪”を受けると、もう何もかもがどうでもよくなった。
死刑囚は執行される直前までは怯えに苦しめられるのだろうけど、刑が下ればもう、そんな心配もいらなくなるのだ。
今朝も、母親から、ほとんど憎しみのこもった対応をされた。
明日実の一挙一動が神経に障ると言った風に、辛く当たるのだ。
当然、彩夏に持ちかけられた“こはく”への就職については、話せるはずも無い。
母親との関係は、元々、こうして緩やかに墜ちていくしかなかったのだと、今にして思う。
家族の縁でつながっていれば無条件で愛される。
どうやらそれがこの世界の定説らしいが、じゃあどうして、遺産相続の争いや、子供の虐待死が無くならないのだろう。
皆、自説にとって都合の悪い要素から目を逸らすのはうまいのだ。
という事を鬱屈と考えながら、アメリカンショートヘアのマサオを膝に乗せる。
小柄だが、胴を触ってみると、その肉付きの良さがよくわかる。
短い毛並もあって、ネコ科と言うよりは、
明日実が、ぼんやりとしながら、ネコ用のおやつをちらつかせていると、その手元へ律儀に首を伸ばしてくる。
いつの間にか、彼の体長ぎりぎりの高さにまで持ち上げてしまっていたらしい。
後ろ足で、明日実の膝をがっちりと踏みしめると、棹立ちになって、おやつを奪い取ろうとする。
どうも“お預け”をするような、意地悪をしてしまった心地になり、明日実はマサオの口におやつを運んでやる。
それを即座に食ったマサオは、前足を明日実の腿に思い切り降ろす。
そして、明日実がもう片方の手に持っていたおやつの小鉢から、ダイレクトに中身を貪り出した。
「あっ! この、油断も隙もない!」
と言ってみたものの、小鉢を取り上げる気力がすぐに萎んでは消えた。
されるがまま、おやつ(別料金)を、マサオに食い尽くされてゆく。
マサオからすれば、思わぬボーナスステージと言った所だろう。
一皿丸ごとのおやつを独占できるなんて、よほど名指しで懇意にしている仲の客からでも無ければ、ほとんど有り得ないのだから。
「明日実ちゃん、暗くなる前に帰ったら?」
スタッフの
帰る。
どこへ?
一瞬そう考えたが、すぐに立ち上がった。
どうせ直子は、何も知らない。
――ここは多分、決断の時だ。
彩夏は先程からクレームの電話に追われて、こちらには顔を出せないようだし。
また、彼女の顔を見て未練が出る前に、ここを出てしまおう。
そうして明日実は、琥珀色が帯びてきた時間に“こはく”を後にした。
「もう死んでも良いかなって、顔に書いてあるぜ」
帰り道、町はずれの住宅街。
長大な坂道を下っていると、木陰から卑しい声が浴びせられた。
「……っ!」
上ずった悲鳴も、口の中で霧散してほとんど音にならなかった。
「親もダメ、進学もダメ、就職も、なんもかもダメ。
確かに、何してもつまらないし、この先もつまらないってわかってんなら、死んだ方が良いんだろうな。
生き方が下手クソなだけなんだよ、お前」
人気のない住宅街。
体力で自分より勝るであろう相手を前に、足場の悪い坂道で相対する状況。
昨日、その予感に怯えていたばかりだったのに。
結局明日実は、むざむざ自分からここで、三河に出会ったのだ。
「死ぬなンざ、簡単に考えンなよおい。
例えオツムの出来が悪かろうと、若い女の子は大事な大事な資源なんだからよ」
――気持ち悪い。無理。生理的にダメ。
――この三河って男、存在の根幹から腐っている。
怒りと屈辱が臨界を超えた明日実は、心の中、思わず名指しで三河を罵倒していた。
どうやらエスパーの一種であるらしい三河はしかし、それには気付いていないようだ。
ただ、あの仕留めた獲物をなぶるネコのような足取りで、ひたひたと近づいてくる。
お互い、道路の端と端で対峙していたので、距離はそこそこある。
だが、安いカップ酒とタバコとインスタントラーメンと、何かのすえたような臭いが、ここまで届くようだ。
「つーわけで、オジサンとデートしようよ」
「そこまでだ、チンピラ。
もはや、僕の
いつもの熱気も、たぎる正義も鳴りを潜め、サイコブラックが冷淡に言った。
「あァ!?」
三河の面差しが、怒りに歪んだ。
当たり屋の一件で邪魔し腐った、文字通りのヒーロー気取り。
三河は、サイコブラックに会いたかった。
だが、まさか今、この場で会えるとは夢想だにしなかったが。
「よく俺の前に姿を現したなァ、このボケが」
「黙れ。これ以上彼女に、薄汚いだみ声を聴かせるんじゃない」
三河は、何も言わずに駆け出した。
――物を知らないとは恐ろしい事だな。
対するサイコブラックは、ヒーロースーツが、全身の筋力を十全にサポートしてくれている事を肌で確認してから、受け入れの構えを取る。
スーツの圧倒的な性能で、暴力行為に抵触しない範囲でいなして、無力化――。
それまでだらしない姿勢だった三河が、瞬時に綺麗な前屈立ちとなる。
――速い!?
サイコブラックの脳裏に警笛が鳴る。
三河の手が鞭のようにしなり、追い突きが放たれる。
サイコブラックはそれを、弾かれたような
驚くべき事に、三河はヒーローの脚力に負けじと追いすがり、
サイコブラック、右の一打は
まともに受けた所で、ヒーロースーツに守られたサイコブラックは、傷はおろか痛み一つ感じない事だろう。
だが問題はそこじゃない。
外骨格を殴って三河自身の手が砕けても、サイコブラックの罪状にされかねない。
となると、サイコブラックは、この予想外に熟達した空手家の打撃を一発も喰らってはならないのだ。
かといって、無傷で捕まえるには、こいつは活きが良すぎる。
当たり屋の時と言い、今回の陰でコソコソと店の評判を落とすやり方と言い、三河は陰湿な卑劣漢という印象が強かった。
だが、良く考えれば、自分から飛び込んだとはいえ、路上で軽自動車相手のスタントをそつなくこなす程度には、三河は動ける男なのだ。
バットのような中段回し蹴りが、サイコブラックの側頭部を襲う。回避。
当たれば砕けかねない――三河の脚が。
空振りでむしろ勢いを得たかのように、正拳突きへと連携してくる。
「ほらほら、どうした!? 縮こまっていないでやり返してみろや!」
美しいまでのコンビネーションを舞う姿とは裏腹、三河は下衆そのものの哄笑をあげる。
前蹴り――と見せかけて、下段の足払い。
サイコブラック、辛くも反応。
縄跳びの要領で下段蹴りを回避する事で、三河の脛が砕ける事態を回避した。
これだけ容赦のない威力を乗せてくるという事は、南郷は、“ヒーロースーツの硬度”に関しては何も教えて居ないのだろう。
怪我をした時点でサイコブラックを糾弾出来る事は教えていても。
サイコブラック本人には全く驚異の無い相手であるのに、ヒーローとして相対するにはもっとも厄介な手合いのようだ。
そして。
明日実では無い、誰か、別の女性の悲鳴がした。
遠く、サイコブラックと三河の、演武のような立ち回りを目の当たりにしてショックを受けている、主婦らしき中年だ。
――通行人に見られた。
ここは、丘に沿って民家の立ち並ぶ、閑静な住宅街だ。
そこの住人が通りかかる事など、ざらにある事だろう。
来て欲しい時に人気は無く、
来て欲しくない時に、こうして人が通りかかる程度には。
女は、大声で助けを呼び始めた。
これは、下手をすれば警察沙汰となるか。
未だ、互いに一打も受けていないが、それもいつまでも続くとは思えない。
こうなった以上は、
「わかった、降参する」
サイコブラックは、自分の腸がねじ切れるような語気で、そう言った。
「僕の負けだ。もう許してくれ」
次の打撃を途中で止めた三河が、表情筋を限界まで歪めた。
その日以降、サイコブラック、及び、白井真吾は“こはく”から――彩夏の前から姿を消した。
【次回予告】
最後まで無血を貫いたサイコブラック!
だが、その代償はあまりに大きい物だった。
ついに南郷組に囚われた彼は、どうなってしまうのか?
次回・第007話「偽りのヒーロー」
……僕は絶対に、こんな悪党どもには屈しないッ!
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