決戦! 三河<中編>
サイコブラックの事を考える機会が増えた。
彩夏には、サイコシルバーのような精密な読心力があるわけでは無い。
ある程度情報が出揃ってから、初めて、相手の抱える闇や
彼女が誰かを助けようと自覚した時、それはいつも、後手になってしまっている。
サイコブラックに対しても、これまでは漠然とした違和感を覚えるだけだった。
けれど。
――あなたはいわば、定形外人格者なのですよ。
サイコシルバーの声が、頭の中でリフレインされる。
――あなたは、その“誰にでもある感情”を自らの中に創り出し、皆と同じである事を疑似体験しているに過ぎない。
サイコブラックの言動には、どこか
それくらいは、彩夏にも感じられていた。
その理由が、サイコシルバーの言葉でようやくはっきりとした。
彩夏は知る由も無いが――濱口弁護士が再起する僅かな可能性を潰す為に、その娘にまで累を及ぼすのは、尋常な人間のする事では無い。
恐らくサイコブラックの正体は、生まれつき善意を持てなかった人間だ。
持たなかったのではない。
持てなかった。
そこには、彼自身の落ち度はなんら無いだろう。
だが現代において、ありのままの彼が居られる場所は、どこにもない。
何故なら、素の彼を許容すれば、周囲の人間に危害が及ぶから。
社会は、一人の人間を生かすために二人の人間を殺すことを、よしとはしない。
言葉を喋れるようになった時点で排斥に遭った事だろう。
法の下では平等に扱われても、時に“社会”は法を度外視して、全体を保守しようと襲い来るものだ。
それは、彩夏自身にも経験がある事だった。
歳を重ねるにつれ、その現実をまざまざと見せつけられて。
歳を重ねるにつれ、出来る事が増えても、何ら解決策が思い浮かばないまま。
抗って、抗って、自分に抗って。
それでも、自分で居続ける限り“他の子達と同じ”では居られない。
だから。
彼は、元々の自分を放棄した。
そして、周囲の人間の行動や思考をトレースする事で社会に迎合すると言う、ある種自殺にも等しい道を選んだ。
コピー作業は、死に物狂いだったろう。
それが出来なければ、死、あるのみ。
そういう状況に立たされてなお、知識を吸収せずにいられる人間は居ないだろう。
人間である以前に、一つの生命として、彼は最も自己保守に適した道を選んだ。
選ばざるを得なかった。
けれど、それにした所で限界はある。
知識とは、ただ蓄えるだけのものではない。
現実に出力するまで、その価値は確立しない。
人は時に、道具の使い方を間違える事もある。
恐らく彩夏が感じた違和感の正体は、そこにあるのだろう。
サイコブラックが、これまで接してきた人間から得た規範を“妙な場所で用いてきた”事こそが、違和感の正体。
シャベルでアイスクリームを食べるかのように。
タンクローリーを精密に運転できるだけの腕前がありながら、それで歩道を走るかのように。
彼は、度々、トレースすべき
ひすいを殺そうとした望田が、二度と“こはく”に危害を加えられないようにする。
それは多分、人間の定型として考えれば正しい事だ。
だが、その“正しい事”を実行する為に、近隣住民の安眠を破壊してでも排除した。
そして、それを少しも不思議には感じていないのだろう。
最終的な目的を達成出来れば、そのプロセスは問わない。
と言うよりは、気付けない。
思えば、自宅に招いてワインを酌み交わしたあの時。
あの時点で、彩夏は気付くべきだったのだ。
結局の所、彼は、その業苦に縛られたままである事に。
彩夏の肩を掴み、手首を強引に掴み。
きっと彼はあの時、彩夏に救いを求めていたのだろう。
苦しいと言う自覚すら出来ない苦しみの中で。
自分のアイデンティティを完全に死滅させて、自然体で居る権利を失った男。
彼には喜びも、苦しみも、何一つ実感できない。
知覚は出来るが、それは体感では無く、無味乾燥な“記号”として処理される。
美味しい。
うるさい。
良い香り。
綺麗な景色。
ビロードの肌触り。
普通の人間にとっては変数のように増減するそれが、サイコブラックには単なる文字列の羅列でしかない。
何という地獄だろう。
彩夏の眉間が、力なく歪む。
痛烈な拷問と、何も感じさせない拷問。
どちらがより、苦痛なのだろうか。
少なくとも彩夏にとっては、何も感じさせない拷問の方が耐え難い地獄だ。
例えば、暗い部屋で目を覆われて、身体を縛り付けられて、延々と水滴の音だけを聴かされるような。
――私が、彼に出来る事は……。
何だろうか。
初期値がマイナスであれば、マイナスを乗算して、プラスに転じる事は可能だ。
だが、ゼロには何を掛ければ良い?
彩夏は、目の前の人間全てを救わなければならないと思っている。
だが、全ての人間を救えると思えるような傲慢さも持たない。
不幸にも持てなかった、と言うべきかもしれない。
――何も、出来ないのだろうか。
こんな気持ちになったのは、初めてだった。
「やあ、お疲れ様」
ごく平凡な挨拶が、不意に彩夏の思考を裂いた。
事務所に入ってきたのは、全身黒を基調としたオペコットスーツのヒーロー。
そうだ。
今日、この場に呼び出したのは、ほかならぬ彩夏自身なのだ。
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