第006話 決戦! 三河<前編>

『サイコブラック主題歌』

 闇を破る 漆黒のヒーロー 彼は走る 正義の果てを追いかけ

 弱き者の叫びがある限り(彼は往くんだ!)

 悪しき者の企みある限り(裁きの時だ!)

 さあ非の打ち所無い 平和のために いらないモノ全て 粛清するんだ!

 正義の実行者 サイコブラック!


 サイコブラックからもらった曲を聴き終えると、彩夏はヘッドフォンを外した。

 ……あのレストランでの夜以降、サイコブラックについて考える頻度が増えた。

 確かに、最初は“ヒーローの到来”という宿願を叶える為に彼を利用してしまっていた。

 けれど今は。

 スーツの中に居るその人の事が、ひどく気にかかった。

「この歌、やっぱり、彼の自作なんだろうな……」




 自分の時間とは、どうして自分のものじゃ無いのだろう。

 築浪明日実つきなみあすみは、その童顔に苦いものを滲ませながら思い悩んでいた。

 彼女は大学受験に失敗し、現在はアルバイトをする傍ら、予備校に通っていた。

 今も久々のバイト帰りに予備校へ行く途中だ。

 ――成績が芳しくありません。アルバイトと遊ぶのを止めて、自主学習の時間に充てるべきかと。

 先月、講師が母に、そうチクった。

 駅前の人だかりに、その頼りなく小さな身体は流されそうになる。

 どうして、自分の人生は、自分のためだけに消費出来ないのか。

 一日二四時間。

 六時間睡眠としても一八時間。

 人には、これだけ自分の為に使える時間がある。

 たが、現実はどうだ。

 予備校で六時間。

 進学なり就職をすれば、本業だけでも最低八時間は取られる。

 大体、八時間労働の仕事などほとんどあり得ないと、明日実は既に知っている。

 仮に一〇時間を社会に食われたとして、

 一年に三,六五〇時間のロスだ。

 そして更に、消しゴムのかすのように残ったプライベートの時間さえも、人付き合いと言う名の同調圧力に脅かされる。

 明日実はそれを、高校までの学生生活でいやと言うほど思い知らされていた。

 特に、女子グループと言うものの中では。

 ――築浪さ、あいつ最近付き合い悪くない?

 何で? たかだか一日、顔出さなかっただけじゃない。

 ――ウチらとは格が違うとか思ってんじゃない?

 違う。

 ――IQが二〇違うと、話が成立しないって言ってる優等生、いるよね。

 わたし、そんなに頭よくないです。

 ――やべっ、あそこに築浪いるよ。

 ……。

 …………。

 ――築浪。お前は、これで良いと思って居るのか?

 わかりません、と答えたかったけど、それはさせてもらえないから、答えられない。

 ――このままでは確実に志望校には進めんぞ。

 親が行けと言うから。

 わたしは、苦しんでまで、そんな難しい大学行きたくないんです。

 ――言われた事だけ学べば良いのか? 違うだろう。

 言われた通りにしているのに、どうして責めるんですか。

 ――もっと自発的に、貪欲に学ぶくらいでないと、この先社会でやっていけないぞ。

 どうして、これ以上、頑張らないといけないのですか。

 わたしが頑張らなければ、それで誰かが死ぬんですか。

 一生、こうなのですか?

 一生……、


 一生、自分以外の「誰かに時間を搾取されんのは嫌、ってか?」


 誰もが無関心にすれ違う中、明日実に向けて言葉を発した男がいた。

 ちょうど、明日実が考えていた事をなぞるように。

 綺麗に切り揃えたショートヘアをびくりと震わせて、明日実はその方向を見た。

 背広姿だが、一見して品性の無さがにじみ出た中年が、確かに明日実を見ていた。

 彼は三河と言う名前なのだが、明日実にそんな事への興味は無い。

 それよりも、

「どうして、わたしの今考えてる事を話すの、って声が聞こえるぜ」

 湿った笑い声で、揶揄を続ける。

「この世の中の構造は間違っている。

 一握りの偉い人間だけが自分の一八時間を有意義に使える、間違った世界だ。

 けれどそれを口にした奴はハブられるから、誰も直そうとしない。

 本当に理想的な世の中ってのは、みんなが自由に生きられる事じゃないの? みんながそうやって思考停止するから、一度しか無いわたしの人生、台無しだ。

 誰かが生産しないといけないのはわかるけど、わかるけど。

 ってかァ? おい」

 今度こそ、明日実は凍り付いた。

 脳の理性を司る部分が、全力で逃げる事を命じる。

 だが、何か抗いがたい引力が、彼女の足を道路に吸着させてしまっているようだ。

「いやあ、おもしれえ事考えてんなァ、ねーちゃんよ。

 時間ってのは量も大事だが、密度も大事だって事、知ってるか?

 なんなら俺が、一時間で一日分の得になる事を教えたろうか?

 あっちのラブホでよ」

 痰の絡んだような揶揄。

 卑しさを体現するために造形されたかのような男の顔が、少しずつ近付いてくる。

 ネコが、瀕死の小鳥をなぶるかのように。

 明日実の足は、ようやく駆け出した。

 今まで歩いてきた道を、逆走して。

 予備校の事など、完全に忘れて。




 気付けば、南郷愛次との会談は、もう二月も過去の事になっていた。

 あれから、状況に大きな変化は無い。

 彩夏は、ひとしきりパソコン作業を終えると、モニタをじっと見つめる。

 表計算ソフトで、店の近況を計算していたのだ。

 どうも、売り上げが不自然な下がり方をしていると気付いたのだ。

 来客数と金額をグラフ化してみる。

 ここの所、現場を見ていても、来なくなった常連客が何人か居た。

 これは。

 店の外側で、客を攻撃されていると考えるべきか。

 この減少推移から察するに、来店頻度の多い常連客が重点的に狙われている。

 となれば、敵は少人数と推察。

 人手が足りないのを“単価の高い”相手を潰す事で補っているのだろう。

 けれど、一人一人の客に順番に接触し、確実に“こはく”から遠退くような、威力の高い工作をしているようだ。

 二ヶ月では充分な統計は取れないが、南郷との確執が終わっていない以上、些細な変化も見逃してはならない。

 低周波・電磁波攻撃の時と同じだ。

 彩夏達が気付かないうちに、彼らは攻撃に出ている。

「ふぅ……」

 流石の彩夏も、溜め息のひとつは出る。

 店やスタッフ、無関係な客達の事はもちろん心配だ。

 その中でも、特に予断を許さない人が居る。

 最近来なくなった常連客の一人で、予備校生の娘だった。

 彼女の内包する不幸は、人として見過ごせない域に達している。

 ここのネコ達と過ごす時間だけが生きてて楽しい時間だ、

 と、彼女は彩夏に漏らしたことがあった。

 店主としては光栄に思わなければならないのだろうが、

 ――この店への依存は、あの子の真の幸せをもたらさない。

 だが、あのままの状態で南郷組から何らかのハラスメントを受け、“こはく”にすら行く気力が失せたとなれば……。

 逃げ続ける事は解決にはならない。

 だが、時に人は、一時的にでも何処かに逃避しなければ、潰れてしまう事もある。

 “こはく”は今、あの娘の逃げ道にならなければならない時期だ。

 もちろん、他の客やスタッフ達の事も大事だ。

 もう、後手に回るわけにはいかない。

 ――サイコブラックと話し合おう。

 そう決断するのは、彩夏自身でも驚くほど早かった。




 明日実は逃げた。

 死に物狂いで逃げた。

 あの気持ち悪いオジサンが追いかけてくる気配は無いけれど。

 静かな住宅街に入る。

 結構な斜度の坂がある。上りきった頃には街を一望できるほどの。

 人気の無い、しかも勾配のきつい坂道を自ら選んでしまう辺り、明日実は自分のもって生まれた迂闊さを呪った。

 それでも。

 彼女が思い付く逃げ場は、“こはく”しか無かった。

 建物が見えてきた。

 大窓越しに従業員の姿が見えて、ようやく安心できた。

 例え後ろからあいつが来ても、従業員か客の誰かが見てくれている。

 助かった。心底そう思った。

 そして。

 彩夏店主と目があった。

 彼女は受け付けカウンターに移動する。

 明日実を迎える為だろう。

 何が原因かもうわからないが、泣きたくなった。




 彩夏は、明日実を事務室に招くと、胸を貸してくれた。

 明日実がひとしきり泣き終えたのを見ると、椅子に座らせてコーヒーを淹れてくれた。

 クリームだけの、砂糖なし。

 この店を訪れるのは、今日久々だったが、ちゃんと明日実の好みを覚えてくれていた。

 何も言わず、昨日会ったばかりかのような自然さで接してくれる。

 それが彩夏店主なのだと、改めて痛感させられた。

 そして。

 彩夏は余計な前置きをあまりしない。

 度々、衝撃的な第一声を発する人だとも、知っていた。

 だが、

「ねえ、明日実ちゃん。

 進学は止めて、ウチに就職しない?」

 知っていても、面食らう。

 特に、今の発言は。

「凄く無責任で、他人が踏み込んではいけない領域に踏み込んで居るのは、しっかり自覚して居る。

 これは、それを承知した上で訊いて居ると思って」

 ようやく何を言われたかが、明日実に実感できた。

 大学を諦めて、“こはく”に就職しないか? と。

「就職……わたしが、“こはく”に」

 那美、直子、友香。

 彼女ら三人の正規スタッフは、元々は客だった。

 いずれも、今、明日実に持ちかけたのと同じ経緯で雇われていた。

 何故なら、

「貴女は多分、大学に行く事も、就職する事も、酷く不幸に思って居る」

「……」

 スタッフ三人はみな、不幸な道へ進もうとしていた。

 自らを緩やかに自壊させるという行動に出かねない道。

 彩夏が、その道を捻じ曲げてでも“こはく”の従業員にしなければ……友香に至っては、後に、ここに就職して居なければ自殺していただろうと語っていた。

「けれど、この国で生きる以上、いずれは自活して、食べて行けるようにしなければならない。

 その事で、貴女は板挟みになって居ない?」

 何でもお見通しだな、と明日実はぼんやり考えた。

 ついさっきの男にも、心の中を言い当てられたのだが、こちらはなんて暖かいのだろう。

 されている事は、同じなはずなのに。

 けれど。

 ――いつかまた、この人もわたしから離れていくのかもしれない。

 信頼とは、万が一裏切られても構わないと、その相手に対して覚悟する事だと、明日実は考えている。

 信じて裏切られた、と悲嘆する人間がよく居るが、それは、裏切られる覚悟をしなかった本人の落ち度。

 だから明日実が人を信じると言う事は、常に裏切りを前提としたもの。

 それは恐らく、普通の人々からすればひどく寂しい事なのだろう。

 けれど。

 ――仮に彩夏さんに切り捨てられたとして、その時のわたしは……どうだろう。

「私の店に来てくれれば、私は明日実ちゃんを不幸にはしない」

 ……もし彩夏に捨てられれば、恐らく、今度こそ死にたくなる程の痛手だろう。

 裏切られた時の反動を基準にして考えた場合、蓮池彩夏を信じるのは怖い。

「考え、させてください」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る