第005話 アンチヒーロー<前編>
『サイコブラック主題歌 ~優雅なボサノヴァバージョン~』
闇を破る 漆黒のヒーロー 彼は走る 正義の果てを追いかけ
弱き者の叫びがある限り(彼は往くんだ)
悪しき者の企みある限り(裁きの時だ)
さあ非の打ち所無い 平和のために いらないモノ全て 粛清するんだ
正義の実行者 サイコブラック
白井真吾の朝は、目覚まし代わりにサイコブラックの主題歌を聴く所から始まる。
もちろん、寝起きなのだから、爽やか、かつ、騒がし過ぎない程度のボサノヴァアレンジをチョイスしている。
最近、寝る時間にこれのハードロック版を最大音量で聴く“知人”が相次いだが、寝る前後にそんな事が出来る気が知れない。
一見して大人しそうな弁護士が、近所や家族への迷惑も顧みずにそれの“五重奏”を嗜む事すらあるので、世の中わからないものである。
とにかく、起床だ。
最初にする事と言えば、パソコンのチェックである。
昨日の夜、改造人間たちのエサやりを忘れていたが、まあ、すぐに使う用事も無いし、身体の構造は我々ヒトと全く同じなので、一日や二日くらいで死ぬ事は無い。後回し。
――“こはく”の防犯カメラを見て何事も無ければ、やりに行くか。
愛らしい犬・ネコと違って可愛げもない、業務用の道具とは言え、メンテナンスは大事なのだが……実に面倒だ。
この際、自動給餌機の購入を考えた方が良いかもしれない。
ネコ用のそれに、サプリ錠剤や乾パンは入るのだろうか? それこそ、専門家の彩夏に訊いてみれば良いか。
そんなわけで、カメラの映像をチェック。
……。
……、…………。
「やられたかな?」
どうやら、異常なしというわけにはいかなかったようだ。
残念ながら、改造人間達にはもう半日程度、飲まず食わずで我慢してもらうしかないようだ。
今は恐らく、もっと差し迫った事態が起きている。
「変身ッ!」
節度あるマフラーに付け替えた愛車で“こはく”に着くと、扉が閉まっていた。
店の前で右往左往しているのは、動物看護師の
「お願いです、助けて下さい! 彩夏さんが、彩夏さんが!」
かなり、錯乱しているようだ。
「大丈夫だ。僕が必ず助ける」
どうやら、状況から察するに、彩夏が直接拉致されたようだ。
店から雑魚構成員を根絶する意思を敵に示した今、真っ先に考えなければならない事態でもあった。
「落ち着いて、彼女がさらわれた時の状況を教えてくれないか?」
錯乱状態の友香をなだめすかすのには、それなりの労力を要した。
恐らく、
ややあって、対話が可能な程度に落ち着いた友香が、どもりがちに説明を始めた。
昨晩、友香らスタッフは彩夏の家に宿泊していた。
その夜は別段、何も起こらなかった。
問題は今朝、全員連れ立って出勤しようとした時に起きた。
彼女達が外に踏み出した途端、測ったかのように白塗りのセダンが停車。
運転席から、白い背広姿の若い男が降りてきて、彩夏に声をかけてきた。
「今夜、一緒に食事をして下さい」
一見して爽やかで、大人の余裕を纏った男だった。
「俺達の将来について、話し合いましょう」
彩夏は、従業員達を一度だけ見てから、静かにうなずいた。
「夜まで時間はありますが、それまで家でくつろいでいて下さい」
ほとんど同意の上で助手席に乗り込んだ彩夏は、そのまま連れ去られてしまった。
なるほど。それが本当であれば、理性的な相手ではあるようだ。彩夏に突き付けられる要求次第では、穏便に事が済むかもしれない。
今日は、エサやりをする暇があるのだろうか。
「……その、彼女を連れて行ったと言う男について、何かわかるか?」
その質問に、怯えるだけに見えていた友香の瞳が、憎悪で鋭利なものに変わる。
「わからない筈がありません! あいつは、南郷組の若頭――
至極、簡潔な返答をもらえた。
南郷の家に手出しするわけにいかないとなれば、夜まで待たなければならない。
どうやら、改造人間どもは今日もエサ抜きになりそうだ。
その為だけに家に帰るのがめんどくさい。
繁華街の光全てを、窓枠に収めたかのような夜景。
レストラン“リュヌ=ソレイユ”の窓際で、彩夏は
南郷の着る、白を基調とし、個性を滲ませながらも品性を壊さぬ絶妙なデザインの背広は、チェザリ・アットリーニの品か。
「ここ最近、お互いに色んな事がありましたね」
南郷が、柔らかい声でそう切り出した。
「ええ」
彩夏も、欠片の敵意もない穏やかな調子で応じた。
彼女にとって南郷は、話しやすいタイプの相手だ。
幸い、南郷にとってもそうであるらしい。
誰に対しても、嫌な思いはさせたくはない。
「去年とは違う返答を、あなたは俺にするべきです」
堅気の人間よりよほど余裕のある、柔らかな眼差しが、彩夏を堂々と見据えている。
「私の返答に、変わりは有りません」
交渉はあっさりと決裂した。
彩夏にとって、南郷が望む事は絶対に承服できない事だったから。
上辺だけでも恭順の意思を見せれば、この場は解放してくれたかもしれない。
しかし嘘をついてしまえば、南郷が最終的により強く傷つく事だろう。
“こはく”に対する攻撃も、より過激なものになっていくかもしれない。
「蓮池さん。あのまま、あなたにあの店を続けさせるわけにはいかないのです。
いや、俺と結婚すれば、また別の場所で“こはく”を再開するチャンスがあります」
「私は、私の意思で、今の仲間達とあの店を続けます。それが、私にとっての一番の幸福ですから」
彩夏の言葉は、にべもない。
「それに南郷さんには、私よりも幸せになれる・出来る女性が沢山いるはずです。
敵で無い限りは優しいし、ルックスに拘る女性だとしても、貴男に文句は無いでしょう」
完全に、女が男を切る時の常套句だ。
それが求愛の拒絶に効果的である事は、彩夏も充分心得ている。
だが同時に、嘘も吐いていない。
南郷には、もっと幸せになれる女性が居る。
――ここで私の様な女を選ぶのは、彼にとって不幸な事なのに。
「ヤクザの男は、お嫌ですか」
これには、すぐに頭を振った。
夜の清流を思わせるロングヘアーが、微かにせせらぐ。
「私は、私と今の従業員達の手で“こはく”を続けて行く。それを許さないと言う貴男とは、絶対に相容れないと言う現実があるだけです。
どれだけ仲良しだろうと、犬とネコとが結婚出来ないのと同じ事です」
店を畳み、自分と結婚しろ。
それを絶対に飲ませたい南郷。
それを絶対に飲めない彩夏。
例え彩夏が南郷を愛していたとしても、ここは拒絶した事だろう。
「誰しも、自分の道を自分で決める権利が有ります。恋愛も、仕事も」
「しかし、あなたが俺を受け入れない自由を行使した場合、俺は好きな人を選ぶ権利を一つ失います。それは許されない悪だ」
とんでもない詭弁だが、彩夏は何も言及せず、
「最終的に、私では無い女性を選ぶ方が、貴男にとっても私にとっても幸福な結果になります。
目先の不幸は将来の幸福で塗り替えられますし、逆も然り、です」
ただただ真面目に応じた。
南郷は元々“こはく”の常連客だった。
彼は純粋にネコが好きだったし、店に来る事で彼は幸せそうにしてくれていた。
だが、次第に彼が彩夏を愛するようになった瞬間、その幸福は終わったのだ。
去年の今頃、同じ要求をされた。
自分が店を続けたい気持ちも、南郷の最終的な幸福を損ねたくない気持ちも、あの時から変わりは無い。
その拒絶が今は彼の小さな不幸になっても、次の大きな幸せに繋がれば、差し引きでプラスとなる。
だから彩夏は、南郷を徹底的に拒絶した。
まず、彩夏は一週間、直子達に店の運営を任せて姿を消した。(当然、後にその埋め合わせはした)
南郷の目の前に自分が居ては、いつまでも熱が下がらないと判断したのだ。
まず彼をクールダウンさせ“脈が無いのかもしれない”と言う予感を抱かせる。
頭ごなしに拒絶するよりは、予感を抱かせてから拒んだ方が相手の落胆もより小さく済むし、最悪、逆上される可能性もかなり減らせる。
そうすれば、あるいはわかってくれると思ったのだが、甘かったようだ。
「今は仕事が何より大事なのです」
心からの本心だった。
だが、南郷には通じなかった。
「他に好きな人が出来たので」
それが誰かを立証する必要はないが、気持ちのベクトルが南郷に向いて居ないという事を突き付ける文法である。
それも駄目だった。
「南郷さんには、私よりも相応しい女性が沢山居ます」
逆に、あわよくば自尊心を刺激し、南郷の気持ちのベクトルを他に向ける文法を選択。
これも駄目だった。
「南郷さんは、良い友人です。ネコちゃん達の事も誰より理解して居られるから、
ポジティブかつ、恋愛以外の位置に両者を固定しようとする。
これも駄目だった。
「私は仮に結婚しても、子供を持つ気がありません」
こうなれば現実的な方向から攻める。
南郷組は大きい分、しきたりの古い組織だ。その若頭……事実上の次期トップともなれば、跡継ぎが居ないのは問題になるだろう。
だが南郷自身は
今どき珍しい彼の誠意を利用するのは、南郷を更に不幸な気持ちにさせる事だったが、これではやむを得ない。
そうで無くても、彩夏は南郷を振る為だけに
「子供なんて要らない。俺は、組の未来よりあなたとの人生が大事なんです。
もし、組の老人達が異を唱えるなら、全て接客させて見せましょう。
だから、あなたもまた、俺と一緒に幸せになるべき運命にある」
もはや、彩夏に策は無かった。
世の女性が当たり前のように使っている“後腐れなく男を切る”常套句を、彼女は誰から教えられる訳でも無く自力で絞り出したのだが、それが彼女の限界とも言えた。
南郷ほどの男なら、女性との交際経験も豊富だろう。それくらいは全て想定できた事だ。
それに最悪、組の力で彼女一人を半強制的にモノにするくらいの事は出来た筈だ。
店を潰させる事も同様。
恐らく前者をよしとしなかった南郷は、後者を選んだ。
そのうち南郷自身は店に来なくなり、末端組員を使った嫌がらせが始まった。
拠り所となる店が無くなれば、他に彼女を支えるものは無くなる。
そうして再度アタックをかける気で居たのだろう。
好きだった店に下劣な攻撃をしなければならない南郷は、やはり今も不幸な気持ちでいるのだろう。
彩夏としても、それをどうにか汲みたいが、絶対に受けられない条件しかないとなると、どうする事も出来ない。
結局、堂々巡りになる。
そして、南郷は当面、彩夏を帰す気は無いだろう。
こんな事、彩夏はもちろん、南郷も望んではいない。
それが、よくわかる。
「困りましたね」
「ええ、本当に」
皮肉な事に、今や二人の気持ちは一つだった。
この宙吊りのような状況を、一刻も早く打破したい。
その手段が、お互いの間で一八〇度違うだけのことだ。
けれど。
一年前とは違う事がある。
それは――。
《そこまでだ! 南郷愛次!》
拡声された声がフロア中に響き渡った。
次の瞬間。
黒い影が、外から窓をぶち破って飛び込んできた。
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