静かなる怪人<中編>

 午後からひと雨降るとの事だった。

 午前十一時現在、分厚く広大な雲が、空を覆い尽くしている。

 彩夏にとって“こはく”から望む鉛色の曇天は、それはそれで味わい深いものだったが、どうにも気分が優れなかった。

 胸が、それこそ雨雲の渦巻くようにすっきりしない。どうも、頭の芯に鈍痛が巡る感覚もある。

 流石に昨夜は飲み過ぎただろうか。

 彩夏は、体脂肪の少ないその細身の割りには酒の残らない体質をしていたが……最終的には白井と二人で合計二本のワインを開けていたし、ここ数日の疲労が祟ったのかも知れなかった。

 ――そんな事よりも。

 ネコ達の様子も、未だに芳しくない。

 まず、どのネコも、毛繕けづくろいの回数が異様に増えた。

 毛繕いの目的は体毛を綺麗にする為なのだが、同時に、自分の緊張をほぐす時にも良く行われる。母ネコが仔ネコを舐めるのも、安心を与える為とされる。人間で言えば、撫でられる事で心を落ち着けるようなものだ。

 そして、どのネコも尻尾を激しく左右させている。

 犬のそれと混同して、喜んでいると勘違いする人間は多いが、ネコの場合は苛立ちの意思表明として用いられる。 

 そして、開店時に控え室からネコ部屋へと誘導するのにかなり苦労した。

 “こはく”のネコは、おやつや玩具(当然、別料金)が無くても客に懐いてくれる。

 店の利益を教え込んでいない、自然体のネコと触れ合えるというのも、この店の強みではあった。

 とはいえ、彩夏の指示には素直に従うよう訓練はしてあったのだが、ここ数日は言う事をなかなか聞かない事もある。

 こんな事は、各ネコが初めて“こはく”に来た時以来かもしれない。

 カメラの増設が、それほどまでにストレスになっているのだろうか。だとすれば、あと数日我慢してもらえば、慣れてくれるのだろうが……。

 ネコの不安が伝わっているのか、人間たちの顔もどこかすぐれない。

 お金を払い、癒しを求めてこのスペースに来た以上、誰も笑顔ではあるのだが、一抹の不安が浮かび上がってもいた。

 彩夏流に言えば、顔に満ちた幸せの中に、“幸せで無い要素”が一粒落ちたかのような。真水に、一滴の墨汁を垂らしたかのような、曰くしがたい不安をにじませている。

 ペルシャのミルクが、今や一番の仲良しとなった少女の膝上に鎮座している。

 だが、傷付け・傷付けられて、より仲が深まったはずの両者の間に、どこか気まずいオーラが漂っているのは、彩夏の錯覚だろうか。

 ミルクは仕方なしと言った面持ちで(元々不機嫌そうに見える顔なのだが)尻尾を振り、少女はミルクに遠慮して声の一つもかけられないと言った風だ。

 最も人懐っこい黒猫のひすいは、部屋の片隅で、何かから身を護るように丸まっている。ひすいのファンである常連客の誰が呼んでも、応じようとはしない。

 マイペースで昼寝好きな巨ネコ・メインクーンのワッフルは、落ち着かなげに部屋中を徘徊し、進行方向に別のネコが居ると、いちいちパンチを浴びせて憂さを晴らしているように見える。目に見えた威嚇をしないのは、彩夏や、動物看護師のスタッフの教育があってのものだろうが……それでもあまり良い光景には見えない。

 何よりこんな事、のんびり屋の――のんびりし過ぎてスタッフの手を焼かせてきたワッフルらしくない。

 風も出て来たのか、窓がビリビリと震えているようでもある。

 彩夏の、日焼けを知らぬ白磁の肌まで、チリチリするような錯覚を覚える。

 せっかく、南郷組の攻撃が小康状態におさまっている時期なのだ。こんな時くらいは平和な“こはく”であって欲しい。

 望みは、ただそれだけなのに。




 閉店時間。

 残った客に退出して頂き、ネコを控え室に戻し、後片付けをする。

 全てが終わった頃には、彩夏の気分もかなり回復していた。

 どうにか今日一日、平穏無事に終える事が出来た。

 ネコ達も、控え室に戻る時には、いつもの素直さを取り戻してくれていた。

 良い兆候だ。

 やはり、カメラが増えた事に慣れてくれつつあるのだろうか。

 ほっと、胸を撫で下ろしたい気分になった時だ。

「あなたね……!」

 呆れを強調するような、抑圧的な声が事務所の方から聴こえた。

 この声は……スタッフの嶋友香しまともかだ。先程触れた、動物看護師の資格を持つスタッフ。

「いや、あたしは“何で?”って聞いているだけですけど。友香さんなりの考えがあるから、さっきあたしに、ああやって突っかかって来たんじゃないですか?

 それとも、鬱憤を晴らしたかっただけ?」

 相手は、松任那美まっとうなみか。

「ほんと、信じられない……!」

 友香は大袈裟な溜息(つまり挑発)交じりであるのに対し、那美はあくまでも淡々としている。

 熱が入って危険なのは、前者の方か。

「大体、世の中全体ですら答えが出せてない事に対して、自分の意見と違うからって凄んでくるのは思想の押しつけじゃないですか?」

 具体的な不満は言葉に乗せないものの、刺々しい威嚇の応酬が延々と続いている。

「二人ともやめようよ!」

 新堂直子すなおこが割って入るが、効き目は無いようだ。

「直子さん? あたしたちは別に、ケンカしてるわけじゃないワケ」

 彩夏は、咄嗟に足を踏み出せなかった。

 この際、二人がやり合うに至ったきっかけは問題じゃない。

 ここのスタッフが喧嘩になりかけている事態そのものへの衝撃が大きかったのだ。

 このような事、“こはく”ではまず有り得ない事だった。

 仕事の方針で白熱する事はあっても、直接の敵意を叩きつけるようなスタッフはこれまで居なかった。

 那美は、派手な見た目と今風の喋り方で誤解されがちだが、その辺の良識ぶった人間よりよほど理性的な人間だ。

 友香も、内面に繊細な所はあれど、公にそれを露わにするようなタイプでは無かった。

 となれば、二人の間にはよほどの事があったのだろうか。

 今は動揺している場合では無い。店主の自分が間に入らなければ。彩夏は、足早に事務所へと入り込む。

「止めなさい、二人とも」

 事務所に入るや、淡々と平坦に言った。

 我に返った両者は、すぐに口を閉ざした。気まずそうに、互いの視線をはずす。

 やはり、白熱したのは一過性のものだろう。水を浴びせかければ、自分が熱くなっていた事を恥じるのだから、どちらも本気の喧嘩を望んでいたわけではない。

 ――そう信じたい。

「何があったの。友香さん、説明して」

 この様子なら、友香が偏った説明をしてしまう事は無いだろう。

「お客さんが、自分の所の飼いネコに避妊手術をした方がいいのか、那美さんに相談して来たんです」


 歳は四十代ごろで、派手な身なりの女性だった。

 この店には珍しく、連れは居らず、一人で来たらしい。

「避妊・去勢手術には賛否両論ありますが、あたし個人としては自然体でいさせてあげるのが良いかなって思いますよ」

 それを聞き咎めた友香が、閉店後に那美へ苦言を言った。

「那美さん、夕方一番のお客さんの事だけど。避妊しない事を他人に推奨するのは感心出来ないよ」

 それに対し那美は、

「あたし、避妊しない事を推奨しましたっけ? 確かあの時“あたし個人としては”って前置きしてましたよね?」

 抑揚のない声で答えた。その応対が、友香の胸に鈍く刺さった。

「手術をしないままネコを放し飼いにしておけば、貰い手の無い仔ネコが沢山出てくる。年間、そんな子達がどれだけ殺処分に遭ってるかわかって言ってる?」

「だから。あたしは、手術自体は否定していませんよ」

「しない選択肢の方に比重を置いて答えた以上、あのお客さんは手術をしない方向に多少なりとも傾くかも知れない。そうなって起きた結果に責任は持てるのかって言ってるの」

「“かもしれない”って何ですか?

 手術は不可逆ですよね? やってしまったら二度と戻せない。

 もしあたしが、手術を勧めるような言い方をして、お客さんが後悔したらどうするんですか。

 自分の家のネコの事は、飼い主の責任でやる事でしょう。世の中のネコ全部の責任を“こはく”ウチが持てるわけでもなし。

 そもそも、ネコの視点からすれば、繁殖するなってのは人間の都合ですよね?

 仮に保健所に捕まってガス室送りになっても、そこに至るまでのネコ生に満足してたんなら、その子は生まれてきて良かったのでは?

 ネコ自身に拒否する手が無い以上、手術はある意味、その可能性を摘み取ることなわけですが。

 だったら、これについて、あたしに納得のいく説明を下さい。でないと、次からお客さんにこの話を振られる度に、あたしは板挟みになる」

「殺処分に遭っても幸せって……それはあなたの持論に都合の良い仮定でしょう」

「言葉尻だけとらえて人格攻撃すんの、やめてくれませんか?

 あたしは、お客さんに手術を勧めなければならない、ちゃんとした理由が知りたいだけです。

 手術で親ネコ・仔ネコが救われるって考えるのも、友香さんの持論に都合の良い仮定ですよね?」

「あなたね……!」

 ……っという次第であった。

 

 彩夏は、唇を結んで一考。

 一呼吸ほどの間だった。

「それで間違い無い? 那美ちゃん」

「はい」

 那美もまた、ここで我を張るような子供では無い。

 聞く限りでは、友香の過剰反応と言う印象だ。

 避妊・去勢については、人間社会から見れば確かに必要な事ではある。だが、人間社会と言う枠から抜け、自然界として俯瞰ふかんすると、那美の意見も間違ってはいない。

 ネコカフェは、人もネコも幸せでなければならないと、彩夏は考えている。

 当然“こはく”のネコは全て、購入した(ひすいの場合、譲渡された)時点で手術が済んでいる。

 避妊・去勢の是非については、これまで彩夏ら他のスタッフも同じ討論をした事はある。昨日今日の話ではない。

 それを今日突然、那美だけを咎めたとなれば、納得しづらい事だろう。

 だが、

「二人とも、それは別に声を荒げなくても話せた事です。

 友香さんが怒鳴る様な言い方をしなければ、あるいは、那美ちゃんが怒鳴り返すような返事をしなければ、本題を忘れてなじり合う事態にはならなかった。そうでしょう?」

 二人は、黙って頷いた。

「主張と喧嘩を混同しては行けません。

 最初に友香さんが問題にしたは、那美ちゃんがお客さんにした返答の事なのだから、そこからはみ出して相手に猜疑や人格否定をぶつけるのは筋違いです」

 その上で、

「本題だけれど、那美ちゃん。友香さんはここのスタッフで唯一の動物看護師だって事は知ってるでしょう?」

「はい」

「動物の命を預かると言う意味では、彼女は最前線に居る。私達よりもずっと神経を磨り減らしてるの。

 実際の手術をいくつも見て来てる友香さんにとって、避妊・去勢手術は机上の空論では無い。

 那美ちゃん、その辺の事はちゃんと考慮して、友香さんと話したの?」

「……、…………、いいえ」

「それは駄目。自分の尺度で、他人の気持ちを推し量るのはいけない事でしょう?」

 穏やかだが、容赦の無い叱責。

 那美は俯き、唇を噛み締めるのみ。

「すみません、でした」

 絞り出すような、那美の声。

 むしろ庇われた格好となった友香の方が、今は恐縮がちになっていた。

 こういう場合、経営者が場の平穏を重んじるなら、平等に間を取り持とうとすると思っていた。

「う、ううん、私も大人げなかったし、私も、ごめんなさい」

 自分の、動物看護師としての能力を、彩夏が認めてくれた。

 嬉しい反面、それだけで細かな事に拘泥していた自分がみっともなく思えて、友香は狼狽の色を隠せない。

「こう言うと、また嫌な気持ちにさせてしまうかもしれないけど、今日はなんだか、ネコが皆ピリピリしてて、私もそれを見てカリカリして……それでつい、あんな、絡むような事。本当に、ごめんなさい」

 メガネの奥で、彩夏の瞳が細まる。

 何かが意識の網に引っ掛かった時の、彼女の癖だ。

 ともかく今は。

「はい、そこまでにしましょう。今回の事は、マニュアル化を怠った私の責任もあります。

 だから、友香さんとは一度、お客様への対応やネコ達のケアに関する指針を話し合って、全員で共有しましょう」

 全員、素直に頷いた。

 元通り、いつもの“こはく”に戻った事を確認し、

「うん。そうしたら、今夜は気分転換に、私の家で飲みましょう。女子会です。女子会を敢行しましょう」

 店主の鶴の一声で、ひとまずこの場はおさまった。

 友香と那美の間にも、わだかまりは少しも残っていないようだ。

 問題は、消えたはずだ。




 ワインを一人一本開けた昨日に比べれば、軽いカクテルだけの女子会で酔いが回る事は無い。

 彩夏の目は、眠れないほどに冴えていた。

 白い寝間着ルームワンピース姿の彩夏は、自室でノートパソコンに向かっていた。

 今日一日の、防犯カメラの映像を見返していた所だ。

 まず、注目したのは南郷組の人間らしき客だ。

 ネコに全く構わない者も居れば、一応のポーズとして撫でるくらいはしている者も居る。

 こうしてみると、後者は、店に来慣れていない一般客と何も変わらないように見える。

 南郷組員だって、同じ人間だ。

 タマネギの望田はともかくとして、特別なトラウマが無い限り、ネコが可愛くないわけはないだろう。

 彩夏は今でも、そう信じている。

 やはり、露骨に増設されたカメラを意識してか、南郷の組員で不審な動きをしている者は居ない。

 次に彩夏は、ネコの様子を重点的に見る。

 こちらも、カメラの視点から新しい事実は見えてこない。

 友香と那美の接触したと言う女性客が映った。

 一見して普通の客だが……彼女が二人を意図的に焚き付けた可能性は?

 暴力団員然としていない外見の人間が、これまで攻撃を仕掛けて来たことは無い。

 だからこそ、中年女性という襲撃者は、スタッフの盲点になり得るが。

 ……即時撤回。

 いくらなんでも、避妊手術の相談を離間の策と結びつけるのは合理的ではない。

 それに、一見の客を全て疑っていたら、きりがない。

 無差別に猜疑心を持っていては、接客にも影響を出しかねない。

 それは、自分と客の幸福さを著しく下げる事だ。

 彩夏はメガネを外し、眉間を揉んで気を入れ直した。

 どうも近頃、この純チタンのメガネすら、のしかかるように重く感じる……。

 不意に、誰かの足音が廊下から聞こえだした。今日泊めているスタッフのうちの、誰かだろうか。

 ノートパソコンを畳むと、彩夏は、足音の主を待ち受ける。

 入ってきたのは、客用の寝巻きを着た那美だった。

「彩夏さん、寝る所でした?」

 言葉とは裏腹、ずかずかと上がり込んで来て、ベッドに腰かけてくる。

「もう少ししたらね。どうしたの。お店でのこと、まだ考えてる?」

 日頃の淡々とした口振りからうって変わり、母か姉のように柔らかい声色だ。

 しかし、言ってることは、前置きも無く核心を突くものだった。

 そんな彩夏の、ある種容赦の無い所を、那美は好ましく思っていた。

「まあ、お客への返答に関しては、あたしの考え自体は間違いだとは思わない」

「こう言うと身も蓋も無いけれど、正解と言える正解が無い問題だからね」

「けど、あの場でその自説を出すのは、単なるKYだったかなって」

「うん。分かってるじゃない」

「彩夏さんの言う通り、友香さんが人一倍ネコ達の体に神経使ってることを、考えてなかった。

 だってあたしら、ネコの内臓がメスで切られる所、見た事もないもんね……」

「それでも、最後に気付けたのならそれで良いのよ」

 彩夏は、那美を引き寄せて、その頭を抱き込む。

 那美は、はじめは身体をびくりと震わせる素振りを見せたが、すぐ素直に身を委ねた。

「私が那美ちゃんばかりにきびしい言葉をかけたのには、不満はなかった?」

 普段は、綺麗にカットされた宝石のように玲瓏な声音。

 今は、微かにかすれて、暖かみを含んでいた。

「わかってるくせに」

 くすぐったそうに笑うと、那美は、より強く彩夏の胸に顔を埋める。

「あたしをちゃんと叱ってくれる人、彩夏さんしかいないし」

 松任那美は、地元では大手のデザイン会社・クリエイトMTOの社長を父に持つ。

 業績は、那美に言わせればそれなり。

 社長も、少数精鋭の社員も無駄に良い車やバイクを乗り回しているし、財布の中には二桁枚の万冊が常備されている。

 一度の飲みや食事に、数万の金が飛ぶのは当たり前。

 微笑ましいレベルの小金持ち、とは那美の弁だ。

 令嬢である那美も、不自由無く育てられた。

 それは、言い換えるならば。

 不自由を、全く与えられなかったとも言える。

 那美の上には、兄が三人居る。

 だが両親は、長らく娘を欲していた。

 四人目にして、ようやく生まれた待望の女児。

 那美が生まれた時、父も母も、天に昇るような喜びようだったと言う。

 欲しいものはなんでも与えられた。

 したい事は何でもさせてもらえた。

 髪を脱色して、どんな極彩色のネイルや服装をしても否定されなかった。

 大学に行きたいと言えば、生活費と小遣い完備で、叶えてくれただろう。

 そして、大学に行かずに就職したいと言っても、やはり、何も言わずに肯定してくれた。

 全く鞭を振るわれず、抱えきれない程の飴ばかりを与えられて、この歳になった。

 那美の胸中には、言い様の無い不安だけが飽和していた。

 ――これで、本当にいいのかな。

 ――あたしは、何かとんでもない間違いを起こしてないだろうか。

 身近な大人から、何一つ規範を与えられなかった那美は、常に不安に苛まれ続けていた。

 そのうち、何か取り返しのつかない罪を犯してしまうのではないか、とまで思い詰めるようになって行った。

 事実、那美の周囲は常に敵意で満ちていた。

 本人は、他の人々と同じように、普通に暮らしているつもりでいる。

 だが、周囲は那美の言葉の一語一句に神経を障られ、やがて彼女が口を開く前に拒絶の意思を見せる。

 学生時代の四面楚歌を思えば、今日の友香の態度は菩薩のように優しい程だ。

 高校の頃、限界まで追い詰められて精神科を受診した。

 愛着障害の診断が下った。

 皮肉にも、花よ蝶よと可愛がられて育った事が原因で、彼女は“両親の愛情を受けられなかった結果”の典型である病を得てしまっていたのである。

 本人にとって幸か不幸か、彼女は、我が身を振り返る感性を自力で得ていた。

 与えられるものに溺れ、自己中で知性の低いお姫様になれたのなら、もっと生き易かったのかも知れない。

 けれど。

 ――そんな頭の悪い奴に成り下がるのは、心底ゴメンだ。

 彼女から言わせれば、それは人間の生では無い。だから、すぐに家を出て自立しようと思った。

 両親も兄達も、それすら止めなかった。

 結局。

 待ちに待って生んだ娘、とは一体何だったのだろうか。

 そうして、那美は、彩夏に――“こはく”と言う店に出会った。

 彩夏は、家族がくれなかったものを、一身にくれた。

 彩夏が今回の事のように厳しくしてくれたから、那美はようやく自分に怯えず生きていけるようになった。

 それも、ただ“那美が叱られる事を欲していたから”という、即物的で対症療法的な理由では無い。

 那美が友香の言葉を素直に受け止めれば、この先もっと、スタッフとして飛躍する。

 それをちゃんと期待してくれている。

 那美に期待を向けると同時に、友香の、知識を持ち過ぎるが故に他のスタッフと気持ちを共有できない孤独をもくみ取り、はっきりと肯定した。

 あの場で対立していた二人ともが救われる道を、彩夏店主はすんなりと選び取ってのけたのだ。

 だからこそ、那美は。

「たまに、彩夏さんが怖くなる」

 彩夏の白い繊手が、那美の痛みがちな髪を慰撫するようにすいた。

「それは、怒り方が厳しいから?」

 子守唄のように、柔和な声。

「それも、わかっているくせに。彩夏さんって、あたし達が一番欲しいものを、常にわかってくれているよね」

「んー」

 と、彩夏は言われた意味を測りかねて、ただ唸った。

 確かに、こうしたやり取りをしたのは、那美一人だけでは無い。

 友香も直子も、他のアルバイトのスタッフも、心の深い部分に何かしらの不安や闇を抱いている。

 彩夏は、これまでその全てと向き合い、持てる手を尽くして解決してきた。

 それをここで全て陳述するのは、件数と密度が膨大すぎてかなわないが。

 だからこそ、南郷組と言う日本でも五指に入る指定暴力団に付け狙われても、誰一人彩夏と店を見捨てないのだ。

 どんな嫌がらせや危険を突き付けられても、誰一人辞めなかった。

「多分あたしが怖いのは、本当は彩夏さん自身じゃなくて……彩夏さんが、いつ、遠い人になってしまうかっていう漠然なものだと思う。自分でも、何言ってるかわかんないや」

「……」

 那美の髪をすいていた彩夏の手が頬に移り、包み込むように撫でさすり始める。

「今週、那美ちゃんには無理のさせ通しだったね。

 那美ちゃんは、色んな所に気を回す人だから、人一倍疲れやすい性格をしているって、私は思う」

 彩夏自身に、“こはく”という小世界から出る気持ちは無い。

 彩夏自身には。

「だから、今はゆっくりお休みなさい」

 耳元で、それだけを囁いた。

 この身が那美達の前から遠ざかる、などと言う想像をさせずに済むように。




 昨日とは打って変わり、雲一つない青空。

 ネコ部屋から望む大パノラマの景色も、抜けるような青と乳白色の照り返しで、昨日こもった湿気を散らしているようだった。

 開店直後の“こはく”は、全てのガラス窓から日光が滲み出して、春の陽気に満たされていた。

 客は既に十二人。親子連れが多いので、自然、人数も多くなる。

 今日は、月曜日から告知していた“ちょっとしたイベント”があるので、初動からの客入りは予想していた。

 だが、予想よりもやや大入りだ。

 反面、彩夏の気分はやはりすぐれない。

 どうにも、爽やかなはずの陽気さえも、肌を炙るように不快な鈍痛をもたらしていた。店を満たす日光も、有機的な薄膜に感じられて、軽い吐き気を催す。

 こめかみのあたりが、ジンジンと疼痛とうつうを訴えてもいる。

 昨夜は、残るほども飲んでいないのだが……やはり、張り詰めていたものがふっと切れた事で、これまで前倒しにしてきた疲労が押し寄せて来たのかもしれない。

 昨日の閉店時にはあれほど素直だったネコ達も、今はまたピリピリと張り詰めた気配を放っている。八匹全員が、その柔らかな毛並を針のように逆立てているようにさえ、幻視出来る。

 今日は、一部のアルバイトを除いては全員が出勤している。

 昨日の問題のメンバーを見やる。

 友香も那美も直子も、どこか重苦しい気配を顔に滲ませている。

 彩夏宅からみんなで出勤した時は、どちらかと言えば晴れ晴れとした表情をしていたのだが。

 夜も遅めだったので、無理も無い。

 彩夏がいう所の“幸福さ”が低迷した状態でのスタートだが、今日のイベントで皆の笑顔が見られる事を期待しようと思った。


 今、満員状態のネコ部屋に、異彩を放つ者が在った。

 オペコットスーツ・強化外骨格・ヘルメットというで立ちの男――サイコブラックが、ねこじゃらし両手に“こはく”のネコ達を釣っていた。

 正義の実行者・サイコブラック ヒーローショーinネコカフェ“こはく”。

 一昨日から企画していたイベントだ。

「はいはい、右手には君。左手には君。それっ、ジャンプだ!」

 サイコブラックの号令に従って、メインクーンのワッフルと、ソマリのキツゴロウが跳躍。左右からそれぞれ跳んだネコが、空中で交差する様は、まさしくヒーロー番組の一幕だ。

 二匹が同時に着地すると、観客から惜しみない拍手が上がる。

 胴の長い、しなやかな体つきの二匹なだけに、迫力もある。

 続けて、両手のねこじゃらしを指揮棒のように振るうと、それに呼応して四匹のネコが跳び交う。

 さながらイルカショーだ。

 彩夏の予想を遥かに超えた、サイコブラックの腕前だった。

 近頃の子供には“子供だまし”は通用しない。この企画の発案当初は、サイコブラックはともかく、彩夏としては不安ばかりだった。

 知名度ゼロの特撮ヒーローを呼んだ所で、場の空気を凍りつかせるだけではないか、と。

 だが、子供達には思いのほか、好評だった。

 見慣れないシリーズのヒーローと言う、稀少価値に喜んでいるらしい。

 ○○ライダーや、××レンジャーならみんな知ってる。だけど、サイコブラックを知っているのは、ここにいるぼくたち・わたしたちだけなんだ!

 ……という所か。

 最近の児童もなかなか複雑だ。

 親御さん達も、サイコブラックをローカルなご当地ヒーローとして処理してくれているようなので、心配はいらなさそうだ。

 さて。

 ネコカフェにローカル特撮ヒーローというシュールな環境を演出するに至ったのは、当然、サイコブラックの思惑があっての事だ。

 まず第一に、今も遠巻きにショーを見ている南郷組への牽制。

 ただ黙ってそこに居るだけで、スタッフに威圧感を与える連中。

 “こはく”に現れた特撮ヒーローと言う符丁・・は、先の当たり屋・三河が組じゅうに喧伝してくれただろう。

 サイコブラックが居るだけで、南郷組の関係者にのみプレッシャーを与えられる。

 第二に、サイコブラックと言う、ある種、ユーモラスな存在が店内に突入する事で、新しい風を吹かせる為。

 カメラ増設の時から店の中に凝っている、あの淀んだ空気を払拭する狙いがあった。

 そして第三に、これが一番大切なのだが、南郷組が次に起こすであろうアクションを未然に察知する為だ。

 サイコブラックが顔を出すことで、かえってボロが出にくくなるかも知れないが……一度は試す価値ありと判断した。

 現状。

 商売のパフォーマンスとしては、現在進行形で成功をおさめている。

 だが、目的はそれではない。

 彩夏はまず、スタッフ達に目を配る。

 那美も友香も他のみんなも、一様に笑顔を弾けさせてはいる。だが、その笑顔にどこか、抗いがたい疲れが滲んでいるように見えるのは……。

 彩夏が未だ、軽い目眩と、僅かな不快感を残しているせいだろうか。

 他人は、自分を映す鏡とは、よく言う事だ。

 しかし、表層だけでも活力を得られるのであれば、彼女らの内面においても少しは気晴らしになっているだろう。

 次に、南郷組の者達。

 ただ何も言わず、表情も変えずに、淡々としている。

 あからさまな者は、ショーに興味を見せず、退屈そうにスマートフォンをいじっている。

 その程度の事で壊れる雰囲気でもない。観客は誰も南郷組の態度には見向きもしていない。

 目に見えた変化は無い。

 目に見えた、変化は。

 ……。

 彩夏は不意に、はっとなった。

 変化が生じる前提で物事を見ていた結果、変化の無い事を看過してしまっていたとしたら?

 一つの仮説が、彩夏の脳裏をかすめる。

 それは、この閉店後のサイコブラックから聞き出せる事だった。

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