第003話 ネゴシエーター<前編>

『サイコブラック主題歌 ~ハードロックバージョン~』


 闇を破る 漆黒のヒーロー 彼は走る 正義の果てを追いかけ

 弱き者の叫びがある限り(彼は往くんだ!)

 悪しき者の企みある限り(裁きの時だ!)

 さあ非の打ち所無い 平和のために いらないモノ全て 粛清するんだ!

 正義の実行者 サイコブラック!

 

 

 

 午前二時の団地。

 “明け方”と言うにはあまりに濃い夜闇と静寂を、一条のライトと暴音が木端微塵にした。

 それは一台のバイクだ。

 エレキギターを狂ったように引っ掻き回し、ドラムを親の仇のように乱打し、ボーカルが思いの丈をこめたシャウトがオーディオから迸り、地上を蹂躙する。


 ――さあ非の打ち所無い 平和のために いらないモノ全て 粛清するんだ!

 ――正義の実行者・サイコブラック!


 オーディオから放たれる音声の暴力と、違法爆音マフラーから発せられる一〇〇デシベル近い轟音とが、互いの主張権を争うように競り合い、団地の隅々まで、空間破壊してゆく。

 電車通過時のガード下にも相当する爆音を寝耳に浴びせられた住人達が叩き起こされ、窓に点々と明かりが灯ってゆく。肩をいからせ、ベランダに出てくる住人も居たが、バイクは素知らぬ風に暴走を続ける。

 ホンダ・CBR1000RRをベースとした改造車にまたがる男の姿は、一見して、ごく普通のバイク乗りに思われた。

 だが、姿は普通ではない。

 一口で表現するなら、そいつは“特撮ヒーロー”だった。

 黒を基調とした、光沢のあるオペコットスーツは、まともなライダースーツでは有り得ない。まして、市販の服が外骨格のような装飾を備えて居ようはずもない。

 ヘルメットもまた、鎧兜のような造詣と、生物の顔面を思わせる有機的な起伏を有しており、とても防護性能を満たしているようには見えない。

「おいコラ、今何時だと思ってやがる!?」

 睡眠を阻害された善良な市民の罵声が、地上を駆け巡るサイコブラックに浴びせられる。

 確かに、彼らは不憫だ。サイコブラックは、心から同情した。

 日本国を支える為、彼ら彼女らは、明日も仕事や学業に専念しなければならない筈だ。

 日本国を支える為、身を粉にして働く身体は、疲れ切っている筈だ。

 それが、こんなつまらない事の為に安眠を妨げられて……。

 善良な市民の不幸を目の当たりにしたサイコブラックの心は散々に引き裂かれ、ヘルメットの下では悔し涙すらにじんだ。

 あまりに気の毒な話だ。自分には、何もしてやれないのか……。

 そう嘆きながら、サイコブラックは爆音マフラーを殊更咆哮させ、自らの“主題歌”を、再び最大音量でまき散らす。

 団地から上がる、阿鼻叫喚。

 何故、何の落ち度もない人々がこんな悲劇に見舞われなければいけないのか。サイコブラックは、悲しげに頭を振った。

 それと言うのも、この地区に住まう“タマネギ野郎”望田のせいだ。

 ネコカフェ“こはく”で、一応撃退はしたものの、この悪漢を確実に取り除くには“トドメ”を刺す必要があった。

 だが、現代日本では、いかなる正当な理由があっても暴力行為や殺人は禁じられている。法治国家である以上、テレビの特撮もののように悪役を体術や光線で爆殺する、と言うわけにはいかないのだ。

 まあ、サイコブラックとしても、そのルールに異論はない。

 どんな悪辣な人間であっても、その命は尊い。

 望田のように腐敗したタマネギの芯にも劣る社会不適合者であっても、生まれた時は、確かに彼を想う母に抱かれて眠っていたはずなのだ。

 望田には、平穏無事に町から出て行ってもらわなければならなかった。

 そういうわけで、サイコブラックは独自の調査網を活用して望田の住所を割り出すや、連日連夜、暴走行為にいそしんだ。

 ヒーローのメットには、拡声機能もついているので、

「愛しているぜ、望田靖男君! 望田靖男君ッ!」

 というアピールも、毎日欠かさない。

 近隣住民の何人かは、その名前を耳に留めた事だろう。

 悪いのは、罪も無いネコを陰湿な手口で殺そうとした望田だ。

 そしてまた、望田の背負う罪深い因果のせいで、この団地の人間全員が、眠りを邪魔されている。

 極道の者達は、カタギの人々と円滑な近所付き合いを築かねば食っていけない。

 まして、南郷のような大手の組であれば、ことさら地域との協調を重んじねばならない筈だ。

 こんな、公害レベルの騒音をまき散らして、お天道様が望田を許すはずもない。

 南郷組の本家筋も、望田を許すはずは無い。

 悪を憎んで人を憎まず。正義とは、とても生産的な行為なのだと、サイコブラックは考える。

 その過程で、違法爆音マフラーを用いるのも仕方のない話だ。

 悪と、それを排除する為の必要悪。その結果、社会全体で差し引きゼロ以上の“正義”が得られるならば、問題ない。

 ヒーロー結社のお墨付きだ。

 人に直接的な暴力を加えない限り、理由ある違法行為は結社が握りつぶしてくれる。

 少なくとも、南郷組の奴等にそれを批判する権利はあるまい。

 ――そう言えば昔、“歌”で平和を取り戻したって言うロボットアニメがあったっけな。

 今のこの状況も、それみたいなもんか。なんか、二番煎じしたみたいで興ざめだと、サイコブラックは思った。

 いやいや、大事な事を忘れてはならない。必要に迫られてやった事に、二番煎じも何もないのだ。

「……にしても、僕一人だと何かと効率が悪いな……」

 サイコブラックも、毎晩、こんな事をしていられるほど暇では無い。立ち向かうべき巨悪は、望田一人では無いのだから。

 暴走族のような、まとまった人員がこの仕事を代行してくれれば、より効率的ではあった。

 明日、結社にそこら辺を交渉してみよう。サイコブラックは、決意を新たにした。


 そして、その月の末日、望田は住居を引き払って消息を絶った。




 この日の朝、ネコカフェこはくの店主・蓮池彩夏はすいけさいかは、受付デスクで頭を悩ませていた。

 睫毛まつげの長い黒瞳は自然と細まり、桜色の唇はかたく結ばれる。

 ネコにじゃれつかれた、桃色の線が薄ら残る繊手で眉間をかばうと、溜め息をひとつ。

 悩みが三つほどある。

 まずひとつは、彼女が視線を落としている先にある。

 防犯カメラ設置の見積書だ。

 フロント、ネコ部屋、カフェスペースには元より一台ずつカメラを設置してあった。

 それでも、空き巣に対する抑止程度の効果しか上がってなかったのは、店主である彩夏が誰よりも知っていた。

 南郷組のように、能動的にこちらを傷つけようとしてくる驚異に対しては、心もとないのも事実だった。

 サイコブラックの言う十台はやり過ぎにしても、今の倍はあっても良いかも知れない。

 万一、客の車に手を出された時の為に(あるいは車上荒らし被害をうたう自作自演に対応する為には)駐車場にも欲しい。

 下手人の顔や手元を確実に記録したいとなれば、二〇〇万画素以上の物でなければ意味が薄い。

 店が無人になる深夜、センサーライト付きの物があれば、と考えた事もある。

 当然、彩夏の理想に叶うカメラの布陣を敷けば――。

「ご覧の通りの費用になる、と」

 カメラ五台・それを支える吊り具・集音マイク・液晶モニタ・レコーダ・取り付け工賃etc……トータル六三〇,〇〇○円。

 サイコブラックの言い分では、更に、この倍を増設しろと言うのだ。予算があるものならとっくにやっている事だ。

 いや……、何も全て購入する必要はない。賃貸リースならば、月額二万円も行かないはずだ。

 そもそも、こんな重武装の防犯カメラは、南郷を撃退すれば無用の長物にしかならない。(また、この戦いが三年以上も続くとは、彩夏としても考えたくは無かった)

 ひとまず、サイコブラックには「五台をリース」の線で交渉、彼の堪忍袋の尾を測りながら譲歩案を小出しにしていくしかない。

 そこで、二つ目の悩みが浮かび上がる。他でもない、そのサイコブラックの事だ。

 彼は、カメラ増設の費用を全額出資してくれると言う。

 義侠心だけで出来る事では無い。そんな博愛精神の持ち主が居たとしたら、とっくに全財産を剥かれて行き倒れているだろう。

 それに、蓮池彩夏、および、ネコカフェ“こはく”には、顔もわからない相手にそこまでしてもらう理由がない。

 あのヒーローの意図がわからない以上、おいそれと食いつける話では無い。タダよりも高いものは無い、と言うのは世の常だ。

 とは言え。

 奇妙な話だが、カメラの増設は“協力”ではなく“要求”なのだ。

 カメラを増やしてはみないか、

 では無く、

 カメラを増やせ、

 である。

 要求を突き付けられたあの時、彩夏は見知らぬ男に捕らえられていた。そんな状況で拒絶を見せれば、身の安全は保障されない状況にあった。

 そして、恐らく、サイコブラックは再び店を訪れる事だろう。

 その時、要求を飲む気配を見せなければ、元の木阿弥。逆鱗に触れれば、今度こそ命をも取られるかもしれない。

 あるいは。

 まともに出資を申し出れば断られると思って、彼はあんな強盗まがいの手に出たのかもしれない。

 次第に彩夏の心は、サイコブラックを擁護する方向に傾いていた。

 ――本当にヒーローだったら嬉しいな。

 と、胸が高鳴る気持ちも否定しきれなかった。

 何故なら、自分のもとにヒーローが現れると言う状況は、彼女が幼少の頃から抱き続けた夢なのだから。

 何か裏があったとしても、それほど悔いは無いとも思った。

 サイコブラックについては、次の来訪を待つしかない。

 さしあたり、現在進行形で彩夏の頭を痛めているのは、三つ目の問題だ。

 従業員の新堂直子しんどうすなおこが、いつもの出勤時間になっても来ない。

 彩夏は、最初期のメンバーであり職務に熱心な彼女を実質的な現場リーダーと考えている。

 直子もそれに応えてくれてか、定時の一時間前には店に来ている。それが、今日に限って無断欠勤しそうだ。

 もう何度目かわからないが、LINEと通話で直子に呼びかけてみる。

 コール音だけが、延々と続いていた。


 ついぞ直子が来ないまま、開店時刻を迎えてしまった。

 急遽、別の従業員にシフトの交代をお願いし、午前中は彩夏と那美なみの二人だけで対応する事となった。

 今日は、春分の日。祝日に一人欠けるのは、手痛い事だったが仕方がない。

 仕事一日は乗り切れば良いが、直子の事が何より気掛かりだった。


 三〇分程経過し、最初の客が入店してきた。

 若い女性と、小学生低学年ほどの子供。母娘だろうか。

 お出掛けが楽しくて仕方がないらしく、女性を支柱のように掴みながらクルクル回っている。

 その様子をネコ部屋の窓越しに見つめていた彩夏は、涼やかに微笑んだ。やはり、人の幸せな姿は良いものだと、思いながら。

 だが、手を止める暇は無いようだ。次々に客が押し寄せて来る。

 カップルらしき若い男女と、中年の女性が二人。常連の男性が一人。

 数分前まで朝の静寂に包まれていたネコ部屋は、人間とネコで賑わい始めた。

 とは言え、大抵の客は声を潜めて、連れと静かに語り合っている。

 ただ一人、気兼ね無くはしゃいでいるのは、最初に入店してきたあの少女だ。

「コラコラ。あんまりうるさくしないようにね」

 母親が、苦笑を浮かべながら一応の釘を刺す。

「はーい」

 少女の方も、少しだけ足取りを静かにして、ネコの方に駆け込む。

 彼女が狙いをつけたのは、一番大きな長毛のネコだった。

 茶シマ模様のメインクーン。名前は、ワッフル。

 メインクーンは、ネコ種の中でも最大級の体格を持つ。柔らかい毛が二層になって密生する被毛は、豪奢ごうしゃなマントのように重く、厚い。

 尻尾などは、人間の腕より一回りも二回りも太く見える。(尾肉の部分は細く、ほとんどが毛の厚みなのだが)

 ワッフルは、タワーの中腹で、腹の肉と毛を潤沢にはみ出しながらくつろいでいた。

 少女は無遠慮にワッフルを撫で回しはじめた。等身大のぬいぐるみを連想したのかもしれない。

 だが当のワッフルは、迷惑そうにあくびを一つ。

 少女に構わず伸びをするや、タワーから跳躍。どすん、と、他のネコより重量感のある音を立てて着地すると、揺りかご型のベッドへ入り込んだ。

「あ、まって!」

 少女が、慌てて追いかけようとした。だが、その脚に白い長毛のネコが擦り寄る。

 ミルクと名付けられた、ペルシャだ。

 目・鼻・口が顔面の中央に寄っており、人間の感覚からいえば仏頂面に見える。

 しつこく絡んでくるミルクを見咎めた少女は、うるさそうに払いのけた。

「しっしっ、あっちいけ!」

 それでもミルクは、おずおずと少女に近付こうとする。

「うざい、きえろ、このブサイク!」

「ちょっと、何て酷いこと言うの! その子は、麻代まよと遊びたいだけなのに」

 保護者の女性が、流石に娘の暴言を咎めたが。

「やだよ、こんな、きもい顔したネコ! さっさと死んじゃえばいいんだ!」

「麻代ッ!」

 鋭く言い放ってから、保護者の女性は、彩夏を見て詫びるように顔を伏せた。

 彩夏としては、店のルールを何ら破られていないので、罪悪感を抱かれる謂れもないのだが。

 ブサイク。気持ち悪い。死んでしまえ。

 彩夏も、子供ながらの無軌道かつ残酷な語彙選びを、気に留めてなかったわけではない。

 顔のパーツが中央によりぎみで、鼻タブ(ヒゲの生えるふくらみ)が大きい。

 確かに、ペルシャやチンチラと呼ばれるネコ種の顔付きは、日本人の考えるネコとはかけ離れた特徴ではある。

 スタンダードな洋食カレーライスを求める客にグリーンカレーを出せば、反発を招くのも無理は無い。

 だが、ネコという生き物は、カレーのような物言わぬ物質でも無い。人間の言葉はわからないまでも、突き放された事実は理解しているのだろう。

 この少女ほど露骨では無かったにせよ、好みに合わない顔だからと、つまはじきにされた経験はそれなりにあった。人間側の都合を理解できないミルクは、ただ理由がわからないまま、寂しそうに視線を彷徨わせる事しかできない。

「わたし、こっちのフカフカのがいい! ねえ、おきてよ!」

 少女は、揺りかごベッドを揺さぶって、ワッフルの耳元で声を立てる。

 対するワッフルも豪胆なもので、耳をピクピクと痙攣させるのみで、全く動じる気配がない。少女の存在など最初から無い物のように振る舞っている。

 ネコに属する生き物にしては、このメインクーンは豪胆そのものと言って良かった。あまりに分厚い毛と皮で、触られている感覚すら届いていないのではないか、とつい思ってしまう。

 何をしても相手にされないので、少女は次第に勢いを減じて行った。

「もういいよ!」

 ワッフルから視線をぶっちぎると、少女は部屋全体を見渡す。

 手近なソマリ(キツネのような体躯・毛並の長毛ネコ)の“キツゴロウ”に矛先を移すも、常連男性客の鮮やかなおもちゃ捌きに魅了されている最中だ。

 これほどエキサイティングなパフォーマンスが繰り広げられている時に、人間の小娘に関わっている場合ではなかった。

 他のネコも、タワー上やクッションで寝ているか、既に意中の客と遊んでいるかという有様だった。

 フカフカでなくてもいいからと、アメリカンショートヘアの“マサオ”に近寄るが、にべもなく逃げられた。

 もはやこの空間で、少女がネコに取り入る余地はゼロだった。

「……、……!」

 途端にみじめで悲しい気持ちに陥った少女は、唇を強く結んでうつむいた。

 これじゃ、何も生き物がいない、我が家の居間と何も変わらない。何のために、せっかくの休日にここにいるのか、わからない。

 小学校低学年なりの矜持はある。否定された事実に、しゃくりあげこそはしても、涙だけは堪えようとする。

 そこへ。

 ペルシャのミルクが、恐る恐る少女に近付いてきた。三度、懲りもせず。

 拳を握りしめ、泣くまいと堪える少女の脚を、遠慮がちに舐めだした。精一杯、何かを伝えるように頭をこすり付ける。

 また振り払われる事に怯えながらも、少女に対して必死に何かをもたらそうとしている。

 少女もまた、小学三年生。最前、自分がミルクに浴びせた言葉の意味を知らないままにしておくには、論理面で育ちすぎていた。

 ――この子に対して、きもい、死んでしまえとまで言ってしまった。

 少女は、一瞬どうしていいかわからず。

 ――それでもこの子は来てくれた。

 少女は、何も言わず――言えずに――ミルクにしがみついた。

 細く滑らかな毛並み。ワッフルの毛が厚手のコートだとするなら、ミルクの毛並みは絹。

 数分前とは一転して、捕まえて離してくれなくなった少女に戸惑いながらも、ミルクはその膝上に落ち着いた。

 ネコと言う生き物は、マイペースで神経質なものが多いが、人間の子供には寛容な態度を見せる事が多い。多少乱暴に扱われても、忠犬のように大人しい。

 群れの一員として守るべき幼体、と言う風に認識しているのかもしれない。

 その姿を見て、母親は、ほっと息をついた。自分はちゃっかり、黒猫のひすいを膝に乗せながら。

 彩夏もまた、穏やかな笑みを浮かべた。彼女にとっては、ネコも人も、幸福である事が一番だった。




 閉店時間になった。

 ネコ部屋から見下ろす夜景は、鏡面に色とりどりの宝石を惜しみ無くばらまいたかのようだった。

 空気の澄んだ、透明な夜闇。

 “こはく”を象徴すると言われている景色を、彩夏はぼんやりと見詰めている。

 ネコは控え室に帰し、掃除も事務作業も済んだ。

 店のSNSは、どれも南郷組に荒らされ尽くして休止中なので、更新や返信の必要はない。後は、帰るだけだが。


 ……夕方、新堂直子から店に連絡があった。

 出勤途中で、人身事故を起こしたと言う。

 閉店後、彩夏は、その事を何度も何度も思い返していた。


 白井真吾しらいしんご宅。

 建坪八〇、三階建ての一軒家。

 大手画廊主だった両親が遺した遺産であり、身寄りの無い彼には余る容れ物ではあった。

 四畳半の殺風景な自室で、白井はパソコンのモニタと向き合っていた。

 ヘッドホンから聴こえるのは、“こはく”に仕掛けた盗聴機からの音声だ。望田を迎撃したあの日、ネコ部屋と受付に一台ずつ紛れ込ませておいたのだ。

 当然、従業員の新堂直子に起こった事態も把握していた。

「……なるほど、当たり屋か。これまた古風な手で来たな」

 白井は、ここには居ない事故の“被害者”様に対して侮蔑の笑みを浮かべる。

 直子の車にはねられたと言う五十代の――三河とか言う男――は、スタントマンもかくやと言う身のこなしを見せて、おそらくは無傷であるらしい。

 痛い目を見たくなかったので、つい熟達した体術を発揮したのだろうが、その結果、言いがかりの論証としての“傷”を得ることができなかったようだ。

 それにしても、はねてしまった事実は事実だ。

 ドライブレコーダーが付いていれば、証拠になったのかもしれないが。済んだ事を悔やんでも仕方あるまい。

 事故後、直子に対して、恫喝まがいの絡み方をしていたらしい。

 直子が動転していたのを良いことに、三河は手早く話を進めたようだ。

 直子には保険屋を呼ばせず、警察も呼ばず、自分の保険屋と弁護士を来させたと言う。到着に五分もかからなかったそうだ。

 どちらも、たまたま近所に職場を構えていたのだろうか。全くもって不思議な事である。

 保険屋もグルと判断。保険金詐欺の方向で吊し上げるのは不可能。

 半ばパニックに陥っていた直子も、完全には屈服しなかったらしく、話し合いは警察に黙ったままという条件付きで先送りにされたようだ。

 恐らく、彩夏店主がこうしたトラブルの際には店に誘導するよう、従業員達に言い含めてあったのだろう。

 警察を呼ばなかった事は、結果としては悪い事ばかりではないだろう。

 “こはく”の従業員が人身事故の加害者となる、という事実は、直子としても避けたかったのだろうから。

 奇妙な事に、この茶番を“警察沙汰にせず内々に済ませたい”という気持ちは、直子と三河の間では一致しているのだ。

 明日の夕方、三河と弁護士が“こはく”に来るらしい。もはや、まともな示談交渉で無い事は明白だ。

 白井はヘッドホンを外すと、席を立つ。

「変身ッ!」

 サイコブラック、出動。

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