第002話 雑魚戦闘員

 闖入者の要求“監視カメラの増設”を前向きに検討すると告げた途端、サイコブラックはあっさりと店主を解放。そのまま去って行った。

 悠々自適と、あのままの格好で。

 性質の悪い夢だったのだろうか。“こはく”の店主も店員二人も、そう思わずにはいられなかった。現実感が乏しく、命が助かったと言う安堵さえどこか希薄だ。

 さて、どうしたものか。彩夏さいかは、立てた人差し指を頬に添えて一考する。


 ネコカフェ“こはく”は、県指定暴力団・南郷なんごう組による数々の嫌がらせを乗り越えてきた。その為か、店主も店員も、ある程度肝が据わってはいた。

 だから、自称・正義のヒーローの事も通報しなかった。

 この区域の所轄に属する警察は、件の南郷組と癒着し切っている。被害を訴えたとしても、法を盾にした屁理屈でかわされ、何もしてくれない。

 そうした経緯から、“こはく”は、南郷組の行為を理由に店を休業する事は無い。

 脅しに屈した所で彩夏と従業員の安全が確保されるわけでは無いし、弱気を見せれば、かえって嫌がらせがエスカレートすると判断した。

「本当に、御免なさい。危ない事に巻き込んで」

 彩夏が、従業員の二人に言った。

「それは言わない約束ですよ。あたし達みんな、彩夏さんには返しきれない恩があるんですから」

「そうですよ。“こはく”が単なる勤め先なだけだったら、とっくに逃げてます」

 掃除の手を止め、咎めるように食い下がってきた二人に、彩夏店主は、困ったような笑みを返した。

 そう、こんなヤクザ者どもに狙われた店に、それでも居続けてくれるのは、彼女達自身の意思だった。

「例のヒーロー、後でまた来るって言ってましたね」

 まだ、目元を赤らめた那美が、声を沈めて言う。そこに含まれた意図を、彩夏は正確に読み取っている。

「何もせずに素直に帰って行ったのは、かえって怪しいけれど……もしかしたら、南郷さん達を、本当にどうにかしてくれるのかも。少しくらい、希望は持ちたいね」

 彩夏が代弁してくれた事に勇気付けられ、那美は大きく頷いた。

 元より、一方的にやられ続けていた。そして、どんな刺客が来ても耐えてきた。

 今のところ、従業員の命もネコの命も、全て守り抜いて来ている。

 今さら、敵にオペコットスーツの男一人が現れた所で、負けるつもりも、狼狽うろたえるつもりもなかった。

「さ、那美ちゃん。入り口を開けて来て。開店しましょ」




 入り口の鍵を開けるや、一人の男が足早に入店してきた。

 ――客では無い。

 彩夏は、即座に直感した。

 刺客かどうかを一目で気付けなければ、従業員とネコ達を守れない。

 蓮池彩夏の感性は、今や、多くの“出入り”を経験した暴力団員やベテラン傭兵にすら匹敵する鋭利さと豪胆さを得ていた。

 元々、修羅場を渡り歩く才能があったのかもしれない。……もっとも、腕力の面では、か細いインドア派の女でしかないのだが。

 ともあれ、入店してきた男を観察しなければならない。

 男は若い。なおかつ、受付へと歩いてゆく振る舞いには社会馴れした気配を纏っている。二十代半ば~後半と言った所か。

 弱い癖のついた髪を、暗い茶色に染めている。

 服装も、特筆すべき所は無い。チェック柄のシャツとチノパンと言う出で立ちで、アクセサリーなどは着けていない。

 だが、表情はやや暗い。

 そう思わせる理由は、痩せぎみの頬と虚ろな目つきのせいだろうか。

 近年の暴力団員は、地味な外見の者が多い事を彩夏は思い知らされていた。

 一応、男一人の来客もそう珍しくは無い。

 確かに来客数の割合としては、女性客・カップル・親子連れが圧倒的だ。

 しかし、男性客の常連はコアなネコ好きが多い。

 ライトな客もコアな客も。彩夏店主は、この三年の経営で数多くのネコ好きを見てきた。

 だから、その客がネコとの触れ合いに癒しを求めているか否かは、彩夏には一目でわかる。

 ――この男は、きっと違う。

 受付の那美が、男に対応する。

 彼女も店主と同じ予感を抱いたのか、普段客に向けているそれよりも、表情がかたい。

「まず、貴重品をロッカーに入れてください。次に、専用のスリッパに履きかえてください。その後、あちらの洗面台で手を消毒して、ネコちゃんルームにお入りください。

 一〇時二五分の入室となりますので、一一時二五分までご利用できます。一時間の延長ごとに五〇〇円の追加料金がありますので、ご了承ください」

 男は、ボソボソとした声で応じると、一応は那美の言う通りに動く。

「あっ。貴重品を入れたら、そちらの係りの者に施錠を確認してください」

 那美が、あたかも今思い出したかのように付け足した。以前、ロッカーの鍵が壊れていて、貴重品が紛失したというクレームがあった為だ。

 その時の“客”は「裁判だ、裁判だ」と聞こえよがしに喚き立てていた。予防線は入念に張っておかねばならない。

 男は素直に応じると、何の感情も浮かべずにネコ部屋へ入る。ネコカフェよりも、病院の待合室が相応しい面差しだった。

 控え室からネコ部屋へとネコ達を誘導し終えた彩夏は、来客に対して涼やかに挨拶をしてから、窓越しに受付のスタッフへ目配せをした。

 本日の人員は、彩夏を含めて三人。ネコ部屋から片時も見張りを欠かさないようにスケジュールを運ばなければ。

 ネコ部屋に放たれた八匹のネコ達は、思い思いの場所で思い思いの動きを見せていた。

 民家のダイニングを思わせる広間。中央にはキャットタワーが聳えている。大きなガラス張りの窓があり、そこから受付や外の様子を窺える。

 北側の大窓からは朝の街並みを一望できる。

 濃淡様々な水色の雑ざり合う快晴の空。

 整然と並んだ木々の新緑。

 舗装されて日の浅い、アスファルトのダークグレー。

 陽光を反射して、乳白色に輝く家々。

 朝が持つ、光と色の微妙な調和は、どこまでも目に優しい。

 勿論、この場所は夜景も好評だ。

 丘の上の閑静な住宅街という立地だからこその景観と言える。

 男は、ソファに座ったきり、ネコに構う様子がない。外の景色に頓着しているわけでも無いようだ。俯き加減に座しており、長めの前髪を垂らしている。

 そして。

 彩夏の顔に、思わず緊張が走った。

 黒猫が一匹、男の足元に擦り寄ってきたからだ。

 一口に黒猫と言っても、黒一色の被毛を持つものは、意外と少ない。遠目では黒一色に見えても、薄らシマ模様の入った黒トラや、光の加減によって赤みがかった毛並みのものも居る。

 だが、今、男に寄ってきたのは、頭から爪先まで黒単色のネコだった。

 彩夏は彼女に“ひすい”と名付けていた。目が、翡翠のようにくっきりとした緑色だからだ。

 “こはく”では唯一血統書を持たない雑種ミックス。典型的な和猫の、丸い顔立ちをしている。

 絹のように艶やかな細毛。

 覚めるような新緑の目が、闇色の毛並みによく映える。

 そして何より、初めての客であっても分け隔てなくなついてくれるので、自然と情が移る。

 それ故に。

 ――お願い、ひすい。その男から離れて。

 “こはく”の女達は、内心で念じる。

 誰にでも懐くひすいは、当然、南郷組の刺客に対しても例外ではない。

 ――その男から逃げて。

 だが、人間の思考が、ネコに届くはずも無く。いや、人間の心を読んだ上であま邪鬼じゃくに振る舞っているかのように。ひすいは、すっかり男の脛に執心している。頬を擦り付け、強固に所有権を主張している。

 それでも男は、ひすいを一顧だにしない。

 ネコカフェに来ておきながら、ネコの存在を無視する。かと言ってドリンクに手を付けるわけでもない。

 この店のフードは、彩夏の手料理であり、下手な飲食店よりも味に定評がある。ネコそっちのけで食べにくる客も、居るには居る。

 だが、この男と言えば、食べ物を注文をする気配も無かった。もはや客では無い事は火を見るより明らかだった。

 そして、男が動いた。

「クソが……っぞ」

 ほとんど聞き取れないかすれ声でそう毒づく。

 そして、おもむろに何かを取り出した。

 不審者に組み付かれた時ですら変わらなかった彩夏店主の顔が、わずかに強張った。

「っ……!」

 従業員達の変化は、更に顕著だった。

 男が取り出したのは、濁った銀色のナイフだ。果物を切る、ちょっとした程度のものであるらしい。掌に収まりそうな程小さく、薄い。

 ――刃渡り六センチは……多分無いか。

 既に冷静な表情を取り戻した彩夏が、メガネの奥から刃渡りを目算していた。

 所詮は果物ナイフ……と言えど、人やネコを殺傷する分には充分過ぎる凶器だ。

 逆手に持った刃物を垂直に構えている。その直下では、罪の無い黒猫が、喉を鳴らして男の脛に居座っている。

 まさか、こんな直接的な手に出るとは。

 これまで、南郷組は、腐っても直接的に手をあげる真似はしなかった。

 彩夏も従業員達も、一度として屈服しなかった。そのせいで、いよいよ痺れを切らしたのだろうか。

 彩夏は、自分が刺される危険を忘れているのか、大股で踏み出した。

「彩夏さん!?」

 従業員の悲痛な叫びにも、頓着を見せず、

「お客様。恐れ入りますが」

 日頃、従業員達に向けているものと同じ、柔らかで落ち着いた声をかけた。

「ネコちゃんルームへの、刃物の持ち込みはご遠慮下さい」

 まさか、店主は、男の注意を自分へ引き付ける気か。

 従業員は、本当なら自分が飛び込んででも彼女を庇いたかったが……なまじそうすれば、当の彩夏が刺されかねない。ジレンマだ。動くに動けない。

 当の男は、ちらりと彩夏を見たが、

「……だ」

 ボソボソと呟いたと思うと、もう一つの手で、別の何を取り出した。

 それは、リンゴだ。

 丸々ひとつのリンゴを手に取ると、目線の高さに上げる。

 そして、

 逆手に持ったナイフを思いきりリンゴに突き刺した。何度も何度も、親の仇を刺すかのように。

 刃が果肉から抜ける度、果汁の粒が飛び散る。

 従業員達は息を飲んで後ずさり、

 ひすいは、少しだけ迷惑そうに首を巡らせ、

 そして彩夏は、動じた風も無く、男をただ静かに見据えたままだった。

 張り詰めていた細い肩が、ゆっくりと降りた。

 既に、この陰気そうな男から脅威を感じなくなったからだ。

 ――いつもの南郷組のやり方だったか。

 男は単に、自分の持ち物であるリンゴを滅多刺しにしているだけだから、傷害はおろか、器物損壊を訴えられる謂れもない。

 一方で、ぶつぶつ毒づきながら果物を滅多刺しにする姿は、他人の恐怖を煽るには充分な行為でもある。

 そのナイフの切っ先が、いつ自分やネコ達に向けられるか。それは、かの男にしかわからない。一〇〇パーセント刀傷沙汰の心配は無いと知っているのは、ナイフを持つ本人だけだ。

 法に触れず(触れたとしても言い逃れできる逃げ道を用意しつつ)彩夏達や同席した客に恐怖心を植え付けようとする。南郷組ならではの陰湿な手口だった。

 ――さて。

 完全にフラットな心を取り戻した彩夏は、哀れな実験動物を見通すような、冷たく透明な目つきになった。


 ――この男は一つミスを犯している。


 これまで法律の穴を潜り抜けて“こはく”に損害を与えてきた南郷組だったが、ついにボロを出したのかもしれない。そのボロを追求すれば、少なくともこの男を法的に糾弾する事は可能だろう。

それを宣言しようと、彩夏は息を吸って――。

 からん、からんと、入り口のドアが開いた。

 次の来客があったようだ。

 彩夏は、一応、ナイフ男から充分な距離をあけつつ、横目でフロントを見た。

 ……。

「……、……那美ちゃん。お客様の対応をして来て」

 固唾をのんで見守っていた那美が、びくりと肩を震わせた。こんな危ない奴から目を離して接客をしろ、だなんて。

 いや、客の対応をしろという事は、この部屋に通せという事であって……。

「お願い」

 毅然とした、彩夏店主の声。

 そして那美は、遅ればせながら、彩夏の視線を追ってフロントを見た。

「……、……、…………わかりました。普通に、お通ししますよ?」

 かなりの“溜め”を経て、那美が重い口を開いた。

「そうして」

 対する彩夏の答えは、淡白すぎる程だった。

「余計な予防線は張らなくていいから、速やかに通してあげて」

 そうも付け加えた。

 彩夏店主とは、色んな意味で運命共同体と言っても良い那美は、これ以上の疑問を差し挟まず。ただただ、彼女を信じるしかなかった。


 ほどなくして、次の客がネコルームに入ってきた。

 またも、男一人だった。先のナイフ男と同じで、若い。

 綺麗に切り揃えた黒髪に、ふっくらとした輪郭。服装も濃い緑色のパーカーに、ほつれ一つないジーンズ。素朴な外見という意味では、今もリンゴを滅多刺しにしているあの男と差は無い。

 ただ、口許に朝食の食べカスを付けたままだったり、服のあちこちにシミを付けていたり……やや不潔な印象は拭えない。服の色が濃い為に、遠目では目立たないのだが。

 だが少なくとも、ナイフを持つような男よりこちらの方が良心的な顔立ちはしていた。

 そして彼は、何度か“こはく”に来店している。常連とまでは言わなくとも、一見の客でも無かった。

 接客業として、細かな事で邪険にする余地は無い。

「……いらっしゃいませ、望田もちだ様」

 従順な侍女のように、彩夏店主は望田というその客を迎え入れた。

 一方の望田は、入室したその瞬間から面差しを凍りつかせた。

「な、な……」

 その真面目そうな目つきは、一心不乱にリンゴを刺す男に釘付けとなっていた。

 そして、

「ぁ……?」

 それまで、ネコに対しても彩夏達に対しても無関心そのものであったナイフ男が、望田を認めるや露骨に睨みを利かせた。

「……ンか文句あんのかよ」

 相変わらずボソボソとした小声だが、腹の底から憎しみを捻り出したかのようなドスを、声音に含ませていた。

 同時に、嫌な気配を感じたのか、ひすいが掌を返したようにナイフ男から離れ、部屋の隅へと逃げ去った。

 その様子に、彩夏店主は若干の安堵を見せた。

「何とか言えよコラ」

 安っぽいチンピラそのものの口上で、ナイフ男は望田に絡み出した。従業員達は、オロオロと成り行きを見守るしか出来ない。

 ただ彩夏だけが、冷然と立っていた。

「な、な……そんな、僕はただ、お客としてきただけ、で」

「客ぅ? オレもそうだっての。金払ってここに居んだよクソが」

「いや、別に、僕は、そんな、ケンカ売るつもりとか、ないし」

 ナイフ男が、ひときわ強く、リンゴを串刺しにした。

「ケンカ売るとかって言葉が出る時点で、何か腹に持ってんじゃねえの? あァ?」

 ナイフの刃を舐めて凄む様は、ほとんど漫画やドラマの登場人物を演じているようですらあった。

「大体さぁ、オレ、お前みたいなきたねー身なりの奴が嫌いなわけ。朝飯はカレーか? あちこちに食いカスつけやがって」

「か、か、関係ないよ!」

 彩夏店主は、二人のやり取りをただ、黙って見守るのみ。

 口を挟む事はないが……どこか、二人の客を観察しているようでもある。

「オレ、綺麗好きなんだよねー。汚いモノを見ると、例外なく消毒したくなっちゃって、さ!」

 今や蜜でベトベトになったリンゴを、男はこれ見よがしに深々と刺し貫く。消毒、というワードの言外に含んでいる意味は、察するまでもないだろう。

「どういう事なんだ店長! 警察呼んでくれよ!」

 水を向けられた彩夏店主は、望田に、冷静そのものの目を向けた。

 メガネの奥から、切れ長だけど鋭すぎもしない、理想的な形の目が向けられた。

 その瞳は、闇そのもののように黒い。

 日本人の目の虹彩はこげ茶色が大半だが……この女店主の瞳は、茶色の色素が少ないのかもしれない。

 それが望田の焦燥を、更にかきたてたのかもしれなかった。

「ナイフ持ってる人にこんな事言われて、ゆっくり居られないよ!」

「恐れ入りますが」

 彩夏が、綺麗にカットされた宝石のような――滑らかで、淀みなく、そして冷たい――声で告げる。

「当店に御不満がありましたら、お引き取り下さい。代金は返却致します」

 そう、ナイフ男に怯える客に対して、言い放ったのだ。

「バカな! 僕はただ、ネコと遊びたくて来ただけだぞ! なのにどうして、こんな」

 そう言いかけて、男は出そうとした言葉を飲み込む。

 一度息を整え、最前言おうとした言葉のかわりに、

「そいつは犯罪者だ! 理由も無く刃物を持っている奴は、銃刀法でしょっ引かれる!」

 望田は、法に明るい業種の人間だ。かなり言葉は崩しているが、その指摘は微塵も誤っていない。

「ええ、それは当店としても存じております。

 しかし見た所、彼の持っているナイフ……刃渡りが六センチより短いようですね。銃刀法の第二十二条には抵触しないはずです」

 対する彩夏店主も、淡々と返すが、

「軽犯罪法第一条二号! 正当な理由なしに刃物、鉄棒、その他、とにかく凶器になりそうなモンを持ち歩く奴は、しょっ引かれる! そいつを家からこの店まで隠し持ってた時点で、この男の罪は明らかだ!」

 ナイフ男を逆上させてしまう気遣いは無いのだろうか。望田は、興奮もあらわに、しかしナイフ男を社会的に抹殺せんと弁舌を荒げた。

 が。

 銃刀法に触れずとも、軽犯罪法には触れる。

 ナイフ男が犯した、明らかなミス。

 そんな事、彩夏店主にはとっくにわかっている事だった。

「いいえ、彼がナイフを持つのは“業務”の範疇です」

 彩夏店主は、なおも切り返した。

「リンゴ……リンゴを、滅多刺しにする事がか!? そんな業務があるもんか!」

「いいえ、彼がリンゴを刺すのは業務なのです。

 私が――ネコカフェ“こはく”が、フルーツカットの実演を“希望”しておりまして。彼はその希望に沿って下さったのです」

 望田は、信じられない、と言った面持ちで足元をもつれさせた。

 仮にも一見では無い客の自分を差し置いて、子供の屁理屈のような物言いでナイフ男の方を弁護するなどと。

「彼のフルーツカット実演は当店の総意です。承服できないのであれば、ご退出を。

 望田様であれば、当然“契約自由の原則”はご存知ですよね?」

 客は店を選ぶ自由がある。

 店は客を選ぶ自由がある。

 望田は、今や額に脂汗が滲むほどに狼狽していた。

 どうする? ここで引き下がるのは、非常に嫌だ。

 だが。

 フルーツカットの実演、と店主のお墨付きを与えられたナイフ持ちが、自分を襲わない可能性は?

 ……ゼロでは無い。

 望田の命は、一つしかないのだ。

 例え〇・〇〇〇〇一パーセントの確率であろうと、この白い首筋に刃物を突き立てられる可能性があるのなら。望田のただ一つしかない人生は、そこで途切れてしまうのだ。

 得体の知れない人間が刃物を手にしていて、死の可能性を完全に否定できるほど、望田は他人を信じてはいない。

「……金は返してもらえるんだろうな?」

 望田は、自分の腸をねじ切らんばかりの憎悪を込めて吐き捨てた。

「はい。望田様は、当店に支払った二五〇〇円の対価を受け取っておりませんから」

 聖母のように柔和な笑みを浮かべ、彩夏店主はそう言った。

 かくして、刃物を持ちこんだ男がそこに残った。そして、善良な筈の客が、店主によって追い落とされた。




 ナイフ男は、先程とは打って変わり大人しくしていた。

 それどころか、再び足元にすり寄って来たひすいの顎を、丁寧に撫でさすっていた。

 他のネコ達――アメリカンショートヘアやソマリ、ペルシャ、メインクーン、マンチカン等々――は、遠巻きにその様子を観察しているか、そもそも寝ているかだ。

「まあ、あいつは、組の中では雑魚だと思うよ」

 側に立つ彩夏には目も向けず、ひすいとの逢瀬を堪能しながら陰気そう“だった”男は言った。

「多分、僕を用心棒的なアレだと思い込んで、南郷の事務所に駆け込んだと思うよ。

 今後は、もう少し賢かったりやばかったりするのを仕向けて来るかもね。ナイフをちらつかせただけじゃ、逃げないような奴らをね」

 最前までのチンピラじみた口調はどこへやら、柔らかな声音でそんな事を言った。

「本当にありがとうございました」

 そんなナイフ男に、彩夏は深々と頭を垂れた。長い黒髪が、持ち主の挙動につられて、さらりと流れる。

「僕は別に何もしてないよ? フルーツカットを実演していただけだからね」

 ナイフ男は、満足そうな微笑を返すだけだ。

「しかし、僕のあの態度を“フルーツカット”と言ってのける、あなたも凄いよ――っと、今のは失言かな?」

「いいえ、今のは良く聞こえませんでしたから」

 望田は、一見の客では無い。何度か“こはく”に訪れている。

 ちゃんと、一時間を滞在する為の代金・二五〇〇円は支払っていた。

 店の物を壊す事も無いし、従業員やネコに直接危害を加えたわけでも無い。声を荒げて恫喝するような事もしない。

 ただ。

 望田の近くに寄ったひすいが、一度、不調を起こして倒れた事があった。

 横倒しになって微動だにせず、嘔吐まで始めた黒猫の容体。

 彩夏は、従業員達に留守を託すと、一目散に動物病院へと駆け込んだ。

 診断の結果は、俗にいうタマネギ中毒。

 タマネギのみならず、長ネギやニンニクに含まれるアリルプロピルジスルファイドは、イヌやネコにとっては毒物だ。その成分が赤血球をダメにする事で、溶血性貧血を引き起こすためだ。

 最悪の場合、血中のカリウム濃度が必要以上に上がり、死に至る。

 当然、そんなネコにとって剣呑な物を“こはく”のネコちゃんルームに置くわけがない。

 となれば、外部から持ち出されたという事だ。

 が、玉ねぎの塊を堂々と持ちこむような客は、勿論有り得ない。

 ただ、こういう事実は存在する。

 望田は、身なりの清潔さに無頓着な男だった。

 口許は常に、直前の食事でついた食べカスがあったように――。

 零れ落ちた食べカスは、服にも付着していた。

 大袈裟な程に大きなハンバーグの“欠片”がこびりついていたとしても、不思議に思われる事は無い。

 彩夏はともかく、那美たちのように、警戒心が築かれている優秀なスタッフでも見逃しかねない程に。

 ……犬猫のタマネギ中毒に関しては、個体差による所が大きい為、致死量の定説は無い。だから、ハンバーグに含まれる刻みタマネギ程度の量で、致命的な症状を引き起こす個体も居るはずだ。

 まして、服の食べカスに頓着しない男が、ポケットに“たまたま迷い込んだカレーの具材”を省みるとも、考えにくいだろう。

 “真実”はこの際問題では無い。現実に残るのは、“事実”だけだ。

 善良な客が“たまたま”ネコに食べカスを食わせてしまった事も、善良な客とフルーツカットの男が“たまたま”同席してしまった事も。

 どちらも、事実なのだから。

「ま、あいつの仲間が来ようが来なかろうが、僕には関係ない事かな。何せ、一時間経ったからね。帰らなきゃ」

 そうだ。この男との契約は、一時間きり。

 彼が延長を希望しない限り、これでお別れとなる。

「ご利用、ありがとうございました」

 彩夏店主は、もう一度――今度はビジネスライクに――お辞儀をした。

「僕のせいで、奴ら、ますます私怨をつのらせるかもしれないよ?」

 “ナイフ男”にも、その自覚はあったらしい。

 これまで、反撃らしい反撃をしてこなかったネコカフェ“こはく”の一同であったが、彼の行動は店ぐるみのものと受け取られても無理はないだろう。

 そうすれば、南郷組の報復がますます苛烈を極める事は想像に難くないが。

「私には、心強い味方が居ますから」

 この店を見捨てず、共に働き、戦い続けてくれた従業員達。

 彼女らとの絆は、普通の雇用者・被雇用者では有り得ないほどの強さを持つ。

 それに。

 ヒーローは、変身前の正体を人に明かすわけにはいかない。

 少女の頃、そのルールを知った蓮池彩夏は、物言わず去りゆく男の背中を、ただの客として見送った。




【次回予告】

 真面目に経営しているだけのネコカフェを、狡猾な手口で追い詰めようとするヤクザ者ども。

 イエネコの愛らしい姿も、彼らの心には響かないのだろうか。


 “タマネギ使い”の敗走を知った悪の組織は、一考の末に次なる刺客を差し向ける。

 “こはく”を襲う新たな悪党に対し、サイコブラックは“改造人間”の行使を決心する――!


 次回・第003話「ネゴシエーター」


 ……悪党は(手を汚さずに)排除する。

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