第32話 教会

 ――次の日、僕は祝い町の片隅にある教会の前に立っていた。

「・・・」

 外にはやはり、「イエスは人類の罪を背負って死んだ」「人の罪の罰は死」「神の裁きは必ず訪れる」などと、過激な聖書の言葉が、様々な色のペンキで乱暴に殴り書きされた看板が道路から見えるように乱立している。

 普通の人間なら絶対に近づきたくない雰囲気だ。僕は怯んだ。

「ここに彼女が・・」

 しかし、僕の頭の中には昨日の可憐で光り輝く笑顔があった。

「よしっ」

 もしかしたらまた彼女に会えるかもしれない。僕は一人、痺れるような興奮と恍惚を感じていた。僕は、意を決して教会の敷地内に入って行った。

「・・・」

 入ってすぐの脇にバカでかい線路の枕木のような角材で作られた古ぼけた十字架が立っていた。

 僕は再び怯んだ。しかし、再び昨日の彼女の笑顔を思い出し、もう一度意を決して、教会の建物の前まで来るとその観音開きの木製扉を開けた。

「こらぁ、お前また酒飲んだだろう」

「わっ、ごめんなさい」

 開けたとたんに奥からものすごい女性の怒鳴り声が響いた。僕は反射的になんか謝ってしまった。

「・・・」

 そして、とっさに閉めてしまった扉を僕は黙って見つめた。

「な、なんだったんだろうか・・」

 再び静けさが辺りを覆う。僕はかなりビビっていた。やはり、普通の人が近づいてはいけない場所なのか。

「・・・」

 このまま帰ろうか、僕は真剣に悩んだ。

「どうしよう・・」

 しかし、僕は三度彼女の笑顔を思い出し、少し落ち着いてから、恐る恐る、再び扉を少し開け、その間から顔を覗かせ教会内部を見渡した。

「・・・」

 そこには誰もいなかった。さっきの声はどうやら僕に怒鳴られたものではないようだった。

「・・・」

 僕は体半分を中に入れ、首をグルグルと回しながら、もう一度、教会の中を注意深く見回した。そこは外の喧騒とは打って変わって落ち着きがあり、とても静かだった。古くこじんまりとはしているがきれいに片付き、中央に形よく整然と長椅子が並べられ、上の壁にはめ込まれたステンドグラスからうっすらとした淡いカラフルな光が白い壁に差し込んでいた。前方に小さな祭壇に置かれた十字架にはり付けにされたイエス様の像が見える。

 僕は足を踏み入れ、ゆっくりと中に入って行った。教会に入るのは初めてで、どこか独特の空気感を感じて、なんだか少しビビった。

「・・・」

 中は閑散としており、人の気配はなかった。

「さっき、声がしたんだけどなぁ・・」

 僕は不思議に思いながら奥の方を見た。そこにも人の気配はなかった。

「どうしたものか」

 声をかけようか僕は迷った。しかし、さっきの怒鳴り声が気になり躊躇した。それにここに来た目的が、あまりに不純だ。それをどう言い訳するか、頭の中でまったくまとまっていなかった。

「何か御用ですか」

「わっ」

 更に中に入ろうとしているところに、すぐ背後で声がした。振り返ると僕のすぐ右後ろに誰かが立っていた。

「あ、ああ」

 あのテント広場で見かけたあの少女だった。あの丸いふわふわとした白い顔がそこにあった。

「あ、ああ」

 僕は言葉が出て来ず、上ずったうめき声だけが漏れた。まさかこんなすぐに会えるなんて、しかも目の前に。そんなこと考えもしていなかったので、一瞬で頭が真っ白になってしまった。そんな僕を彼女が不思議そうに、そのかわいらしい無垢で黒目がちな瞳で見つめる。

「・・・」

 目の前で見る彼女は更にかわいかった。感動的にかわいかった。かわい過ぎて僕の意識は、そのかわいさに耐えられずオーバーヒートして、ぶっ飛んでしまいそうだった。というかぶっ飛んでしまっていた。 

 その時、少女はにっこりと微笑んだ。

「あ、ああ」

 それを見た瞬間。僕の心は、熱にさらされた無力なバターのように、無抵抗にとろけていった。その微笑みは仏様の後光のような柔らかい温かさを放ちながら、四方に輝いていた。今まで感じたことのない何とも言えない温かく清らかな感覚が僕の全身を上から下まで包み込むように染み渡っていった。

 彼女はやさしく微笑んだまま、僕を見つめている。

「驚かせてしまってごめんなさい」

 彼女は小さく上目遣いに、本当にもう訳なさそうに謝った。その目の奥は純真そのものだった。

「い、いや・・」

 僕はそれだけをいうのが精一杯だった。

「何か御用ですか」

 少女がもう一度言い、少し首を傾げた。

「・・・」

 僕は感動と緊張で体と心が痺れていた。口も頭もまったく動かない。少女はその無垢な瞳で、そんな僕の心の奥を突き抜けるように見続けている。

「いや、あの・・」

 君に会いに来たとは言えるはずもない。

「ここは教会ですよね」

 僕は、思いっきり分かり切ったことを訊いてしまった。

「そうですよ」

 少女は、更に首を傾げ、不思議そうな表情で僕を見つめる。

「・・・」

 次の言葉が出てこない。何とも言えない間が、流れた。

「あっ、お祈りをなさりたいのね」

「えっ」

 その時、少女がふいに顔を輝かせて言った。

「どうぞ」

 少女は教会の中に僕を招くように入って行った。

「・・・」

 僕はなんだかよく分からないまま、そんな彼女にふわふわと足元もさだまらないままついて行った。

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