第9話 蟻地獄

「ふああ~あ」

 床と壁のある快適な朝を迎えた次の日、僕は久々にぐっすり眠れた感じがした。

「壁と床があるってなんて素晴らしいんだ」

 僕は床と壁のありがたさを実感した。普段意識すらしない当たり前にある物たちがどれほど自分を守ってくれているかを、恥ずかしくなるくらい実感した。

「ああ~ああ」

 僕はテントの外に出て、思いっきり伸びをし、朝の心地良い太陽の光を思いっきり浴びた。

 よく考えると、家賃はタダだし、食費も贅沢を言わなければタダ。光熱費もタダ。ということは、働かなくてもいい。毎日寝ていられる。

「結構いい生活なのではないか」

 僕は思った。

「い、いや。ダメだ」

 ここの生活にはまったら抜け出せなくなってしまう。僕は即座に考え直し首を横に思いっきり振った。

「僕はここから抜け出すんだ」

 ここから抜け出して、まっとうな生活をするんだ。

「絶対抜け出すんだ」

 自分に言い聞かせるように、僕は力強く言った。

「出られんよ」

「うをっ」

 いつの間にか、一人気合を入れてる僕の前に、黄ばんだ白髪が伸び放題に伸びた、薄気味悪いじいさんが立っていた。僕は滅茶苦茶びっくりした。

「出られんよ」

「えっ?」

「ここは蟻地獄だ」

「えっ?」

「ここは蟻地獄だ。一度入ったら出られん」

 そう言って、じいさんはキッキッキッと不気味な笑い声を上げ、その白濁した目で僕を見た。

「・・・」

 僕は、突然のことに訳も分からず呆然とその不気味なじいさんを見つめた。

「今まで何度もここから出ようとして、失敗した人間たちをわしは山ほど見て来た」

 そう言って、また不気味な笑みをニタニタと口元に浮かべた。

「僕は違います」

「同じじゃよ」

「違う」

「同じじゃ。みんなそう言って、いつの間にかこの町の一部になって行く」

 じいさんは完全に勝ち誇ったように薄ら笑いを浮かべ僕を見た。

「うううっ」

 なんてむかつくじじいだ。

「ホームレスは三日やったらやめられないってな」

 じいさんは、ニタニタと最高にむかつく薄ら笑いを浮かべ、最後にそんな捨て台詞を残し去って行った。

「くっそう。なんて不吉なことを」

 しかし、じいさんの言っていることもなんだか真実味があるような気もしていた。だからこそ言い返せなかったし、余計腹が立った。

「絶対、ここから出る」

 僕は一刻も早くここから出るぞと、決意を新たに固く誓った。


「出るためには・・」

 僕は一人その場で黙考した。

「仕事だ」

 僕は当たり前のことに気付いた。

「家も食料もなんとかなった。そうだ。仕事だ。仕事をして、お金を稼いで、そして・・、アパートを借りて、俺はここから抜け出すんだ」

「うをぉぉぉ、なんか燃えてきたぞぉ」

 僕は一人燃えた。

 僕は早速、商店街に行き、無料のバイト情報誌を手に取った。

「選ばなければ何かあるはずだ」

 僕は食い入るようにバイト情報誌のページをめくった。

「あった」

 日払い、未経験、学歴不問、即日勤務。

「これだ」

 僕はそれが書かれている場所を何度も何度も食い入るように読み返した。

「よしっ」 

 全てが完璧だ。履歴書は、情報誌についている。僕は、ここから脱し、また元の生活をしている自分を、恍惚と夢想していた。

「あっ」

 テントに帰り、情報誌に付いていた履歴書を慎重にきれいに引きはがし、さあ書こうと思ったその時、僕は愕然とした。

「ボールペンが無い・・」

「うをおぉ~、っていうか、俺にはボールペン以上に住所がない」

 僕は履歴書そのものが書けないことに気付いた。僕は頭を抱えその場に膝をついた。

「俺は・・、履歴書すらも書けないのか・・」

 僕は今まで満ちに満ちていたやる気が、冷たく全身から一瞬で潮が引くみたいに脱力していくのを感じた。

「それによく考えたら、面接に行く電車賃が無い・・」

 さっきのじいさんのニヤニヤとした笑い顔が浮かんだ。

「というかそれ以前に、電話代がない・・」

「うううぅぅ」

 僕は現実の厳しさに打ちのめされた。

「俺には・・、何も・・、無い・・」 


 気づけば、炊き出しのうどんを僕は一人啜っていた。

「僕はこのままこの町の一部になって行くのだろうか」

 日に焼けたおっちゃんたちに混ざって、僕は明日の無い絶望感を真剣に感じていた。

「どうした。浮かない顔して」

 インテリさんだった。

「いえ・・」

「どうしたんだよ」

 僕の浮かない顔に、インテリさんはさらに僕の顔を覗き込む。

「仕事探そうと思ったんですが・・」

「仕事なんかしなくていいんじゃないか」

 インテリさんは気軽に言った。

「えっ」

「食うに困るわけじゃなし」

「でも・・」

「のんびり生きたらしたらいいじゃない。好きなことしてさ」

「でも・・」

「俺は一日中寝っ転がって本読んでいられたらそれで幸せだけどな」

「いやぁ、でも・・」

 僕は首を大きく傾げた。

「何か君にはやらなきゃいけないことがあるのかい」

「いえ・・、特には」

「何かやりたいこととか、夢とか」

「いえ・・」

「君は深刻に物事を考え過ぎなんだ」

「そうでしょうか。当たり前のことを当たり前にしようと思っているだけだと思うのですが・・」

「その当たり前を疑ったことはないのか」

「・・・」

 僕にはインテリさんの言っている意味が分からなかった。

「人と違う生き方をするっていうのは、別に悪いことじゃないぜ」

「はあ」

 インテリさんもこの町の一部になってしまった人なのだろうか。

「まあ、まあ、仕事なんかのんびり探せばいいじゃないか」

 インテリさんは僕の肩をやさしく叩いた。

「はあ・・」

 この甘いささやきに引き込まれて、みんなこの町から抜け出せなくなっていくのだろうか。

「ホームレスも三日やったらやめられないってな。ははははっ」

 あの爺さんと全く同じことを豪快に言って、インテリさんは笑った。

「・・・」

「いつの間にかこの町の一部になって行くんだ」あのじいさんの言葉が僕の頭の中にエンドレスでリフレインしていた。

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