第5話

 (あっ。来た――…)


 砂防林を歩いてくる人影が、離れていても判る。

 なんとなくだけど… いつものように無視をしていた方が良いように思えて、背中を向ける。気付かないフリをした。


 「ナナコ」


 茉莉の、もうひとつの名前を呼ばれる。新しい名前にも慣れた。別の人間になれるようで、適当に付けた名前でも、それなりに気に入っている。

 いつもと変わらず、無表情で振り返る。


 「今日は、いるんだ」

 「なによ。いたらいけない? オジサンの所有地じゃないでしょ?」

 「…相変わらず、可愛くねーな」


 久住の苦い表情に、何故だか胸がチクンとする。どうしてか、久住にはいつも余計なことを言ってしまう。相手を攻撃するように強く言ってから気付いて、『しまった…』と後悔するのだ。


 「スイマセンね。元から可愛くないもんで」


 確か、昨夜は少しソワソワしていた。今のこの時間を、楽しみにしているような、不思議な気持ちだった。それなのに、この空気…。

 今、背中を向けたら、久住はきっと戻ってしまう。そうしたら、また1人になるのか。――でも、気持ちとは別の動きをしてしまう。


 背中を向けられるくらいなら、こっちから向ける方がいい。

 クルリと向きを変え、海に身体を向けて壁に座りなおす。


 (――結局、これが一番私らしいか)


 ふうっと息を吐いて、気持ちを落ち着かせる。昨夜から、どうもいつもとは違う心持ちでいたせいか、少し疲れた。

 慣れないことはするものじゃない。


 しかし。


 「なぁ。ナナコ」


 再び声が聞こえて、茉莉は驚いた。呆れて戻ってしまったと思っていたのに、まだ声を掛けてくるなんて。自分らしくない繊細な感情が起こされそうになり、一瞬息を詰め押しとめる。


 「んー? まだ用あるの?」


 何でもない風を装い、倍増しなくらいに冷たく素っ気ない声で返した。肩を少し傾け、久住を見おろす。

 彼の表情は、まだ苦いまま。だけど、それ以上に怒っているような雰囲気も漂っている。


 久住が茉莉を呼んだ理由とは―――。


 「ヤらしてよ」


 突然の、予想さえしない言葉を向けられて、茉莉は凍り付いた。言葉の意味もそうだが、それ以上に久住が別人のように感じる。

 週に何回かここで会うだけの、ほんの数分だけ言葉を交わすだけの関係。それだけでも、いつもとはどことなく違うと解かるものだ。


 (なに? 何を言ってるの…?)


 彼が言った言葉を頭の中で繰り返して、ようやく解りかけた。彼は畳みかけるように続ける。


 「ああ。やっぱ金取るのかな? 幾らか出すから、ヤらせろよ」


 黙っている茉莉を、怠そうに見上げる。

 この生意気なガキのことだ。どうせ、何万か要求してくるのだろう。実際に未成年を買ったことなど無いが、ネットや雑誌で知る限りの情報では、3万とか5万とか? この際、それくらい払ってやろうとさえ思っていた。


 ――イライラする。無性に苛立って仕方がないのだ。

 久住は、家庭を持つ男だった。家庭内の問題で、怒りと諦めと悲しみのような感情がゴチャ混ぜになる。もう1年以上、この感情を抱えている。35歳なのに、目立つ白髪は心労のせいだと、自分でも言い切れる。

 とにかく、何でもいい。破壊したい衝動に駆られていた。


 「……いいよ」


 頭の上から、溜めた言葉が短く返ってくる。


 やっぱり、今の高校生は性が乱れているのか。“いかにも”な雰囲気の子ならまだしも、茉莉はその辺にいる普通の子に見えるのだが。

 確率的でいえば、断られる方が多いとは思っていた。本当に頷かれると躊躇いも出てきて…。だがしかし、実際に買ったらどうなるのかという好奇心はあった。


 (…さすがにマズイよな)


 喉まで『冗談だ』と出かかったのに、鞄を手に立ち上がった茉莉を見上げた途端に飲み込んだ。


 「ちょっと待ってて。そっちに行くから」


 プリーツのスカートを軽く叩くと、左方向に走り出し、やがて姿を消した。

 久住は、きっと“ナナコ”はそのまま逃げると思っていた。下手をすれば、警察に通報されるだろうか。

『痴漢がいるんです』って。それで任意同行されたとしても、“壊す”のが自分ならまだいい。


 それなのに――…


 「お待たせ」


 息を上げた女子高生が、自分に向かって走ってくる。

 砂に足を取られ疲れたのだろう。息を整えながら、久住を見上げてくる彼女を真っすぐに見る。


 初めて、目の前にするナナコ。


 (…こんなに、小さかったのか)


 思ったよりも小柄で華奢な少女を前に、久住は揺らいだ。

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