2章

 恋愛なんて縁が無い俺だが、女性を見てときめかないことがないわけではない。美しさの中に芯の強さがある女性と出会うと心が躍る。それがいわゆる好きなタイプってやつなのかもしれない。だからといって、そんな女性に出会っても何をするわけでもない。むしろ意識してしまっているのが悟られないように極力平静を装う。童顔のため、若く見えると言われるがそれでも35のおっさんだ。変に女性に誤解されてセクハラ行為で訴えられたりしないように最大限の注意を払っている。俺にとっては、女性へのアプローチより、ハラスメントなどの訴訟からわが身を守るほうがよっぽど重要だ。そんなことで失職したら35歳の独身男性、誰も助けてくれやしない。

 そりゃ今だっていわゆる気になっている女性はいる。同じ会社の経理課の三沢さん。2年前にこの会社に就職してきた20代半ばの女性だ。ほどいたら肩まで届くであろう艶のある黒い髪をポニーテールに結んで、仕事中は真剣なまなざしでパソコンと向き合っている。遊んでいる様子もなく、真面目に仕事をこなすしっかりした娘だ。また、彼女がよく見せる笑顔は、心地よい安心感とともに、俺みたいなおじさんの疲れを一気に吹き飛ばす魔法の力がある。時折何故か心に陰があるようにみえることがあるが、そのミステリアスな感じもまた魅力に感じられる。

 ただ、たまに仕事を一緒にするくらいで、何か特別仕事以外の話をするわけでもなく、叶わぬ淡い恋心は胸にしまわれる。

 年末が近づき仕事でも私用でも皆がそわそわし始める12月上旬の木曜日、俺はいつも通り定時5時に仕事を終わらせ、帰宅の準備を始めた。今日はシステム上の大きめのトラブルのいくつかに取り組み、なかなか骨の折れる一日だった。緊急を要するトラブルではないが、また明日も同じ課題と取り組まないといけないのが少し憂鬱であった。その時、たまたま6つ下の営業課、滝沢の会話が明るく三沢さんに話しかけていた声が耳に入った。

「三沢さん、明日、飯でも行かない?イタリアンのおいしい店見つけたんだ。」

 心がチクっとした。三沢さんはたしかに人気が高そうな女性だから男性に誘われるのは当たり前だ。それに別にアプローチするつもりもないのに、なぜ胸を痛めようとしていようのか。もし三沢さんにフリーでいてほしいって思うなら、それは俺の完全なる一人よがりで、三沢さんもいい年なんだし、良い恋愛して結婚して、幸せな人生を歩んでもらいたいとは思わないのか。毎回好きな娘が口説かれているとこんな気持ちになっている。

「ちょっと明日は…ごめんなさい。外せない用事があるんです。…ごめんなさい。」

 落ち着いたおしとやかさを絵に描いたような声で三沢さんが答えた。よかった。良いと思っちゃいけないんだろうけど、俺ももうちょっとだけこの恋心をしまっていてもいいんだと思うと嬉しかった。ただ、この喜びは、三沢さんとなんて恋愛なんてできないという諦めによる寂しさを伴っていて、心から喜べるものではない。

「…そうか、じゃあまた誘うよ。またLINEで連絡するね。」

(滝沢、もうLINEは交換しているのか。流石モテる男は違うな。この時期ならばおそらくクリスマスでいい雰囲気になれるようにアプローチしているに違いない。本当によく頑張るもんだ。それにしても営業課も年内の目標達成するのに大変だろうに、滝沢の上司で俺と同期の中条は彼を野放しにしていていいのだろうか。)

「…って思ってるんだろ?奥手で童貞の望木謙介君っ。」

その噂の中条がいつの間にか俺の背後に回り、彼なりの俺の心境の予想を耳元で囁いた。

「全くそんな気色悪い真似はやめろよ、中条。趣味が悪いぞ。」

「お前の考えることなんてそんなもんよ。でも大体合ってるでしょ?モッチーの大親友の俺なら分かっちゃうのよ。」

中条は俺とは真反対で、性格も明るく誰とも社交的だが、なぜか入社以来俺と気が合ってしまってよく飲んでいる同僚だ。元来こういうタイプの人間とは気が合ったことなど無かったのだが、こいつはどうやら違ったようだ。

「まあ大方間違っちゃいないよ。ただ言っておくけどな、俺は童貞ではないからな。」

「分かってるよ、モッチー。素人童貞だろ?そんなことより、今日久々に定時で上がれるから飲みにいこーぜー。」

中条とは相当仲がいいとはいえ、俺は過去の恋愛歴は極力人には話さない。というか自分でもあまり思い出さないようにしている。だからそれ以上童貞の誤解を解くことはしなかった。

「分かった。帰宅準備に1分30秒待て。そしたらいつものとこ行くぞ。」

2か月ぶりの中条とのサシ飲み。愚痴も含めた積もる話は沢山ある。久々に楽しい夜がやってきた。

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