3-6 同じものと違うもの

 一時間程経った。エアコンの暖気がようやく部屋に行き渡り、それなりに居心地の良い状態になっている。

 そろそろ起こしてやろうかと思っていると、やよいが小さなうめき声を出して目を覚ました。


「頭痛い……」

「起きたか。調子どうだ」

「うん……しんどい」


 声も随分と重たい。彼女はそこでハッと気づき表情を変えた。


「あんた何で私の家に居んの?」

「誰がここまで運んだと思ってんだよ。本当は帰ろうと思ったんだけど、冷蔵庫の中、何も食材なかったから気になってな」


「おとめのへやをかってにのぞいたんだ」

「悪かったよ」

「へんたい……」


 恨めしそうな声だったが、責めてはいないようだ。


「適当に消化の良さそうなもんは買っといた。しばらくはそれでどうにかしろ。卵粥とか、ダシの素入れて米煮込むだけで作れるし美味いから」

「あんた料理出来るんだ?」


「一人暮らしして結構経つからな。それより、何でお前独り暮らしなんだ? 館長と一緒に暮らせばいいのに。家賃も浮くだろ」

「おじいちゃんはそう言ってくれてるけど、あんまり迷惑掛けられないから。色々あるのよ」

「ふぅん……」


 複雑な家庭の事情があるのだろう。少し気になったが、深く聞くのは野暮だ。

 知らないことが良い事もある。

 話したければ自分から口にするだろう。


 少なくとも、やよいは聞かれるのを待ったりしない。

 伝えたい事は伝える。そう言うタイプだ。


「お前、まだ飯食ってないだろ。準備してくるから。その間に着替えとけ」

「あんたが覗かないって保証は?」


「無いけど、そんな事したら原田さんにも館長にも社会的にも殺されるだけだ」

「それもそっか」


 やよいは納得したように頷く。その様子を見て、キッチンへ向かった。

 部屋を出る際、扉を閉めておく。


 ただ、木製の扉にはまった擦りガラスから、中の様子が何となく見えそうだった。

 なるべく視線を逸らす。


 火の通った出汁にうどんを入れ、ほぐしていく。

 そこに溶き卵を入れ、少し熱が通った頃合で、しょうがと水溶き片栗粉をいれた。

 すぐにとろみがついてくる。


 実家に住んでいた時、よく母にこのうどんを作ってもらった。

 両親は元気にしているだろうか。


 そう言えば仕事を辞めたって言う報告も、まだしていない。

 アルバイト紛いの賃金で図書スタッフをしているなんて知れたら何て言うだろう。


 緩やかではあるが、貯金は確実に削れている。

 それが分かれば、すぐ様さっさと就職するよう言われるだろう。


 図書スタッフを長く勤められる状態でない事は館長だって分かっている。

 それなのに働かないかと声をかけた。

 そこには、きっと館長なりの意味がある。


「もう入っていいわよ」


 麺をかき混ぜていると、着替え終わったやよいがドアを開けてくれた。

 ピンク色のパジャマに、上から半纏(はんてん)を羽織っている。

 顔は少し赤い。熱があるのは明らかだ。


 とりあえず傍に置いていた袋の中から、おでこに貼る冷却シートを取り出した。


「貼っとけ。もう出来るから」

「良い匂い。出汁の香り」

「俺にとっちゃ実家の匂いだ」


 出来たうどんを盆に乗せ、運んでやる。

 机で喰うかと思ったが、やよいが布団に入ったので、そのまま膝の上に置いてやった。


「食べ辛くないか? その状態」

「足が冷えるから」

「コタツ布団出しゃいいのに」


 真冬なのにコタツ机は何故か裸のままだ。


「面倒くさい」


 言いながらうどんを口に運んだやよいは「美味しい」と目を丸くした。


「何このうどん。めちゃ美味しいんだけど」

「大袈裟だな。市販の奴だよ」


「しょうがの匂いがする」

「入れてるからな」

「しょうがって苦手だったけど、これは好き。全然味主張しないし、辛くないし」


 細やかな感想を述べつつ、食べるのは早い。

 これだけ食欲があれば大丈夫かな、と内心安堵した。


 しばらく下らない話で談笑した。

 学校の友達の話や、面接で失敗した話、最近見たテレビの話題、そして、図書館の話。


 出会って三ヶ月になるが、こいつとこうしてゆっくり話すのは初めてだ。

 大学は経済学部だと言う事も今知った。なんだか新鮮だ。


 一通り食べ終えてお茶を出してやる。

 受け取った皿はすっかり出汁まで飲み干していた。


「はぁあ、暖まった。熱いくらいだわ」


 やよいは額から汗を流しながら、手でパタパタとあおいでいる。

 そう言えば暖房もついたままか。


「ちょっと換気するか」

「ああ、こっちの窓でいい。ちょっと星も見たいし」


 やよいはすぐ横にある出窓を開けようと体を捻る。

 だが、距離があるので微妙に手が届かない。


「いいよ。俺が開ける」


 ぐっと、ベッドをまたぐように窓枠に手を伸ばした。

 と、上手く手をかけられず、そのままやよいの足の上に倒れこんでしまった。

 掛け布団に顔面から突っ込んでしまい「ぐふっ」と声が漏れ出る。


「ちょ、何やってんの。重い」

「すまん」


 手をついて顔を上げる。


 ギョッとした。


 目の前にやよいの顔があった。

 鼻がぶつかりそうなほど近くに。

 

 視界が、完全にやよいで埋め尽くされる。

 不意の出来事に、お互いが息を呑んだ。呼吸が止まる。

 彼女の大きな目に、自分が映りこんでいた。互いが互いで染まっている。


 ──こいつ、こんな綺麗な顔だっけ。


 まるで別の人に見えた。随分と輝いて見える。

 心臓の辺りをギュッと握りつけられるような、切なさにも似た何かが押し寄せてくる。


 何分経ったか分からないくらい、ずっとそうしていた気がする。

 実際には数秒だろうけれど。


 ハッと我に返ったのは、同時だった。


「すまん」

「ごめん」


 お互いばっと顔を離す。

 忘れていたように心臓の鼓動が鳴り響いた。

 叩き付けられているように脈打っている。痛いくらいだ。


 呼吸をするのも忘れていたことに気付き、ゆっくり息を吐いた。

 息が詰まる感じがして、随分と苦しい。


 やよいは自分の胸元にぎゅっと手を当てている。

 同じような状態なのだろうか。

 まさか。


 先ほどまでの穏やかな状況から一転、気まずい沈黙が立ち込めた。

 何か言うべきだろうか。


 迷っていると「窓、開けるね」としなくて良い確認をして、やよいは出窓を開いた。

 すぅっと、冷えた冷気が室内に入り込む。


 頃合もいい。図書館の閉め作業もある。そろそろ戻らないと。

 言い訳の種を一つ一つ頭の中でなぞっていると、やよいが「オリオン座だ」と口にした。


「オリオン座?」


 彼女は頷く。


「うん。知ってるでしょ? 冬の定番星座。正確には、夏でも見ようとしたら夜明け前に見えるんだけど。ほら、あそこ」


 ベッドの横に座り、やよいが指した先を眺める。

 なるほど、確かに見覚えのある星座だ。


 三つの星が横一列に並んでいて、その線を中心として台形を作るように上下に二つずつ大きな星がある。

 上側にある二つの星の間には、もう一つ小さな星。

 いびつな形をした、変わった星座だ。


「今日はなんかハッキリ見えるわね」

「空気が澄んでるからじゃないか。寒い季節って、空がいつもよりクリアに見える気がするし」

「ああ、なんかわかるかも。だからかな、冬の空って一年で一番好きなんだ」


 やよいは星空から目を離さない。少し楽しそうに声を弾ませる。

 その横顔に、吸い込まれそうになった。


「天秤みたいな形してんなぁってむかしから思ってたんだよね。オリオン座」

「正確には狩人の姿を形どってるんだけどな」


 すると彼女は驚いたように丸い目をこちらに向けた。


「詳しいじゃん」

「今日図書館で本の仕入れ作業してる時に星の神話に関する本があって、それに書いてあった」


「へぇ、星の神話」

「星空中央図書館、なんて名前なんだから、星に関する本が充実しててもいいだろって思ってな。探してたんだ」


「確かに、そういう知識があるのと無いのとでは、同じものを見ていても全然違って見えるかも知れないわね。景色が変わるって言うか」

「全然違う、か……」


 冬の夜空に輝く星々は、何だか特別なものに思えた。




 やよいは一週間ほどで風邪を完治させ、年末には復帰した。


「ども、その節はご迷惑おかけしました」


 出勤してきたやよいは軽く頭を下げる。その姿を見て原田さんはほっと肩をなでおろした。


「大事無くてよかったわ。幹君の看病が効いたのね」

「効いたのは病院の薬ですけどね」


 相変わらずの減らず口で、やよいはいたずらっぽい笑みをこっちに向けてくる。


「それだけ喋れたらもううどんを作る必要はなさそうだな」

「あ、あれは美味しかったからもう一回作ってよ!」

「さてね」


 肩をすくめると本を持って奥へと向かう。やよいの顔をまともに見れなかった。

 彼女の表情や仕草。

 あの日見た星座と、同じなのかもしれない。


 同じものを見ているのに、それまでと全く違うものに見えた。

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