2-5 秋の月
三十分ほど降り続いた雨は徐々に雨脚を弱め、空を覆っていた雲もいつの間にか散っていた。それに伴い、豪雨観測会を切り上げ、図書館も通常運行へと戻ってゆく。
明日の仕事があるからと先に帰宅した薫さんを見送り、図書館にやよいと二人取り残される。棚の整理やらパソコンでのデータ作成、細かな所の掃除と作業をこなした。やよいが本のページをめくる音がたまに聞こえる。静かな夜だった。
時計に目をやると、もう夜の七時だった。
館内にはスタッフしかいない。
今日はプラネタリウム運営も必要ないだろう。切り上げ時だ。
カウンター奥にある事務室で外灯の電気を落とし、荷物をまとめ帰宅の準備をしていると、やよいに肩を叩かれた。
「なんだよ。どうした?」
モップを持った彼女は仏頂面だ。まさか、まだ何か作業をするつもりなのか。
「掃除か? 散々やったろ?」
「天窓がまだ。雨が乾く前に拭かないと」
やよいは親指でぐいとホールの方を指し示す。
「それにあんた、天窓のメンテナンスの仕方まだ知らないでしょ? 良い機会だから教えとこうと思って。自分の尻は自分で拭えるようにね」
いちいち一言多い奴だ。だが逆らうとうるさそうだし、どの道いずれ学ばなければならない事なのは事実。ここは素直に従っておくことにした。
やよいは配電盤ボックスに掛けられた管理用の鍵を手に取ると、歩き出す。
「着いてきて」
声に連れられ、ロビーを抜けて二階へと上った。本棚の奥を抜けた先、壁沿いの一角に、目立たないスライド式のドアがあった。窓もないので全然気付かなかった。
やよいは鍵の束から一本取り出すと、ドアを開いた。
ドアの先は狭い踊り場となっており、そこから右側へ緩やかな階段が伸びている。どうやら建物の壁に沿って螺旋状に続いているらしい。
「暗いから、足元、気をつけてよ」
どこから取り出したのか懐中電灯をつけ、やよいが先導してくれる。
しばらく歩くと、通路の終わりが見えてきた。どうも外に繋がっているらしく、前方の方で光が差し込んでいるのが分かる。
そこでふと疑問に思った。
光?
確かもう夜だよな。
外灯は全部消したはずなのに。
「手すり低いから落ちないでよ」
やよいの背中を追い、屋根の部分へと出た。不意に緩やかな風に包まれる。
顔を上げ、あたりの様子を確認した。
風に揺られた稲穂が揺らめき、月明かりに煌いていた。それはまるで金色の海にも見え、長く長く続いてゆく。
「この時期は一番良い景色かもね」
うれしそうにやよいは天を仰いだ。
そこには、高く昇った月が辺りを照らしていた。
いつにも増して大きい。差し込んでいた光の正体はこれか。
「中秋の名月って言うには少し遅いけど、今年一番きれいかも」
「満月じゃないけどな」
空に浮かぶ月は少しだけ欠けている。
「そんなの関係ない。今の私には、この空が一番の励ましになる」
「落ち込んでたのが馬鹿らしくなるくらい?」
「無論」
静かにうなずくやよいは妙に偉そうだ。
「さ、月明かりがあるうちにさっさと作業進めるわよ。それで使えるスタッフになってくれ」
「使えなくて悪かったな……」
「言葉尻捕まえないでくださいー」
楽しそうに軽口を挟んでくる。昼間と比べ、ちょっとは気分も晴れたのだろうか。
こいつはこういう調子で居てくれたほうが良い。こちらとしても気が楽だ。
「星空や、この景色を見て、何となく分かった気がする」
「何が」
「この図書館が、人を変えてくれるって言う事が」
「それは違う」
「へっ?」
「場所は人を変えない」
まっすぐな口調で、やよいは言った。
「ここを必要としている人たちがあつまって、作用して、変わっていくの。人を変えるのは、いつだって人よ。景色じゃない」
得意気なやよいの姿を見て、かつて館長が言っていた言葉を思い出す。
――君が来るとここは変わって行く。
果たして本当にそうなのだろうか。今はまだ、分からない。
「さ、ボーッとしてないで、始めるわよ」
やよいが視線を向けた先、すぐ足元に大きな天窓が広がっていた。緩やかな階段は終わり、天窓の外側をぐるりと囲むような通路になっている。ここを掃除するのは結構骨だ。
「覚悟しなさいよ、新人」
やよいは意地悪くにっこり笑う。
「まずはモップがけからね。この窓全部」
「鬼め」
月明かりに照らされ、二人共不敵に笑った。
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