2-3 かつて信じていたもの

 ひらひらと手を振るとやよいの姿は本棚の陰に消えた。薫さんと二人取り残される。目が合い、なんとなくお互い呆れ笑いが浮かんだ。


「昔からそうだけど、根は真面目なんだよね」

「……あいつは、この図書館が本当に好きなんですね」


「就職活動してるって聞いた時はかなり意外だったかな。あの子はこの図書館に骨を埋めそうな気がしてたから」

「それじゃあ駄目だって、気づいたんじゃないですか。何が原因かは分からないですけど」


「大学生だし、周りの動向を見たり、意見を聞いたりして、何かしら影響は受けてるだろうけど。それでもやっぱり、外に出る気になったのは、この図書館のおかげじゃないかな」

「どう言う事ですか?」


「今回は人手不足だった所を私のヘルプと幹君の加入で何とかなったけど、過去に運営上の問題はいろいろあったんだよ。ベテランのスタッフさんが辞めたりとか、運営コストのトラブルとか、何回も壁にぶつかってきた。そんな時に助けになったのは、この図書館を好きなやよいじゃなくて、うちのお父さんや館長、それに館長代理のいっこさんって言う、ちゃんと社会や経営の事を知ってる人だったんだよね。もちろんやよいも色々尽力はしたと思うよ。図書館運営に必要な知識や資格の勉強もしたとは思う。でも圧倒的に考えや、視点が子供なんだよね。経験もないし。本人もそれを自覚してるんだと思う」


「学生でも視点が鋭い子はいるし、逆に社会に出ても甘い考えの人はたくさんいますけどね」


「まぁ、でも、やよいなりの答えなんでしょうよ。この図書館を守るために自分を成長させたいって。だから就職して社会に出る。直接聞いたわけじゃないから実際はどうなのか分からないけれど、就職する理由はそんなもんだと思うよ」


 なるほど。確かにそんな気がする。


 ひょっとしたら、就職活動に受からないのも、そう言う目的を素直に話してしまっているからではないだろうか。

 会社は学校じゃないとは良く言われるが、どれだけ有能でも長く勤めてくれない人を雇いはしないだろう。

 いや、さすがにそこまで馬鹿じゃないと信じたいが。


「あいつは、もうちょっと要領をよくしないとダメなんですよね」

「就活、うまく行ってないんだ?」


「みたいですね。愚痴られました。面接の話とか、企業の人が偉そうだとか、自分の人となりを見て欲しいとか。まだ出会って一ヶ月くらいですけど、そんなあいつを見るのは初めてで。焦りが出てるのが聞かなくても分かりました。もし薫さんが言うようにあいつがここを守れる自分に成長することを目標として持ってるなら、だんだん良くない方向に行ってる」


「ただ就職することが目的になってるってこと?」


 頷いた。


「自分が就職活動していた時の姿と微妙に重なるんです。焦ってやりたくもない仕事に就いた自分の姿と」


 やりたい仕事はあった。理想とする社会人像も。

 だけど、着実に失われる時間とチャンスが、焦りに変わり、いつしか就職する事だけが目標になっていた。

 業種も職種も何も調べず、ただひたすら掲載されている企業にエントリーをし、同じ文章を何度も履歴書に書き写した。


 そうしてようやく手にした日々を、たった三年半で捨てた。


 そんな自分がここで仕事や社会の事を語ったり、やよいに面接のアドバイスをしている時点でちゃんちゃらおかしい話なのかもしれない。


「就活中はよく言われました。仕事を決める軸だけはぶらしちゃいけないって。今思うと、本当にその通りだと思います」

「軸ねぇ……」


「図書館を守りたい、守れる人間になりたい、そんなあいつの軸。内容が抽象的なんで、それに直結する仕事って言われるピンと来ないですけど。少なくとも、あいつの話を聞いていて、その軸がぶれてるんじゃないかって」

「ふぅん……」


 薫さんは咀嚼するように何度も頷くと、ゆっくりとこちらに向き、口を開く。


「それで、幹君はどうなったの?」

「俺?」


 急な質問につい素が出る。


「幹君はやりたくなかった仕事に就いたんでしょ?」

「ええ、まぁ」


「そこで三年半働いた」

「紛いなりに、ですが」


「それで、君は何も変わることがなかったの?」

「えっ?」


「何かを学んだり、考え方が変わったりしたはずだよ。だって、こうして仕事に対して自分なりの持論なり、考え方を持ってる。だからやよいが焦ってるって分かる」

「そう……なんですかね。自分ではまるで感覚がないですけど」


「そうだよ。就職したってそこで終わるんじゃない。焦ってもいいじゃん。軸がぶれまくってても。納得する仕事に就けてる人なんて、ホンの一握りだよ」

「そりゃそうですけど、僕は……俺は」


 多分、恐れていた。

 夢を持って、目標を持って生きているやよいが何かに失敗したと自覚するのが。

 その光景を目にすることが。


 かつての自分を見るみたいで限りなく恐ろしいかった。

 やよいに自分を重ねてしまっている。だからこそ、失敗してほしくない。


「心配するほどやよいはヤワじゃないよ。確かに、君の言うように、あの子の目標からは程遠い仕事をしてしまうかもしれない。でも、絶対にそっから次の目標を見つけて駆け出して行ける。舞台さえ与えられれば、あの子はちゃんと踊って、演じて、色んなことを経験して持って帰ってくる」


 綺麗事ですよ、そんなの。そう言いたかった。

 ……でも、言えなかった。


 世の中には目的意識なんて持つことすら忘れてしまうほど、ただ生きるのに必死にさせられてしまう仕事がたくさんある。


 かつての職場がそうだったとは言わないけれども、キラキラした目の新入社員達が、やがてその輝きを澱み腐らせてゆく姿は幾度となく目にした。あいつがそうならないと言う保証はどこにもない。

 でも、信じたい気持ちもあった。


 その時、窓をポツリと水滴が打った。

 大粒のそれは、やがて数を増してゆく。ザッと、強い風が大きく水を運ぶのが分かった。まるでホースから流れ出た水を当てたみたいに、窓の景色が瞬時にしてぼやけてゆく。


「お、降ってきたね」


 急に楽しげな声のトーンで、薫さんが笑みを浮かべる。


「ねぇ、幹君」


 彼女はそっと天井を指差した。


「空、見てみない?」

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