1-5 星のような無限の煌き
店を出るとすっかり辺りは暗くなっていた。
「やっば、もう時間じゃん」
「時間? 閉館の?」
「今日は星が見えるんだからこんな早く閉館するわけないでしょ」
ないでしょ、と言われてもそんなの知った事ではない。反論しようと口を開こうとすると、察したのか「いいから早く戻る」と言葉を被せられた。しぶしぶ背中を追う。
元来た道を戻るだけなのに、なんだか随分と様子が違って見えた。妙な違和感を覚える。
原因を探っていて正体に気付いた。
外灯が消えているのだ。元々それほど数がなかったので気付かなかった。敷地内に設置されていた外灯は全て消灯してしまっており、薄暗い足元がより一層見え辛くなっているのだ。その中を、やよいはまるで気にした風でもなく歩いていく。
角を曲がると、やがて図書館の入り口へと辿り着いた。そっとドアノブに手をかけたやよいは、ふと動きを止めてこちらを振り返る。
「いい? 絶対にうるさくしないで。あと携帯、持ってたら電源消して」
「わかったけどさ、そこまでする必要あるのか?」
「いいから」
行きの時に感じた敵愾心(てきがいしん)とはまた別の気迫に何となく圧され、頷いた。
納得したのか、やよいが扉を開く。
中に入って、言葉を失った。
その静寂に、暗闇に、光景に。
図書館の外観から、プラネタリウムみたいな場所だと思っていた。
でもまさか、そんな事はないだろうと思っていた。
入ったときは、確かに普通の図書館だった。
でも、今は違う。
図書館の天井に、星が浮かんでいた。
街から離れ、暗闇にたたずんだ図書館を、数え切れないほどの星の群れが包んでいる。
大きな一枚の天窓が天井を覆い、その向こうに無限の星空が広がっていた。天井が開き、星の海を吸い込んでいる。
図書館にいた他の客から小さな溜息が漏れているのが分かった。
誰もがその光景に見入っている。
「どう?」やよいの声が小さく飛んできた。
その顔はきっと、勝ち誇ったかのような、悪戯を成功させた子供のような、ずるい表情が浮かんでいるんだろう。
……こっちの負けだ。
「こんなの見せられて、文句なんて言えるわけない」
「でしょ」
やよいはそっと天井に手を伸ばす。その指は星を指し示していた。
「デネブ、アルタイル、ベガ」
「夏の大三角形か」
「よく知ってるじゃん。じゃあベガとアルタイルは日本でなんて呼ばれているか知ってる?」
「織姫と彦星」
「知ってんだ」驚いた様子だ。
「昔、よく理科の教科書や星座の早見盤を眺めてたな。でも、ここまで鮮やかな星空を見たのは初めてだ」
「なるほどね。じゃああれも見るのは初めてって訳か」
「あれ?」
「よく見てみなよ」
やよいの指はそっと何かをなぞる。
流れを追って、気付いた。
「天の川だ……」
河の底に沈んだ鉱石が輝くように、夜の空に無数の光の群れが浮かび上がる。仄かな光だったが、目を惹くには十分過ぎた。
「これくらい暗い場所じゃないと見えないからね」
永遠に続くと思えるような星の明滅。
吸い込まれるようにして、目が離せない。
自分の心はもう壊れてひしゃげていると思っていた。
でも、この広大すぎる星の前では、大したことなかった。
まるで何事もなかったかのように世界は稼動を続けている。悩んでいる自分もきっと『事象』の一部でしかない。そう思うと、スッと心が楽になる気がした。
ずっとここでこうしていたい。
星の海を眺めながら、強くそう願った。
「今日はありがとうございました」
星が見終わり、館内から他の客がいなくなるのを待って、閉館準備をしている原田さんに頭を下げた。
「そんな、お礼を言われることなんて何もしてないわ」
「でもあなたが引きとどめてくれなかったら、この星空を見る事はなかった」
「どうでした?」
「綺麗でした。すごく」
「でしょう?」
嬉しそうな笑みを彼女は浮かべる。
「私も最初はここのお客さんだったんです。当時は色々思い悩んでる時期で、色々と追い込まれてた。何をやっても上手くいかず、人の言葉や仕草が自分を批判しているように見えて……そんなとき、祖母が亡くなって。遺品で出てきたのがここの図書カードだったんです」
「星を見て、変わったんですね」
彼女は静かに頷く。
「自分の悩みなんか、この広い空の下では、本当に取るに足らないことなんだって気付いたんです。それからかな、考え方も前向きになったって言われるようになって。その時、ここに来ないかって館長からお話を戴いて」
「多分、原田さんが図書館の空気と合ってるって思ったんでしょうね」
「そうかしら……。ごめんなさいね、こんな身の上話。そうだ、出来ればやよいちゃんにも後でお礼を言ってあげてくれませんか。きっと喜ぶから」
「そうですかね」
何かしら罵倒が飛んできそうな気もする。
「罵倒でも飛ばすと思った?」
背後から指摘されてギクリとした。閉館作業を終えたやよいが、不敵な視線を送ってくる。
「人を狂犬みたいに扱うの、やめてくれる?」
「まだ何も言ってないじゃないか」
「態度でわかる」
不機嫌そうにも見えるが、どうやらこれが通常運行らしい。怒っている気配はない。少し口元が笑っている。こちらも釣られた。
「悪かったよ、怪しい図書館だなんて思って」
「あ、やっぱり訝しんでた」
「否定はしない。確かに訝しんでは『いた』」
わざと過去形を強調すると「今はどうよ」と尋ねられた。
「いい場所だ。大事にしたい。ありがとう、片桐さん」
「気持悪い。やよいでいいよ」
「じゃあ、やよい」
「呼び捨てかよ」
背後で原田さんが面白そうに口元を抑えて笑っている。見世物ではない。
その時、図書館の入り口が開いて誰かが入ってきた。その場にいる全員が、扉のほうに目を向ける。
立っていたのは、あの時の老人だった。忘れはしない。
「あの時の……」
「おじいちゃん」
「館長」
全員ばらばらに声を出して「ん?」と顔を見合わせた。
「館長? この人が?」
目の前にいるやよいに尋ねると彼女は静かに頷いた。
「そして、私の祖父でもある」
「えぇ?」
孫娘か。ただの従業員ではないだろうとは思っていたが、何となく合点がいく。
「館長、今日はもう閉館します」
原田さんが言うと老人は静かに微笑んで、こちらに視線を向けてくる。目が合い、少し緊張した。見透かされるようだ。
「どうだった? ここの星は」
どう、か。その言葉に笑って返した。
「最高でした」
「そうか、それは良かった」
老人はうれしそうに顔をくしゃくしゃの笑顔で埋めた。
「……時に、仕事はもう見つかったかい?」
「いえ、まだ。でも、ここのおかげでまた頑張れそうな気がしてきました」
口だけじゃなく、ちゃんと結果に残そう。そして、改めてここに来る。人にも、自分にも、胸張って生きれる人間になって。それが当面の目標だ。
「次ここに来るときはもっと──」「働く気はないか?」
言葉を被せられる。沈黙が満ちた。意味が分からず、やよいに答えを求める。目が合った。
「えっ?」
よっぽど間抜けな顔をしていたのだろう。こちらを見た老人はなんだか可笑しそうに言葉を繰り返す。
「ここで、スタッフとして、働いてみないか」
「おじいちゃん、雇うの? これ」
「これとは何だ」
いや、問題はそこではない。
「僕がここの職員に? 司書の資格とか、持ってないですけど」
「資格がなくても図書館では働けるのよ。特にここはほら、私立図書館でしょう?」
原田さんの補足に何となく納得する。
「図書館職員の給料はそれほど良くはない。だから次の仕事が見つかるまでで良い。私は、君がここで働いてくれたら、嬉しい」
「どうして?」
「君が来るとここは変わっていく。もっと良くなっていく、そんな気がするんだよ」
「つまりは勘って事」小声でやよいが言い、さらに付け足す。「それでいて、絶対に外れない勘」
老人の瞳に映りこむ自分の姿。彼の言葉は、確信していて、そっと背中を後押ししてくれる不思議な魅力があった。
その流れに乗ってしまいたい。
「よろしくお願いします」
そう口にしていた。
期待していた。あの星のような無限の煌きが、もし自分の心にも灯るならと。
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