1-3 小さな喫茶店

 本のページをめくっていると、いつの間にか随分と時間が経っていた。


 窓から差し込む陽の光は傾き、やがて赤みを帯びていく。窓枠の影が長く伸び、本棚のそれと重なった。漂う光の加減が近づく夜の気配を感じさせる。その気配は、足元からゆっくりと体に染み込んで来る。


 椅子に座って本を読んでいると、時折片桐やよいが近くを通り、こちらを流し目で睨んでは去ってゆく。特に声も掛けられないので性質が悪い。負けじとこちらも視線を飛ばすと、つんと顔を逸らす。随分と嫌われたものだ。


 でも、不思議とこの図書館での居心地は良かった。悪い気は全くしない。それどころか、ずっとこうして本を眺めていたい気すらする。


 最新図書から、かなり昔の漫画まで。意外と本の種類が多く、楽しめる。

 サブカルチャー的な本や実用書はあまり置いていないみたいだった。

 置かれているのは小説や漫画、伝記、そして図鑑が大半。私立図書館と言うだけあって創設者の好みが反映されているのだろう。


 ただ、これだけ取り扱っている内容が偏っているのは、ひょっとしたら利用客のリクエストが反映されているのかもしれない。


 中でも、海の危険生物に関する図鑑は特に興味を惹かれた。深海生物、人を襲う生き物、毒を持った物、昔からそう言った生き物を見るのが妙に好きだったのだ。何気なく手に取ってみる。こう言う、どこに需要があるかも分からない本を取り揃えている辺り、相当マニアックだ。


「うわ、そんなん読んでるんだ」


 隣の本棚にやよいが本を戻しながら声を出した。こちらの手にしている本を見て、顔が歪んでいる。


「趣味……」


 何か言いたげにそこで言葉を途切らせる。ほっとけ。

 幻想的な深海の光景は、まるでこの図書館を思わせた。深く沈みこんで光が届かず、外界とはまるで違った世界。焦点を当てるたびに異なる顔が見え、その度に新しい発見がある。


「気に入りました? その本」


 今度は原田さんが立っていた。彼女も返却された本を棚に戻しに来たらしい。薄手の黒いエプロンを身につけている。傍に立つ彼女は、思ったより背が小さかった。


「ええ。なんか気になって」

「館長もその本、好きなんですよ」

「館長?」

「ええ。この図書館の館長。普段はほとんどいませんけど。今日みたいによく晴れた日は来るんじゃないかしら。星を見に」

「へぇ……」


 そこでふと気になって、横にある大きな柱に掛かっている時計に目をやった。時刻は夕方六時。一般的な図書館としては、そろそろ閉館の時間だろう。


「閉館は何時なんですか? ここ」

「閉館? 日によるかなぁ」

「どういう事です」

「星が見えない日は五時には閉めちゃうけれど、星が見える日は気分で閉館時間が変わるから」

「ええ?」


 どんな経営方針なのだ。


「それって帰れるんですか?」

「他のスタッフは先に帰るわね。私ややよいちゃんは家が近所だから、大抵二人のうちどちらかが遅番になるの」

「閉館業務するのが二人だけってきつそうですね」

「あら、そうでもないわよ? だって星を眺めるだけでいいんだもの。それに閉館時間も基本的に私たちが自由に決めてるから。あと、夜遅くなったら送ってくれる人がちゃんといるの」

「へぇ……」


 頷いてはみたが、どういう運営体系をとっているのかまるで理解できない。


 窓の外はいよいよ陽が沈む気配を見せており、影は最も長くなる。あと三十分もすればすっかり暗くなるだろう。

 木々と塀に覆われた建物だから一階の窓は視界が悪いが、二階は意外と遠くまで見渡す事が出来た。広がる田畑や、稲穂が風に揺られる様、山際に沈み行く夕焼けは見ていて心地が良かった。


 景色を眺めていると不意に腹が鳴った。そう言えば何も食べていない。時間もいい具合だしそろそろ帰り時だ。振り返ると、本を戻し終えた原田さんと丁度目が合った。


「そろそろ帰ります」

「あら、星を見ていかないんですか?」残念そうに彼女は言った。

「見たいのは山々ですけど、腹も減りましたし」

「ああ、そう言う事」


 原田さんは納得したように微笑むと、手すりから顔を出して一階のカウンターに「やよいちゃん」と声をかけた。片桐やよいがカウンターで作業しており、手を止めないまま顔を上げる。


「もうすぐ星が出るから、先に休憩済ませちゃって」

「あ、はい。分かりました」「あと」


 原田さんはこちらの肩をポンと叩く。


「この人も一緒に」

「えっ」


 片桐やよいと声が重なった。




 図書館を出ると片桐やよいは建物の裏手へと歩き出す。その背中に引っ張られるように、それでも近付きすぎず、一定の距離を置いて歩いた。背中からは会話する事を拒否する無言の主張が感じられる。気まずさを感じ、ポケットに手を突っ込んでやよいの背中から視界を外した。


 昼間あれほどうるさく鳴いていた蝉の声はすっかりとなりを潜め、代わりに秋の虫たちが遠慮がちに声をあげ始めている。空を見ると木々の間から一等星が輝いているのが見えた。


 図書館の外壁に沿って歩く。壁には汚れが目立ち、蔦が絡まっていた。入館料無料の私立図書館と言う無理のある運営体系にも関わらず、その歴史は長いのかもしれない。

 こうして外を歩いてみると結構大きな建物だ。


「お金は持ってるの」

「えっ?」

 不意に話しかけられ反応が遅れる。

「金? ああ、お金ね。持ってるよ」


 ポケットから折りたたみ式の財布を取り出すと、やよいは興味なさそうに頷いた。


「なら良いけど」

「なんでそんな事聞いたの」

「ご飯食べるのにお金持ってなかったら話になんないし。私、別に貸す気なんてないし」

「ご飯って、何かあるのか」

「来れば分かるわよ。うるさいわね」


 言葉の端々に一々棘が含まれている。一体どうすれば短期間でこれだけ嫌われるハメになるのか。理解しがたいが、わざわざ喧嘩するのも面倒なので黙ってついていく事にした。だが、重たい雰囲気に溜息は自然と漏れる。


 建物の角を曲がると、一転して建物の光が漏れ、辺りが照らし出されていた。図書館のものだろうかと思ったが、思い返すと一階のこちら側に窓はなかった。図書館の受付が設置されているのは丁度この壁の向こうだ。


 色々と思案していると、光が漏れているのは窓ではなく、扉だったと気付いた。ガラス張りで、木製の枠がついた扉。ドアノブには『オープン』と書かれた、手書きの小さな板が引っ掛けられていた。その横には、チョークで本日のおススメメニューが書かれた黒板。丸くて少し癖の強い字だ。味がある。


「……喫茶店」


 呟くと先を歩いていたやよいがこちらをチラリといちべつし、そのままドアを開けて中に入っていった。後に続く。


 オレンジ色の照明が映える、木造の小さな喫茶店だった。それほど広くはなく、四人掛けのテーブル席が三つと、後はカウンター席のみ。机にはそれぞれラミネート加工されたA四判の手書きメニューが置かれていた。店内に他の客はおらず、BGMもかかっていない。

 静かだった。

 カウンターの向こう側に人の気配はない。壁に掛かった鳩時計が静かに時を刻んでいる。やよいはカウンターに身を乗り出すと、奥に向かって声を出した。


「サボってないでカツサンドお願いしまーす」


 言い終わるとやよいはやれやれと首を捻り、テーブル席に腰掛けた。何となく向かい側に座ると、彼女は顔をしかめてカウンター席へと移った。


「そこまで嫌がるか……」


 まるで可愛げがない。どうしてくれたもんかと考えていると、ドタドタとカウンターの奥から足音が鳴り響いた。


「やぁ、いらっしゃい」


 姿を現したのは、白い口ひげに、赤いニット帽を被った七十歳前後の老人だった。

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