喫茶カテドラル 《原著 戸松秋茄子さん》
その喫茶店はよくあるといえばよくある、ありふれたといえばありふれた、いわゆる取り立てて特徴のない店だった。
商店街から一つ折れた路地にこじんまりと存在している、そんな店だった。
モーニングを食べにくる散歩中の老人、長年の馴染み客、そういったもので客層は出来上がっていて、新規の客はこの先もほとんど見込めそうになかった。
父親から店を引き継いだ息子である店主は、どうにかして別の人生を歩めないものかと日々模索しながらコーヒーを入れている始末だった。
そんなある日のことだった。
風が吹き荒れ、大量の雨粒が地面を叩きつける嵐の日に、新顔二人が入ってきたのである。
ずぶ濡れの二人は高齢の男性で、喪服を着用していた。
一人がもう一人を抱き抱え、腕の中のもう一人は顔を覆ったまま入店し、いかにもいわくありげで、先客二人もその二人連れに興味を惹かれたようだった。
「もう泣くんじゃねえ、知られちまったもんは仕方がないんだ」
片腕に男を抱いた男が叱咤するように言いながら、相手の男をカウンターに座らせた。よく見ると、そう言った男はもう反対側の腕が無く、喪服の袖がぷらぷらと空しく揺れていた。
「ご注文は何にします?」
店主は素っ気ない男で、前の二人の様子も何処吹く風と言った調子で事務的に声をかけた。
「コーヒーだよ、二つ」
答えた片腕の男が店主を見返した。その目は一つひどく潰れていた。かつての傷痍軍人だろうか。隣の男はまだ顔を覆っている。店主は豆を抽き出した。
「……伍長には黙っているつもりだった。死ぬまで黙っているつもりだったんだ。それなのに」
「あのひとは許してくれてるさ。手紙にも書いてあったろう。お前に感謝すると」
残った腕で、目の潰れた老人は嘆く隣の男の肩を抱き力強く言い聞かせた。
「炊事兵のお前のおかげで伍長も俺も生き延びたんだ。帰ってこれたんだよ、なあ」
「おい、あんたたち、ニューギニアにでも居たのかい」
三つ席を隔てたカウンターに座っているミスターITOが声をかけた。
「いや、俺たちはビルマに」
「そうかい、俺はジャワ」
「そりゃ幸運だったな」
「すごい、軍人ぞろいだ」
ソファー席の眼鏡をかけたハーフの青年が感嘆して本から目を外した。
「バッキャーロ、話に割り込んでくるんじゃねえやい、ヤンキーが。最近、ちょろちょろ来やがって目障りなんだよ」
「ITOさん、僕の父はヤンキーじゃなくてドイツ人です。同盟国でしたでしょ。アドルフです、よろしく」
「ヒトラーは好きじゃねえ」
うう、と顔を覆っていた男はカウンター机に突っ伏した。
「まさか、伍長にはとっくに知られていたなんて……申し訳なくて……」
「もう気にするなよ。あれを食わせてなきゃ、伍長は死んでたさ」
「……何を食わせたか分からないようにしたつもりだった。なのに『美味しいなあ、これは何だ』と弱った伍長が嬉しそうに笑顔で聞いてきたんだ。俺は何の肉か言えるわけなくて『ナマズです』と嘘をついた」
「……まさか」
アドルフがごくり、と唾を飲み込んだ。
「ビルマは地獄絵図のようだった。食うものがなく、ほとんどの日本兵が餓死した」
「バッキャーロ、知ったふうな口ききやがってヒトラー」
「勉強したんです。ひどい状況でした。あるのは、先に死んだ同胞の死屍累々……」
「なんでも食ったよ。そこらへんにあるものすべて。お前の出したあれがなけりゃあ、間違いなく伍長は弱って死んでたよ」
「まさか」
「おいおい、そのまさかかよ」
「……伍長が知ってたなんて。いくら飢えてもあれだけはやめてくれよ、て散々あのひとがいつも言ってたのに。想像するだけで鳥肌が立って吐き気がして気が狂いそうになる、て言っていたのに。そんな人に……俺は泣いて吐きそうになりながら……必死で捌いたんだ……ぶつ切りにして真っ黒に焼いて……葉の上に乗せて……ヘビを」
「ヘビですか!」
「ヘビかよ!」
アドルフがため息を漏らすのと同時にITOが盛大に鼻を鳴らした。
「いや、ITOさん。ヘビを食べる文化は結構ありますよ。僕は食べたことないですけど滋養強壮にいいと聞きますしね。沖縄ではウミヘビを食べますし、メキシコでは」
「バッキャーロ、ヘビの話なんか聞いてねえんだよ、ヒトラー。俺もヘビが苦手なんだからその口閉じやがれ」
「ITOさんはヘビが苦手なんですか。僕はね、クモが苦手なんです。世の人はクモ派とヘビ派に分かれるみたいですね。かの手塚治虫先生のマンガで」
「聞いてねえっつってんだろ、バッキャーロ」
「……捌いて適当に切って焼いたヘビを伍長はナマズだと信じたまま、うまそうに平らげたんだ。あんなにヘビを嫌っていた人が知らずとはいえ一匹全て平らげたなんて。食わせたのが知れたなら、俺は後で半殺しにされてたはずだ」
「仕方なかったんだよ。伍長だけが加藤曹長の肉は食わないって言い張ったんだ」
「やっぱり食べたんですか」
カウンターを挟んで向かい合う店主は、黙々と作業を続けた。極細に挽いた豆をエスプレッソマシンのバスケットに入れて均し、ダンパーで圧力をかけていく。挽き加減を考えて、三〇秒ほどかけて専用のカップに抽出してゆく。
「あの人はな、感謝してるはずさ。俺たちが居なきゃ、伍長は加藤曹長に殴り殺されていた。お前と俺に感謝こそすれ、恨みなどしないはずさ」
「あの、すみません。そのあたりのことをもっと詳しく」
目の潰れた片腕の男にアドルフがソファー席からカウンターに移動して言い寄った。
「もう、戦争は終わってたんだよ。投降を迫るビラが空から何枚も降ってきた。下手な日本語でアメ公が日本が敗戦したと散々告げた。なのに、加藤曹長は信じようとはしなかった。アメ公の作戦だと言い張るんだ。死んでも戦い続けると。そんな曹長に皆の気持ちを代表して、伍長が投降を進言してくれた。逆上した加藤曹長は伍長を殴り始めた。倒れた伍長を今度は容赦なく蹴り始めた。見ていた俺たちは迷ったんだ。どうすべきかどうか。こいつと目を合わせて……次の瞬間に俺が加藤曹長に後ろからしがみついてこいつが銃剣で曹長の胸を突いた」
「お前たちが殺したのか」
「後悔はしていない。あのときそうしなきゃ、あのひとみたいに『恥ずかしながら帰ってまいりました』なんて言っていたかもしれない。いや、言うこともなく森に潜んで一生を終えていたのかもしれない」
「三人の秘密だったんですか」
「ああそうだ。三日前、伍長が死んで秘密を守るのは俺たち二人だけになった。今までな」
「お待たせしました」
店長が無愛想に二人の前にエスプレッソを置いた。
「マスター、あなたは全然動じないのですね」
「ええ、だって関係のないことじゃありませんか。そんな五十年以上も前の話なんて。私には関係ないことです」
「バッキャーロ、先代は違ったぜ。客の話を親身に聞いてくれたもんだ。反対にそっとしておいてほしいときには声をかけずにな。客を見て、あのひとは仕事をしていたんだ」
「確かに先代の父なら、感情豊かに対応したかもしれませんね。祖父のように逆上したかもしれない」
先に帰った客のカップを洗いながら、店主は続けた。
「私の父の旧姓は加藤で、ビルマで死んだ私の祖父は曹長で、帰ってきた遺骨は頭蓋骨でした。でもそんなこと私にはどうでもいいことです」
喫茶カテドラルの中の温度が急激に下がった。
「石ころを返された家族もいたなか、祖母は感謝したそうです。夫の骨を持ち帰ってくれた夫の部下たちに。片目と片腕の兵隊さんがそんな身体で夫を連れ帰ってくれたのだと有難そうに祖母は話していましたし、父もその兵隊さんに感謝していた……でもそんなこと、父も亡くなってしまった今、どうでもいいじゃありませんか。私には。どうでもいいことです」
店主は窓の外を見やった。
「雨はまだまだ降るでしょう。こんな嵐の日は、ジャズでも聴いてメランコリーに浸るのがいいのではありませんか」
窓をたたきつける雨の音。
それは遥か彼方のビルマの密林を襲うスコールを思わせた。
「……マスター、俺にアイリッシュコーヒーを」
「……じゃあ僕にはヤギの練乳入りのウインナーコーヒーを」
「けっ、お子様が」
「いいでしょう、僕はまだ皆さんより若いんですから……はるかに」
「わかりました」
店主はいつもどおり機械的に作業にとりかかる。
男たちは静かにコーヒーカップに口付けるのをゆっくりと繰り返す。
喫茶カテドラルの午後が通り過ぎる。
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