Beggar and a little girl 《原著 歌田うた さん》

 改題  


 Beggar and a little woman



 凍りつくような真冬の夜です。

 夜空にとうとうと輝くオリオンが見下ろす先にはひとつの駅がありました。


 その駅の構内にある一人の男がいました。

 男の目の前には銀色の小さなボールが置かれています。

 膝立ちをして、頭を垂れ、襤褸をまとったその男は不潔な頭を通り過ぎる通行人に見せていました。

 男の前を去ってゆくほとんどの人間は彼の存在を無視しました。

 彼は視界に入れてはいけない人間だったからです。



「あなた、何をしているの?」


 そんな彼に声をかけた者がいました。ある小さな女性です。

 白のコートにピンクのマフラー。まっすぐでさらさらの真っ黒な髪をしています。

 とても可愛らしい女性で、彼女は彼の真ん前に立ち、空のボールを見下ろしました。


 男は何も答えません。ただ俯いて駅構内の床を見ているだけです。

 彼女は男の反応を待っていました。


 しかしいつまでたっても状況が変わらないことに気がつきますと、目の前のボールを可愛らしいブーツで勢いよく蹴飛ばしました。


 男は驚いたように派手に音を立てて転がるボールを目で追いましたあと、彼女を見上げました。

 二人の視線が合います。


 夜色の大きな瞳はややつりあがり気味の美しい目です。

 その刺すような見下す目で小さな彼女は男をにらみつけますと、踵を返し去っていきました。




   

 次の日、男はまた駅の前にいました。

 昨日と同じ情けない格好で。同じく空っぽの銀のボウルで。

 そして人々は相変わらず男を無視して通り過ぎてゆきます。


 そこに昨日の彼女が現れました。

 今日は真っ赤なコートに黒の帽子をかぶって。小さな唇を真っ赤に彩って。

 彼女はまっすぐに男のもとへと歩いてきます。


?」


 尖った刃のような鋭い声に怯えて、男は彼女を見ました。この少女は、自分に敵意を向けているのだとありありと感じたからです。


「……」


 男は何も答えることが出来ませんでした。

 なぜ彼女が自分を攻めるのか分からない。

 男は、おどおどと彼女の機嫌をうかがうように見返すことしかできなかったのです。


 ちょうどそこに、駅員が慌ててやってきました。誰かが男の存在を知らせたのでしょう。


「ああ、もう困るんだよね、ここで物乞いをされちゃあさあ。ほら、立ち上がって。ここから出ていって、ほらほら」


 ふと、隣にいた彼女と駅員の目が合いました。駅員は彼女の突出した愛らしさに思わず目を見張り、口元を緩めました。次には微笑みかけ、彼女と目線を合わせるために腰をかがめます。


「大丈夫? この人に何か言われてないかい?」

「いえ、何も言われていないわ」

「……可愛いね。君、一人なの?」

「……ええ」


 駅員の言葉に彼女は少し顔を傾け、妖艶に微笑みます。

 それは到底少女のそれとは思えず、駅員は息をのんで彼女に見惚れました。

 一瞬のち、そんな自分に気づいたように駅員はあわてて男に視線を戻します。


「ほら、立って」


 男の腕を掴み、立ち上がるように促します。


 あ、あ。


 男が声を発しましたが、駅員は有無を言わさず男の身体を引きずりました。そのまま駅の外へと連れてゆきます。


 後に残された彼女の目の前には空っぽの銀のボウルだけが残りました。

 彼女は唾を中に吐きかけますと二人を追いました。


 彼女が駅を出ますと、すでに外は真っ暗でした。

 雑然と人が流れています中、先程の駅員がこっちへと来ます。彼女に気づいて微笑みかけます。

 彼女も微笑み返しますと、男を探して駅を後にしました。

 

 今夜も寒い夜です。コート無しでは体の芯まで冷えるでしょう。


 あの男は駅前の公園にいました。

 一人、ベンチに腰を掛け、ただぼんやりとまっすぐ前を見ていました。


「あなた」


 彼女は男に足を伸ばしますと、声をかけます。その声は白くゆらぎましたあと、やわやわと宙に溶けてゆきます。


「一体、何してるのよ」


 男は怯えた小動物のように身体を硬くしますと彼女を見ました。まさか、自分を追ってくるとは思わなかったのでしょう。


「あんたに言ってるのよ、ウジ虫野郎」


 男の真ん前に立ち、コートのポケットに手を突っ込んだ姿勢で、彼女は言い放ちました。

 身動きできないでいる男の前で、彼女は腰をかがめ男の顔に顔を寄せます。


「……あたしは今晩、一人稼いだわ」


 男の目が少し見張ったように見えました。

 弱々しいその目に初めて光が宿ります。


「ガキの身体に欲情するヘンタイも居るの。あたしは、そうやって生きてる。あたしの身体は生まれつきこのままもう成長しない。そんな私でも、きちんと稼げるのよ。なのに……あんたは一体、何してるのよ」


 突如、二人の目の前に粉雪が落ちてきました。

 曇天の夜空から白い氷の粒はつぎからつぎへと舞い降ります。

 二人の身体を突き刺すように。苛むように。


「あんたみたいにふざけた男見てると、虫唾が走る」


 苦々しげに彼女は言葉を吐きますと、男の顔に触れるほどゆっくりと顔を近づけました。

 男の身体は悪臭を放ち、顔をしかめるのが当然の反応でしょう。

 しかし彼女は小さめの赤い唇を開き、小さな舌をちろりと出しますと。

 顔を傾け、そのまま汚れた男の鼻にがぶりと噛みつきました。


 ああううう。


 苦痛の声を上げた男から歯を離し。


「可哀想な男」


 歪んだ美しい笑顔で彼女はそう言い捨てますと。

 ひらりとコートを翻し、夜の街へと走り去ってしまいました。




 * * * * *





 それから二週間は経ったでしょうか。


 いつものように彼女が駅のそばで立っているときでした。


 ひとりの男が彼女に近づいてきました。

 あいにくの襤褸をまとったよれよれのみすぼらしい姿で。

 こんがらがった髪の毛で。


「あ、あ」


 男は彼女の前に立ち、あの銀のボールを突き出しました。

 驚いたことにその中には紙のお金が何枚か入っていました。


「なによ」

「あ……あ。これで。足り……る?」


 男の言葉に彼女は即座に噴き出しました。

 けらけら笑いながら、彼女は身を折ってお腹を押さえます。


「冗談でしょ。あんたの相手なんて願い下げよ」

「ちが……ちが」


 男は激しく首を振って否定しました。


「ちが……う。君が。今日。仕事しなく……ても。いい……ぐらいに」


 彼女は笑うのをやめて、男の顔を見上げました。

 言葉の意味を理解するのに時間がかかったのです。


「なにそれ」


 見上げた男の顔は今日はきれいに清められ、意外と端正で、瞳は澄んだ青色をしていました。

 晴れた空のようだと彼女は初めて気が付きました。


「このお金、どうしたの」

「しばらく……働いた。これからも……働くから」


 声を失って彼女は男を見つめました。


「君が働かなくても……いいように」


 男の声には誇ったような響きがありました。

 そして、その瞳の中には以前には見られなかった自信に似た輝きがありました。







 夜色の瞳の彼女は、男にばれぬよう軽く下唇を噛みました。


「そう。ありがとう。もらっとくわ」


 震えそうになる声をなんとか誤魔化して平静を装い、さ、と彼女はボールの中の紙のお金を全て掴み取りました。


「……いつか、今度。一緒に食事でもしましょうよ」


 彼女の無理矢理のお愛想に、男はほっと安心したような顔を見せました。そして次には、なんとも嬉しそうな顔をしたのです。


「じゃあね」


 彼女は男を置いて駅をあとにしました。男のそばにもう一秒だっていたくありませんでした。

 男は彼女の背中をいつまでも眺めていました。



 駅の外に出た彼女の身体を、空から降る雪が包みます。

 彼女を宥めるように。慰めるように。

 白く、優しく。

 そんな雪を振り切るように、彼女は空気を割って速足で歩き続けます。


「……あんたから見ても、あたしの方が可哀想だって思うの」


 深遠の夜の街へと彼女は消えてゆきました。





 * * * * *



 その翌日、駅裏の線路沿いで真っ黒な焼死体が発見されました。

 その大きさから子供だと推定されました。

 ガソリンをかけて燃やされたそうです。

 発見したのは、あの駅員でしたが、駅員はそれが彼女だとは気がつきませんでした。


 線路沿いに住んでいたホームレスの女性が証言しました。


『あの子、かなりハイだった。たまに見かけたけど、昨日はいつもとは違うタイプの客といた。普通なら避けるヤバそうな客だよ。……一人だけじゃなかった。男が次々に来た。すごく騒がしいから怖くなって私は寝る場所を変えたんだ。朝、帰って来たら……あの子、燃えてた』




 * * * * *




「お疲れさん」

「お、お疲れさま」


 あの駅員がかけた言葉に、晴れた空色の清掃員服の男はモップを動かす手を止めて返します。


 自分とすれ違う駅員の背中を眺め、男は駅の人波をぐるりと見まわしたあと。

 小さくため息をつき、残念そうな顔で再び仕事を再開しました。


 今日も駅構内の隅々の床を磨きながら、男は彼女を探しています。


 果たされるはずもない約束。

 いえ、約束であったのかさえも分からない、彼女が最後に残した一言を。

 男は信じて待っているのです。


 愛らしい彼女と食事する誇らしい自分の姿を。

 その幸福を期待して今日も男は待っています。


 もう、この世にはいない彼女を。

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