第3話 麻倉家

 朝、目が覚めて着替えた後に居間へ向かうと、椅子に座って新聞を読んでいた母に、朝陽は訝しげな視線を向けられた。


 どうしたのだろうと思い椅子へ座ると、母は読んでいた新聞を閉じる。


「あんた、何かいいことでもあった?」

「え?」

「顔に出てる」


 思わず朝陽は自分の頬を両の手で押さえる。もしかすると、顔がほころんでいたりしたのだろうか。


 母はそんな朝陽を見て、くすりと微笑んだ。


「なになに、もしかして彼女? ようやく珠樹ちゃんと付き合い始めた?」

「だから、珠樹とはそういう関係じゃないって……」

「二人ともお似合いじゃない。幼い頃からずっと一緒なんだし」

「ただの幼馴染」


 その朝陽の言葉が照れ隠しだと思ったのか、「若いっていいわねー」と言いながら、ご機嫌な様子で朝食の支度を始めた。朝陽も立ち上がり、母の手伝いをするためにキッチンへ向かう。


 一家の調理は基本的に母が行うため、朝陽は食器棚に置かれている父、母、姉、自分の茶碗を取り出してお盆の上へ置いた。


「でもまあ、何か良いことがあったのは当たってるでしょう?」


 母はフライパンの上で卵をときながら質問をする。やはり全てお見通しなんだと理解した朝陽は、諦めたようにため息をついた。


 比較的素直な朝陽だが、家族に女の子と二人で出かけることを知られたくなかったのだ。主にそういうことに冷やかしを入れてくる母と姉には。


「ここに引っ越す前の友達と会って、今日遊ぶことになったんだよ。東雲紫乃さんっていうんだけど」

「東雲、紫乃さん?」

「お母さんには話してなかったよね。小学一年の夏休みの時に、よく紫乃の家に遊びに行ってたんだ」

「へぇ、引っ越す前ってことは、紫乃さんの方から会いに来たの?」

「うん。わざわざ僕の住んでる場所を探してくれたんだって」


 母はコンロの火を止めた。フライパンの上には黄金色をしたスクランブルエッグが出来上がっていて、食欲をそそる匂いが朝陽の鼻孔を通り抜ける。


 また冷やかしを受けると思い身構えたが、母は特に何も言わなかった。ただどこか安心したような表情を浮かべいて、それが気になった朝陽はスクランブルエッグを盛り付けている母に質問を投げる。


「どうしたの?」

「ん、なにが?」

「なんか、いつもと違うなって」


 すると母は、またくすりと笑った。


「あんた、小学一年の頃すっごい落ち込んでた時期があったでしょう?だから、良かったねって思って」


 そう言われて、朝陽は思い出した。


 あの夏休みの終わり頃、紫乃は突然朝陽の前から姿を消したのだ。いつも通り紫乃の家へ向かうと、もうそこは空き家になっていた。


 今でも、どうして紫乃がなにも言わずに自分の前からいなくなったのか、朝陽には分からなかった。もしかすると、自分が紫乃に対して何か気に触ることをしてしまったのか。当時はそう考えてもみたけれど、思い当たる節なんて一つもなかった。


 しばらく紫乃が居なくなってしまったことに落ち込んだ朝陽は、最終的に一つの決断を下した。


 それは、紫乃という女の子を忘れるということ。


 きっとこれから先も紫乃と会うことは出来ない。朝陽はそう思っていたからこそ、忘れる努力をした。


 幸いなことに、小学五年の時に環境が変わったおかげで、中学の頃にはもう、紫乃のことを思い返すことはなくなっていた。


 それは、昨日のあの瞬間まで。


 朝陽が考え事をしているうちに、出来上がったスクランブルエッグを皿に移した母は、スポンジでフライパンをこすっていた。


「まあなんにせよ、よかったじゃん。今日は楽しんできなさい。あ、それリビングに持ってってね」

「あ、うん」


 言われた通り、朝陽はスクランブルエッグの乗ったお皿をお盆の上に乗せて、リビングまで運ぶ。そして四人分の茶碗にご飯をよそっているときに、ようやく気付いた。


 忘れようと努力していた間も、彼女のことを忘れていた間も、ずっと紫乃は自分のことを覚えてくれていたのだということを。


 その事実に気付いてしまった瞬間、どうしようもないほどの胸の痛みに襲われた。罪悪感が心の内側から湧き上がってくる。


 紫乃は、あの部屋の中でずっとひとりぼっちだった。だからこそ、彼女のことを忘れたりしてはいけなかった。たとえもう会えないのだと分かっていても、あの部屋でひとりでいた紫乃の友達でいるべきだった。


 まず今日は、紫乃と会ってすぐに、忘れてしまっていたことを謝らなきゃいけない。そしてそれはおこがましいことなのかもしれないけど、もし叶うのならば、また彼女と友達になりたいと朝陽は思った。


 今度こそ、東雲紫乃という女の子を忘れないために。


 四人分のご飯をよそいおえ、スクランブルエッグを並べていると、味噌汁の用意を済ませた母がリビングへ戻ってきた。


 その匂いにつられたのか、大きなあくびをしながら朝陽の姉である朝美も、「おはよー」と言いながら部屋へ入ってくる。


 大学生の朝美も今は夏休みのため、長い髪はまだボサボサだった。まだ半分夢の中をさまよっているのか、普段の大きな目は半分ぐらいに細められ、思考も回っていないようだ。


 その姿を見た母は、朝美に対してムッとした表情を浮かべる。


「女の子なんだから、もっと外見に気を使いなさい。髪の毛ボサボサよ?」

「えーいいじゃん。今日は出かけないんだし」

「ダメ。そんなんだったら、朝陽の彼女が家に来た時にボロが出ちゃうじゃない」


 その母の発言に、朝陽はびくりと肩を震わせる。まどろみ状態である朝美もさすがに聞き逃さなかったのか、大きな瞳を見開かせた。完全に覚醒してしまった彼女は、隣に座っている朝陽の肩を掴んで自分の方向へ引き寄せる。


「ちょっと朝陽、彼女出来たの? えっ? もしかして珠樹ちゃん? もしかしなくても珠樹ちゃんだよね?」

「だから珠樹じゃないって……それに彼女でも……」

「東雲紫乃ちゃんっていうのよね」


 事実を知っているはずの母も、戸惑う姿が面白いのかニヤリと口元を吊り上げる。だから教えたくなかったのだ。姉と母は、こういう風に冷やかしを入れてくるから。


「えっ東雲紫乃ちゃん? どんな女の子? 私聞いたことない!」

「とっても可愛くて清楚な女の子よ」

「ちょっと待って、お母さん紫乃のこと何も知らないよね」

「うわ、こいつ紫乃って名前で呼んでるよ。それにちょっと頬も赤い。ういやつめ!」

「小学一年の頃からの幼馴染なのよ!」

「それもう運命じゃん!」


 小学一年の頃からの幼馴染という部分は否定することができないため、口をつぐむことしかできなかった。興奮した朝美に肩を左右へ揺らされ、朝陽は大きなため息をつく。


 いつもは回避したいと思っている家族のじゃれあいだが、今の朝陽にとってその底抜けな明るさは、少しだけ救いとなっていた。紫乃への後ろめたさで張り詰めていた頬も、朝美のおかげで緩んでいる。


「だから訂正するけど、僕と紫乃は恋人同士じゃ……」

「あ、お父さん! 朝陽のやつ彼女出来たんだって!」


 いつのまにか、父もリビングへやってきていた。今日は休日であるから、いつものスーツ姿ではない。


 そんな父はチラと一瞬朝陽を見た後、いつものように視線を外し、どかっと朝美の対面へ座った。いつも通りの寡黙な父だった。


「祭りには呼べ。店の人手が足りないから、ちょうどいい」


 それだけ言った父は、母からいつもより大盛りのご飯を受け取って食べ始めた。食事中に騒ぐといつも注意をされてしまうあめ、さすがの朝美も口をつぐむ。


 しかし口は黙っていても、表情は黙ってはいない。朝陽を見てニコニコと微笑み、とても嬉しそうにしている。


 母も、うふふと笑っていて、朝陽はやり場のない視線をスクランブルエッグへ落とす。いつも静かな朝食の場は、いつもよりちょっとだけ騒がしかった。


 朝食後、皿洗いの手伝いをしていると、リビングの父へ聞こえないように、母が声をひそめて朝陽へ教えてくれた。


「お父さんあんなだけど、内心とっても嬉しそうにしてるわよ。お母さん、お父さんのことならなんでもわかっちゃうから」

「そもそも恋人じゃないし……お母さんなんであんな嘘つくのさ」

「別にいいじゃない、近い将来朝陽の恋人になるんだから。だから嘘はついてないわよね」

「いや嘘だからね。何言ってるの」


 また嬉しそうに微笑んだのを見て、朝陽はこれみよがしに大きなため息をつく。


 皿洗いを終えて出かける用の服に着替えた朝陽は、洗面所の鏡の前でいつもより長い時間身だしなみのチェックを行った。なんだかんだ言いつつも、すっかり大人っぽくなった紫乃のことを少しは意識しているのだ。


 それから母に言われて髪を整えに来た朝美にたっぷりからかわれた後、家を出た。家族のおかげで、少しだけ後ろめたさの和らいだ朝陽の足取りはちょっとだけ軽い。


 目的地へ向かいながら、朝陽は紫乃のことだけを考え続けた。

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