第4話 東雲紫乃

 今日の天気は雲ひとつない青空で、おそらく学生は海へ出かけているのだろう。浜織にはそれなりに大きな市民プールがあるが、少し歩けば海岸へたどり着くため利用する人は少ない。


 とはいえ内陸側に住んでいる人たちも車に乗って海へ遊びに来るため、土日は必然的に人が多くなり、満足に遊べるとはいえない。そういう時はやはりプールへ向かう学生が多くなる。


 海岸の方から吹く海風を浴びながら、朝陽は昨日紫乃と再会した場所に向かっていた。やっぱり珠樹も来れればよかったけど、部活があるなら仕方がない。吹奏楽部は基本的に週二日しか休みがなく、そのうちの一日が昨日だったのだ。


 きっと今頃彼女は、大きなチューバを両手で抱えて練習している。


 朝陽に音楽の良し悪しは分からないが、次回開催されるコンクールのメンバーに選ばれるほどだから、おそらく上手なのだろう。


 珠樹を誘うのはまた今度にしよう。心の中で、珠樹へ頑張れとエールを送った。


 考え事をしていると、待ち合わせ場所までもうすぐの場所まで来ていた。向こうの曲がり角を右へ行けば、待ち合わせ場所へたどり着く。


 緊張のせいか、朝陽の手は汗ばんでいた。心臓がドクドクと鼓動して、いつものように落ち着いてはくれない。


 一度立ち止まり、大きく深呼吸した。新鮮な空気が身体の内側をめぐり、次第に鼓動も穏やかなものになってくる。


 きっと紫乃の方が、自分より何倍も緊張していたはずだ。そう考えると、幾分か気持ちも落ち着いてくる。朝陽は小さな決意をして、曲がり角へ足を踏み出した。


 そこには、昨日とは違い白の涼しげな服に、膝のあたりまで伸びた黒のスカートをはいている紫乃がいた。


 すぐに紫乃は朝陽に気がつく。


 十年分の謝罪をするべく、朝陽は迷わず足を進めた。


「紫乃、」


 そして話を切り出そうとして、ようやく気付く。出しかけた言葉は喉の奥に引っ込んでしまい、もう沸き上がってくることはない。


 今はそんなこと、どうでもよかった。

それよりも目の前の女の子が心配で、朝陽は紫乃にかけよる。


 彼女はその綺麗な瞳から、大粒の涙を流していた。


「紫乃、大丈夫?!」


 駆け寄って、思わずその小さな肩に両手を添えた。持っていたハンカチを差し出すと、紫乃はそれを受け取って涙を拭き始める。


 その間に怪我をしているのか確かめたけれど、服の乱れも外傷も見受けられなかった。


 朝陽はもう一度、紫乃へ訊ねる。


「大丈夫……?」


 その問いかけに、彼女は小さくうなずいた。


 喉がヒクついて喋りづらそうにしているため、それが収まるまでジッと待つ。やがて小さく控えめな唇が、ゆっくり薄く開いた。


「嬉しいことが、あったの……」

「嬉しいこと?」


 訊き返すと、紫乃は再び小さく頷いた。


 涙を流したままの瞳で、紫乃は朝陽のことを見つめる。


 それだけで、朝陽の心臓は大きく跳ねる。


 彼女は、朝陽に抱きついた。


「朝陽くんに会えて、ほんとによかった……ごめん、ごめんね……本当に、ごめんなさいっ……」

「え、紫乃……大丈夫……?」


 紫乃は何度も、ごめんなさいと謝る。


 そんな彼女のことが心配になって、朝陽は優しくその頭を撫でてあげた。大丈夫、大丈夫だよと紫乃に言い聞かせる。


 しばらく泣き続けた彼女は、ようやく朝陽の胸から離れた。そしてその綺麗な泣き顔を直視してしまって、視線を何度も左右に揺らしてしまう。


「ご、ごめん……突然泣いちゃって……」

「あ、ううん。それは大丈夫なんだけど……それより、本当に大丈夫……?」

「うん……もう、大丈夫みたい……」


 紫乃は朝陽のことを見上げると、子どものような屈託のない笑みを見せて「おはよう、朝陽くん」と言った。


 せっかく大人っぽくなったのに、それは卑怯だ。


 バクバクと内側を叩く鼓動を必死に押さえつけて、朝陽も無理矢理な笑みを作る。


「おはよ、紫乃。それと、ごめん」

「え、どうして朝陽くんが謝るの?」


 綺麗な瞳が不安の色に染まる。


「実を言うと、昨日まで紫乃のことを完全に忘れてたっていうか……よく考えたら、紫乃は僕のことを覚えてくれてたのに、僕は忘れちゃってたから酷い人だなって」

「そんな、酷いなんてことないよ。それなら紫乃の方がもっと酷いし……だって、何も言わずに朝陽くんの前からいなくなっちゃったんだから……」

「あ、」


 その言葉を聞いた朝陽は、急に心の中に懐かしさを覚えた。いろいろなことが曖昧になっているが、どこかで紫乃のことをちゃんと覚えているのだ。


 その事実が嬉しくて、そして彼女も変わっていないのだということに気付けて、朝陽はようやく普通に笑うことができた。


 そんな朝陽を見て、紫乃は目を丸める。


「どうしたの朝陽くん?」

「ううん、やっぱり紫乃なんだなって思って」

「どういうこと?」

「うん、そのままでいいと思うよ」


 どこか釈然としない表情の紫乃を見て、また朝陽はくすりと笑った。笑い方も、自分のことを名前で呼ぶところも、きっと彼女はあの日のままだ。


 紫乃はリスみたいに頬を膨らませる。今はもう、涙は引いていた。


「それより、どうして僕のこと探してくれたの? すごい大変だったんじゃない?」

「あ、うん。ほとんど彩ちゃんのおかげで見つけることができたの。彩ちゃんっていうのは、最近できた友達だよ」


 紫乃に新たな友達が出来たことに喜びを感じた朝陽は、その報告が聞けただけで再会できてよかったと思えた。もうあの部屋の中で一人ぼっちの紫乃はどこにもいないのだ。


「朝陽くんに会いにきたのはすごい自分勝手な理由なんだけど、話した方がいいかな……?」

「そんな控えめにならなくてもいいよ。紫乃はずっと部屋の中にいたんだから、少しは自分勝手になっても誰も咎めたりはしないんじゃない?」

「そう、なのかな……」


 申し訳なさと恥ずかしさを感じているのか、紫乃は視線を左右へ振って話そうか話すまいかを思案している。急かしたりせずにそれを見守っていると、やがて覚悟を決めたのか、揺れていた瞳が朝陽の方へ定まった。


「朝陽くんが、大きくなったらいろんなものを見せてくれるって言ったから」

「へ?」

「だから、大きくなったらいろんなものを見せてくれるって……」


 紫乃は恥ずかしいのか頬を少し赤く染めて、目には涙がたまっている。


「朝陽くんは、覚えてないかもしれないけどっ……」

「あ、えっと……」


 正直なところ、覚えていなかった。記憶に自ら蓋をしたせいもあるのだろう。


 必死に自分の話した言葉を思い出そうとしても、水をつかむようにするりと手のひらから抜けていく。


 そんな大事なことを忘れてしまっていた自分を、朝陽は許せなかった。


「うん、私の言ったこと全部忘れて……子どもの頃の約束だし、もう期限切れだよね。というより、私のわがままみたいなものだし……」

「待って」

「え……?」

「そういう約束をしたなら守らなきゃ。これは義務感なんかじゃないよ。ちょうど昨日から、紫乃といろんな場所に行きたいって思ってたから」


 そう言って朝陽は笑顔を見せる。紫乃を安心させるように微笑んだつもりだったが、結局瞳からは涙が流れ落ちた。それは止まらずに、頬を濡らしていく。


「嬉しい……ありがとね、朝陽くんっ……」

「紫乃の泣き虫なところも、昔から全然変わってないんだね」

「だ、だって朝陽くんが嬉しいことを言うから」


 言いながら、紫乃は流れ落ちる涙を先ほど渡したハンカチで拭った。それを拭い終わってから、申し訳なさそうに朝陽のことを見上げる。


 目元は涙によって、ほんのり赤くなっていた。


「ハンカチすごい濡れちゃった。ちゃんと後で洗って返すね」

「そんなの全然気にしなくていいよ」

「ううん、ちゃんと洗って返す」


 涙で濡れたハンカチは、紫乃の提げていた白色のポシェットの中へしまわれた。再び彼女が朝陽のことを見上げると、今度は困ったように微笑む。


「ごめん。紫乃が誘ったのに、この後の予定とか何も決めてないの」

「お昼時にはまだ早いけど、何か美味しいものでも食べに行く?何か食べたら元気になると思うし」

「あ、それいいかも。実は紫乃、朝ごはん何も食べてないの」

「それじゃあ、美味しいピザのお店を紹介してあげるよ。といっても、僕も珠樹から教えてもらったんだけど」

「玉泉、さん……?」


 朝陽が珠樹の名前を出した途端、明るかった紫乃の表情に少しだけ陰りが差した。それは嫉妬とは違うもっと別の表情で、朝陽は紫乃が不安な気持ちを抱いているのではないかと推測する。


「もしかして、珠樹のことがちょっと苦手だった?」


 そう問いかけると、紫乃はふるふると首を左右に振った。


「玉泉さんって、良い人なんだよね。転校してきたばかりの朝陽くんを助けてくれたんだもん」

「そうだよ。もし珠樹がいなかったら、ここでの生活がすごく大変なものになってたと思う」

「そうなんだ……」


 紫乃は思案するようにしばらく俯いた後、今までの表情をごまかすかのように薄く微笑む。どこか無理をしていると朝陽にも理解できていたが、その理由がわからないため追及することは出来なかった。


「うん。紫乃も、玉泉さんと仲良くできるように頑張る」

「ほんとにいい人だから、すぐに仲良くなれると思うよ」

「仲良くなれるといいな……今日は玉泉さん、一緒に来ないの?」

「今日は誘ったんだけど断られたんだよ。部活があるんだって」

「そうなんだ」


 ホッとため息をつく紫乃は、どこか安心しているように見えた。珠樹みたいに初めての人でも遠慮なく話せる人もいれば、人見知りで上手く会話を出来ない人もいる。どちらかというと朝陽は後者のため、紫乃の気持ちを少しは理解することが出来た。


 だから今はダメでも、ゆっくり仲良くなっていければいいなと朝陽は思った。


「それじゃあ行こっか。ちょっと歩くけど大丈夫?」

「うん。歩くのは大好きだから」


 駅前のため、本当ならバスで向かってもいいような距離だが、紫乃と歩きながら話せればと思い、朝陽は黙っていることにした。完治したと紫乃は言っていたが、注意深く様子を見て、もし体調が悪そうであればバスを呼ぶかタクシーで帰ることも考えなければいけない。


 しかし元気そうに歩く紫乃を見て、そんな心配は杞憂なのかもしれないと思うようになっていた。


 道端に咲いている黄色のタンポポを見つけると、子どもみたいに走り寄って「これ、タンポポだよね!」と嬉々とした声を上げている。


 まるで初めてタンポポを見るかのような反応だが、もしかすると実物を見たのは初めてなのかもしれない。


「タンポポってすごい綺麗だね、朝陽くん」


 紫乃の隣で腰をかがめ、道端に咲いているタンポポを見つめた。花冠は花火のようにパッと開いていて、その黄色い部分を紫乃は指先でつついている。


「普段は景色に溶け込んで見逃しちゃうけど、立ち止まって見てみると、とっても綺麗だよね」


 紫乃と同じように、タンポポの花冠を指でつつく。つついた方へ茎がしなり、風に吹かれたかのようにゆらゆらと黄色が揺らめいた。


 朝陽がタンポポに触れたのは、小学生以来のことだった。


「きっと見逃しちゃうのは、タンポポ以外の景色も、とっても綺麗だからだよ」


 その何気なく発したのであろう紫乃の言葉に、朝陽はハッとさせられた。たしかに綺麗なのはタンポポだけではない。タンポポを見逃すというのは、周りの草木も同じく綺麗だからなのかもしれない。


 そういう考え方をしてみると、地面に生えている雑草の隙間から見える茶色い土も、朝陽の目には等しくハッキリと見えるようになった。


「紫乃の考え方って、とっても綺麗だね」

「え、そう?」

「うん。多分紫乃の目には、いろんなものがきれいに映ってるんだと思う」


 きっとそれは、紫乃が外の世界へ憧れを持っていたからだ。だからこそ、全てのものが美しく見えるのかもしれないと朝陽は思った。


 紫乃は朝陽の言葉にくすりと笑う。それから呟くように、言葉を漏らした。


「朝陽くんが、全部教えてくれたんだよ」

「えっ?」


 思わず朝陽は聞き返したが、紫乃は立ち上がり「なんでもないよ」と言って微笑みを浮かべた。夏の太陽に照らされたその表情は底抜けに明るくて、朝陽の胸を知らず知らずのうちに打ち付ける。


 しかしすぐに我に返り、朝陽も立ち上がった。その瞬間に一瞬立ちくらみが起きたのは、実は今日のお出かけが楽しみで、あまり眠れなかったせいでもあるのだろう。


 そんな朝陽を驚かせるように、犬が吠える「ワン!」という声が突然響いた。慌てて振り返ると、小学生ぐらいの女の子が白いマルチーズのリードを掴んで散歩させている。


 というよりマルチーズに引っ張られて、女の子が散歩をさせられているようだった。


「ちょっとアリス! お兄さんたちに吠えちゃダメだよ!」

「ワン! ワン!」

「だめだってばぁ!」


 アリスと呼ばれたマルチーズは、女の子に逆らうようにジリジリと紫乃の方へと近付いていく。そんなアリスに対して、彼女は逃げたり怯えたりしなかった。


 紫乃は迷いなく近付いて、アリスの頭を優しく撫でる。


「ほらほら、よしよし」

「くぅーん」


 彼女がそうしてあげると、アリスはすぐに大人しくなり、リードを引っ張ることをしなくなった。しかもそれだけではなく、目の前でおすわりをして、気持ち良さそうに尻尾を左右に振り回している。


「ねえ朝陽くん、この子かわいいね!」

「可愛いね」

「おめめがクリクリしてる! 毛もフサフサしてて、やっぱりかわいい!」


 すぐにアリスを手なずけてしまった紫乃を見て、飼い主である女の子は目を丸めていた。それもそうだろう。先ほどまで吠えていたのに、彼女が撫でたことによって突然大人しくなったのだから。


「おねえさん、すごい! アリスってば、全然私の言うこと聞かないのに!」


 女の子は紫乃に対して賞賛の声を上げる。


 しかし当の彼女は、たった今飼い主の存在に気がついたのか、ようやくアリスから視線を外した。


「あ、ごめ、ごめんなさい……勝手に触っちゃって……」

「? そんなの気にしないよ。おねえさん、すごいアリスに懐かれてるもん」


 紫乃は助け舟を求めるように朝陽を見る。


 そんな彼女のことを察して、小さく頷いてあげた。


「懐いてるみたいだし、もうちょっと触ってあげなよ。その方がアリスも喜んでくれると思うし」

「あ、うん。そうする……」


 それから紫乃は、先ほどよりも遠慮がちにアリスのことを撫でる。しかし我慢が出来なくなったのか、頭から頬へ、気付いた時には首元を優しく撫でて、幸せそうな表情を浮かべていた。


 五分ほど自由にさせた後、女の子もそろそろ行かなきゃいけないだろうと思い、紫乃に声をかけた。


「そろそろ行こっか。ありがとね、アリスちゃんを触らせてくれて」

「あ、いえ。こちらこそ、アリスを可愛がってくれてありがとうございます!」


 そう言って女の子は頭を下げると、先ほどよりも大人しくなったアリスと向こうへ歩いていく。その後ろ姿を眺める紫乃は、ほんの少しだけ物足りないような表情をしていた。


「それじゃあ行こっか朝陽くん」

「うん、そうだね」


 それからも紫乃は、道行く途中で綺麗なものを見つけては立ち止まり、それを眺めていた。たとえばそれは真っ青な空に線を引く飛行機雲であったり、真っ黒なな子猫であったり。


 当初お昼時にはまだ早いと思っていたが、目的のお店に着く頃にはお昼を少し過ぎたぐらいの時間になっていた。

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