『考え方』の掘り下げ

第35話 「中庸」という在り方について

 ご無沙汰していました。花咲樹木です。

 気付けば、前回の更新から一月ほど経っているのですね。


 現在は新しい物語を書き進めているのですが、お仕事の方も忙しくなってきており、連続的な更新ができるまでは、もう少し時間がかかってしまいそうです。

 連載開始まで、エッセイの方を少しずつ更新させていただきますね。


 とはいえ、雑記というか日記のような内容になってしまいそうですが……。


 可能な限り、物語を作る上での、考え方のきっかけになるよう書き連ねていきたいと考えています。


 さて、それでは初回の項目はこちら――物書きの精神は『中庸(ちゅうよう)』が大事、という事について。


 これまで何度も書かせていただいた内容ですが、物語とは「考えたことを言語化したもの」。

 つまり作者の頭の中が、そのまま物語に反映されていきます。


 例えばですが……、とある作者が『民主主義』を何よりも正しいと考えていたとしましょう。

(日本という国の在り方ですね。立憲君主制ではありますが、国の運営は選挙で選ばれた代表が努めるという、大多数の意見が、集団の代表意見として採用される主義)


 ですが物語の中では、色んな国の在り方を示す場合があります。

 例えばファンタジーの世界観(異世界)を描くならば、民主主義を政策として用いるのは難しくなっていきますよね。


 何故ならば、大概のファンタジー世界の国には「国王」がいて、「貴族」がいて、その立場にある者が国家を運営していく『君主制』を用いる場合が多いからです。


 国の代表が最初から決まっていて、その多くは一族による世襲、血筋によって保たれていくという形ですね。

 国民と貴族には生まれた時から身分の壁があり、大抵の場合は、死ぬまでその立場が逆転することがありません。


 貴族は、生まれた時から「偉い立場に就く」前提で育てられ、市井の生活を知らないままに要職に就く事が多くなってくるのでしょう。

 身分の低い立場の生活を経験していない人間が、そのまま国の運営をしていくのです。

(もし庶民の生活向上を考えても、知らないから何を不満に思っているのか分からない。というより、そんな事は考えない人の方が多い気はしますが)


 逆に庶民は、どんなに生活に不満があっても、その意見が国王や貴族に届く事は少ないでしょう。

 意見を届ける機会自体がないからです。地球の現代とは違い、ファンタジー世界にはネットもないし、民主主義でもない場合は、そもそも貴族たちが庶民の意見を聞く必要なんてないからです。

(世襲制は、支持率を気にする必要がない)


 ファンタジーの多くは、努力によって生活や身分の向上が大きく望めない世界なのです。

 魔物という独自の敵がいて、それを討伐できる強さが価値を持つ世界なら、地球とは違う立場や身分の上げ方がありそうですが……。まあ、それでも血筋ではない人は、基本的に国王にはなれません。


 日本という国に生まれ、そこで育っている場合は、大概その在り方を理解しきれません。

 その生活が身近なものではないため、実感が伴わないのです。

(花咲も想像しているだけで、分かっているとは言えません)


 生まれた時から身分に差があると分かっていても、努力で巻き返せる可能性が、日本にはどこか残されているから、と言えるでしょう。


 物書きは、その「実感していない制度」を物語で描く可能性があります。


『民主主義』で育ってきた人が、『君主制』の在り方を描くのです。


 だから、その仕組みを知る必要があります。

 制度のメリットと、デメリット。その在り方の中で生きる人間の考え方、どこに不満と幸せを感じるのか、知っていく必要があるのです。


 知らないことは、書けないからです。


 ちょっと極端ですが、「日本人という在り方(精神)を正しい」と描写するには、ファンタジー世界で生きる君主制の在り方を否定し、間違いだと物語の中で読み手に感じさせる知識が必要になってくる、という形ですね。


 物語の中で意見をぶつけ合い、最終的にはどちらかの意見が否定される。

 議論を起こす為には、どちらかの制度を正しいと考えるキャラが、最低ひとりずつ要ります。


 その為には、「君主制という制度を正しいと考えるキャラ」を登場させる必要も出てきます。


 でっち上げることは出来ますが、あまりに的外れだと、読み手から突っ込まれます。

 共感する必要はないが、理解する必要は出てくる、という考え方です。


 キャラクターは、どちらかの制度を傾倒していればいい……ですが、それをストーリーとして構築し、物語として描写する作者は違いますよね。


 物書きは、両方の制度のメリット、デメリットを理解する必要が出てきます。

 作者は――「一つの考え方に固持していては描写が狭くなってしまう」のです。


 こういった考え方により、「中庸=どちらでもない」という在り方は、物書きに置いてとても大事だという結論になっていきます。


 物語に出てくるキャラクターは、色んな人間がいます。

 自分と同じ思考原理を持つキャラと、持っていないキャラ(自分には理解できない考え方)の両方を描く必要が出てきます。


 理解できないから書かない、では登場キャラに幅が出ていきません。

 みんなが同じ考え方、みんなが同じ知能指数を持っているなんて、あり得ないので……「色んな考えや、思想を自分の中に仕舞い込む」のです。


 思想や制度は、立場によって「正しい」が変わっていきます。


 行動・思想・制度というのは不思議なもので、それによって「幸せになる人間」が必ず出ていきます。

 不幸になろうとして生きる人間がほとんどいないから、なのかなとは思うのですが……だからこそ、どんなに理解できなくても、思想や制度のどこかには必ずそれで幸せになる人がいる、という事を頭の中に置いておかないといけません。

(幸せになる一方で、その出来事を不幸に感じる人も)


 悪徳宗教にだって、それによって救われている人がいるという事実があります。

 何故なら、批判する人にとって悪徳だと感じているだけかもしれない、という考えも捨てきれないからです。

(信仰を描く難しさは、ここにあります。基本的に宗教は、他の宗教を受け入れません。だからこそ思想の違いにより、批判や否定が起きます)


 現実世界で争いが起こる理由は、その大半が「自分の意見を正しいと感じる人が多いから」です。


 作者は、物語の展開でそれを意図的に起こす存在です。


 互いの思想を理解し、コントロール下に置く必要が出てきます。

 一つの考え方だけを正しいと感じていたら……「もう一方の考え方」に説得力がなくなります。

(でっち上げの部分が多くなればなるほど、どこかで無理が出てくるのです)


 ――『考えが偏っている』という在り方が、物書きに置いて一番恐いものなのだと、少しでも感じてもらえれば、花咲の示したいことが伝わっています。


 物書きという人種は、とても特殊です。


『中庸』という在り方が、色んなキャラクターを描写する上で重要になってくるのでしょう。


・何かを「好き」だと感じたら、それを「嫌い」だと感じる人もいる、という事を同時に考えましょう


・何かを「正しい」と感じたら、それを「間違い」だと感じて、違う考え方を正しく思う人がいるんだと頭の隅で思いましょう


 そうすれば……、誹謗中傷という否定の感想も、何だか「一つの意見」として受け止められませんか?


 そういう考え方をする人もいるんだ。


 どうして、そう思ったんだろう?

(自分と感じ方が全然違うなあ……)


 ――その人たちに同じ考え方を理解してもらうには、どう描写すればいいだろう。


 その思考を深めていけば、いつしか描写の一つひとつに『説得力』が出てきます。


 文章を書く際に曖昧な意図がなくなっていき、物語の展開や描写により、キャラクターの感情を読み手に上手く伝えられるでしょう。


 という訳で、今回は花咲が心がけている『中庸』という精神状態の置き方についてでした。


 ここで、反対意見を一つ!


「物書きは中庸が大事だ」と感じる精神もまた、考えが偏っているのではと掘り下げていくと、なんだか少し頭の中がぐるぐるしてきて、ちょっと面白くありませんか?

(結局、この世界にたった一つの正解なんてどこにもないという事ですね。いや、あるのかも。ふふ、どっちなんでしょうね)


 当エッセイが創作活動をする上で、何かの参考になったら嬉しいです。

 ではでは、また次回の更新まで、少しばかりお待ちいただければと存じます。


 ぺこり。<(_ _)>

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