第二章

第二章

病院で、診察が終わって薬をもらい、杉三たちは、家に戻ってきた。

杉三は食堂で待機している。美千恵が、空き部屋から食堂へやってきて、椅子に座る。

美千恵「少し楽になったみたい。眠ってるわ。」

杉三「じゃあ、このまま寝かせておいてあげよう。」

美千恵「あんたも、そうやって優しいところがあるのねえ。」

杉三「ところで母ちゃん、僕は隠し事のできない人間なんだが、、、。」

美千恵「いわなくてもわかってるわよ。あんたが、そうなってるの。」

杉三「さすがだ。じゃあ、聞いて。昨日、彼から聞いたんだけど、彼の使えてる屋敷に、美咲ちゃんという女の子がいるらしい。その子が、お母さんとうまく行ってないらしいんだよね。」

美千恵「なんでしょうね。トラブルでもあったかしら?」

杉三「ちょっとしたことなら、あんなに深刻には言わないと思う。僕は、誰かに相談しようと言って、しまいにしたの。で、翌日になってみたら、彼が体調崩してしまったから。」

美千恵「きっとあんたに話して安心したんじゃない。安心して体調が悪くなることは結構あるわ。」

杉三「ずっと、一人で悩んでいたのかな。」

美千恵「まあ、使用人というのは、家庭の中を見ているけど、関われない立場だからね。だから、辛いのかもしれないわね。」

杉三「そうか、なんだかかわいそうだな。」

美千恵「ええ。結構つらい仕事でもあるわよ。ああいう仕事って。彼が、目が覚めたら、食事だすから、その時に聞いてみましょうか。」

杉三「そうだね。」

美千恵「あんたも、他人のことであんまり心配しないでちょうだいよ。」

杉三「わかったよ。」

美千恵「お願いね。」

インターフォンが鳴る。杉三がドアを開けると、蘭が不服そうに待っている。

蘭「杉ちゃん、買い物は行かないのか?」

杉三「僕はちょっと、、、。」

蘭「変なの。毎日必ず、買い物に行く時間を厳守しすぎるくらい守る人なのにさ!」

と、腹を立てて、家の外へ出ていく。

美千恵「蘭さんごめんね。」

杉三「今は、彼を何とかしてやるのが先のような気がしてさ。」

美千恵「とにかく、彼のいうことが本当にそうなのか、確かめる必要もあるわよね。」

杉三「でも、公園の池の前で倒れていたのが、動かない証拠じゃないの。」

美千恵「あんたって人は、一度何か思いつくと、絶対意思を曲げない子ね。」

杉三「そうだよ。」

美千恵「そうだよって、いいんだか悪いんだか。」

杉三「お母ちゃん、いらないご飯とかある?おかゆを作りたいんだ。カレーではさすがに食べにくいだろうからさ。」

美千恵「ああ、少しあるわよ。冷凍庫の中に冷凍したのがあるから、それで食べれば。」

杉三「どうもありがとう。」

と、車いすで台所に移動する。そして、戸棚から鍋を取り出して、おかゆを作り始める。

杉三「やっぱり、全粥のほうがいいのかな。そのほうが食べやすいだろうからさ。でも、ただの白がゆだとつまらないな。」

と、冷蔵庫から卵を取り出し、丁寧に解きほぐす。

杉三が、おかゆにコンソメを入れ、卵を割り淹れた時、空き部屋でガタンという音がする。

美千恵「あ、目が覚めたのかな。」

杉三「今手が離せないの。様子見てきてやってくれる?」

美千恵「わかったわ。」

と、椅子から立ち上がって空き部屋に移動する。


空き部屋。美千恵は、広一の枕元に正座で座る。

美千恵「ご気分はどうですか?よく休まれましたか?」

広一は、起き上がって布団に座っている。

広一「ええ、大丈夫です。それよりも、杉ちゃんとの約束、すっぽかしてしまって、すみませんでした。」

美千恵「いいのよ。池本先生も、かなりひどいと言ってたでしょ。そんなわけなら、そうなることだってあり得るわよ。今、杉三がおかゆ作ってるから、もし、気が向いたら食べて。」

広一「ええ、ありがとうございます。」

美千恵「ちょっと聞いていいかしら。」

広一「ええ、何なりと。」

美千恵「あなた、使用人として働いてるっていうけれど、どこで働いているの?」

広一「ああ、雇われている家ですか。あの、安中というお宅ですよ。ここのあたりではあまりない苗字であるから、すぐわかると聞きましたよ。」

美千恵「安中?安中って、結構あるわよ。どこにあるの?」

広一「ええ、堀プラスティック工業のほうですよ。」

美千恵「あんな遠いところ?」

広一「はいそうです。」

美千恵「あんな遠いところから、公園まで結構距離があるわよね。そこからどうやってきたの?」

広一「走ってきました。」

美千恵「でも、普通の人だって、堀さんから歩いてくることはまずしないわよ。もし、そうなら、車を使うはずだと思うんだけど?」

広一「僕は、この体なので、車の免許は取れないのです。」

美千恵「自転車は?」

広一「自転車にものれません。」

美千恵「じゃあ、タクシーを呼ぶとかは?」

広一「それもありますが、でも、あの時はひどく気が動転していて、タクシーを使おうとは思いませんでした。」

美千恵「そんなに気が動転するほど、一体何があったの?それほど大変な用事だったの?」

声「おかゆができたぞ!食べて!」

美千恵「もう少し待って頂戴。あと少し聞きたいことがあるから。」

声「聞きたいことって何さ。」

美千恵「あんたもこっちへ来たら。」

声「わかったよ。」

と、車いすの音が近づいてくる。しばらくすると、杉三が入ってきて、美千恵の隣に車いすを止める。

美千恵「ごめんなさいね、脅かしているわけじゃないわ。でも、あなたがなぜ、公園の池の前で倒れていたのか、どうしても理由が知りたいのよ。何があったの?仮に、あなたが、堀プラスティックの近くで働いていたのなら、少なくとも、一キロメートル弱は、走らなければいけないことになるわよね。どこに、向かおうと思ってたの?」

広一「ええ、お話します。あの、田子の浦港の近くに、港公園ってありますよね。そこに、子育て支援センターというか、支援団体があるのはご存じないでしょうか。」

美千恵「子育て支援?」

広一「ええ、あるんですよ。そこに行こうと思ったんです。」

美千恵「しかし、港公園までその体で走っていこうと思ったの?」

広一「はい。そうしてしまったんです。」

美千恵「ちょっと、信じられないなあ、、、。池本先生がここにいたら、すごい剣幕で怒るんじゃないかしら。」

広一「でも、僕にはそうするしかなかったんです。ただの使用人であり、車にも乗れないし、自転車にも乗れないし、歩いていくしか方法はない。だから、無我夢中で飛び出していきました。でも、途中でわからなくなってしまったんですよ。」

美千恵「わからなくなったって道が?」

広一「いえ、意識がです。」

杉三「なんだか、アテナイの伝令、フィリッピデスみたいだな。あの、マラトンの戦いで、われら勝てりと叫んだ人ね。」

美千恵「杉三も、変な事実と一緒にしないの。それほど、大変なことがあったということなんだろうけど、倒れるまでということが私は腑に落ちないのよ。」

広一「いくらそう思われても結構ですよ。僕が、使用人として安中家に雇ってもらっているのも変だと思われるほうが多いし。まあ、信じていただける可能性は低いんじゃないかなと思っていましたから。本当は、今すぐにでも屋敷に戻って、また仕事したいですけど、病院に一度行ってしまったら、もうできなくなっちゃいますよね。」

美千恵「ああ、だめだめ。使用人の仕事に戻るなんて、言語道断だって先生は言ってたわよ。あなた、家族はいるの?いれば、連絡先を知らせるようなものを持ってるわよね。」

杉三「少なくとも、スマートフォンとかは持つでしょ。誰かいれば。」

広一「おりません。僕は、このまま一生孤独の身です。それに、スマートフォンももっておりません。連絡する相手もいないので。安中様の屋敷で、ほぼ住み込みで働いているだけですから。」

美千恵「不思議ねえ、そんな人が、体をぼろぼろにするまで働いて、それにさらに我が身を滅ぼすというか、自殺行為に近いことまでやらかすなんて。」

広一「でも、そうしなかったら、、、あ、、、。」

と、一瞬顔をしかめる。

杉三「ああ、またやる。母ちゃん、尋問は少しお休みにして、おかゆを食べてもらおうよ。」

広一「いえ、何でもありません。お続け下さい。」

美千恵「いいえ、ダメよ。あなたに無理をさせたら、私たちが、池本院長に怒られる羽目になるんだから。もう、あんまり無理しないで、体を休めていって。」

広一「でも、この部屋も出ないと。」

杉三「いや。この部屋は、空き部屋だから、どうせ誰も使ってないんだし、何日でも使ってくれていいよ。」

広一「申し訳ありません。」

美千恵「ここへもってきてあげるから、おかゆでも食べて、元気をつけてね。」

と、すぐに移動できない杉三の代わりに立ち上がり、台所に移動していく。そして、おかゆの鍋と茶碗と匙を乗せた盆をもって戻ってくる。

美千恵「杉三が作ったのだから、すごく豪華なおかゆになっていると思うけど、まあ、味はいいと思うから、食べて。」

と、彼の枕元に、おかゆの盆をおく。

広一「ああ、ありがとうございます。いただきます。」

茶碗を美千恵から受け取り、匙をもっておかゆを食べる。

広一「おいしい。」

杉三「まあ、ありあわせの卵とコンソメの地味なおかゆだけどね。」

広一「いいえ、地味ではありません。本当に、カレーといいおかゆといい、杉ちゃんの作ったものは、おいしいですよ。杉ちゃんも、足さえ悪くなかったら、誰かの家に勤められそうですね。」

杉三「おあいにくさま。僕は、文字を読み書きができないから、働くのは無理なんだ。」

広一「読めないんですか?」

杉三「うん。本当に、読めないんだ。書くこともできないし、歩くこともできない。だから、できることを一生懸命やる。それでお返しをしようと思って。」

広一「それで杉ちゃんは、お料理も上手なわけですね。」

美千恵「全くね。偉いんだか馬鹿なのかわからないけど、何でもできることに目を向けちゃって、それを夢中になるまでやるのよね。」

杉三「ほかに、和裁もできるよ。大島大好きだよ。着物一枚くらいならすぐに縫えるよ。あとは古筝も少し弾けるかな。へたくそだけど。」

美千恵「ほら、あんまり大っぴらに言うもんじゃありませんよ。できることは確かに自信につながるのかもしれないけど、そればっかり言っていると、かえってねたまれるわよ。」

杉三「ねたむやつは勝手にそうさせておけばいいさ。そっちに目を向けたら、人生何も楽しくなくなっちゃう。それよりも、自分ができることの喜びを忘れないでいるほうがいいんじゃない?人生はやっぱり、楽しまなくちゃ。」

美千恵「そうだけど、相手がどんな状況の人なのかも良く考えてから発言しないと、大変なことになる可能性もあるわよ。あんたは、空気読んで、発言するなんて、全くできないんだから。もう45なんだし、少しは気をつけなさい。」

広一「えっ、杉ちゃんもう四十五ですか。見えないなあ、、、。」

美千恵「まあ、頭が年齢にあってないから、自然に体も心も若く見えちゃうのかしらね。」

広一「いえ、そんなことありません。できることにいつでも目を向けられるってのは、すごいことだなと思います。大体の人は、できないことのせいでつぶれてしまうことが多いんですから。先ほど、古筝を弾いてらっしゃるっておっしゃってましたよね。」

杉三「言ったよ。」

広一「恥ずかしながら、僕も若いころ弾いていたんですよ。まあ、高山流水とかそういう簡単な曲しか弾けないですけど。あの、甘くてあいまいな音に、何か人間的な魅力というものがある気がして、一時すごくはまりました。確かに、ぴったりと正確に調弦するのは、不可能といいますか、絶対音感のある人は、とっつきにくい楽器ではあるなとは思いましたけど。」

杉三「何、古筝をやっていたの?」

広一「ええ。一応、はまりすぎて師範免許までとったんです。」

美千恵「師範免許持ってるんだったら、そっちを職業にして生きなさいよ。使用人なんて、そんな身分捨ててさ。」

広一「いえ、もう、大昔の話ですので。」

美千恵「そうだけど、あなた、まだ三十代でしょ。それなら、まだまだ可能性はあるわよ。もう一回古筝に再チャレンジしてみたら?」

広一「もう、無理です。まあ、楽器ならありますけど、、、。でも、鉄の絃ですから、とっくに錆びてしまっているのではないでしょうか。」

美千恵「もったいない。この杉三でさえも一人で絃を張り替えて平気な顔して弾いているんだから、せっかくだから、古筝教室で働くとか、家で古筝を教えるとか、そういう事をしなさいよ。それが、使用人なんて!」

広一「いえ、それよりは、落ちこぼれて、こうなるほうが、はるかに多いですよ。みんなそういってくれますけど、そうなるための条件を僕は満たしていなかったと思います。」

美千恵「あんまり達観しないで、若いうちはぶつかっていったほうがいいんだけどね。」

と、大きなため息をつく。


杉三たちがこうしておしゃべりしている間に、蘭は、製鉄所に来ていた。

製鉄所の応接室で、水穂と懍が蘭の愚痴を聞いていた。

水穂「へえ、杉ちゃんに断られたか。珍しいな。」

蘭「全くだ。杉ちゃんは、いつも僕を頼ってくるのが当たり前なのに。」

懍「蘭さん、してやったのにと考えるのは間違いです。そうすることによって、おごりというものが発生してしまう。人間にとって一番致命的なのは奢りですからね。」

蘭「そうですけど、青柳教授、いつも僕を頼ってくる杉ちゃんが、急にどこから来たのかもわからない男に、ああだこうだと手を出しているのが、妬ましいといいますか、なんといいますか。」

水穂「蘭。杉ちゃんにかまってもらえなくて、寂しいんじゃないのか?」

蘭「いや、そんなことは、、、。」

と、額の汗を拭く。

水穂「図星だろ。」

蘭「余計なことを言うな。」

水穂「ごめん。」

懍「それよりも、杉三さんが、手をかけている、その正体不明な男というのが一体どんな人物なのか、気になるところですね。」

蘭「えっ、教授も興味あるのですか?」

懍「もちろんです。だって、杉三さんが、手をかけるとなれば、よほどの事情を抱えている人でなければ、そうはしないでしょう。それは今までの経験からもわかります。」

蘭「なんで青柳教授まで、、、。あーあ、誰も僕の気持ちをわかってくれる人はいないか。」

水穂「ほらやっぱり君はやきもちをやいている。」

蘭「そんなことないよ。」

懍「いいえ、蘭さん、もっと素直になりましょう。その、素性のわからない男とは、どんな人物なのでしょうか。」

蘭「ええ、杉ちゃんが、お母様と買いものにいった帰りに偶然発見したのです。ショッピングモールの近くにある、公園の池の近くで倒れていました。最初は、もう死んでいるのかとも思ったのですが、杉ちゃんがまだ生きていると確信して、そのまま杉ちゃんの家にずっといるみたいなんです。なんでも、僕とよく似た病気をしているらしくて。倒れていた時、胸を押さえていたのを、僕も見ましたから。」

水穂「なるほど。で、素性も何も語らないわけね。」

蘭「はい。杉ちゃんたちは、一生懸命語らせようと思っているようですが、どうもそれはダメなようです。」

懍「杉三さんは、彼を何とかして助けようとするでしょう。そういうところが杉三さんです。例え文字の読み書きができないで、不自由なところがあっても、それが彼ですから、消すことはできませんよ。次は僕たちが、彼の手伝いをすることになるかもしれませんね。」

蘭「でも教授、彼のような素性がわからない男を、やたらに助けてもいいのでしょうか。僕ら自身の安全のためには、関わらないほうがいいと思うときもあるのですが。」

懍「いいえ、蘭さん、それは、文明人のしでかした大きな間違いです。本来人間は、そのような感情を持つべきではなりません。」

蘭「そうですか?」

懍「はい。例えば、鉄が当たり前のようにある地域では、ほとんど機械で鉄を生産していますから、あまり人とかかわらなくてもよいのかもしれませんが、鉄の文化が普及していない地域では、まず、そこの住民とかかわることから始めないといけません。そうしなければ、鉄なんて作ることはまずできませんからね。」

蘭「すみません。僕の間違いでした。」

水穂「それに蘭だって、マシーン彫りができないんだから、かかわりを持つことは大切だと思うよ。」

蘭「すみません。でも、その男が、杉ちゃんに悪影響を及ぼさないか心配で。」

懍「よくてもわるくても、自分のものにしてしまうのが彼のやり方でしょうね。」

蘭「はい。」

懍「いずれ、杉三さんは、僕たちが加担しなくても、その男性の真実を知ってしまうのではないでしょうか。彼はそういう人間で、僕たちもそれを何回も目撃しております。しかし、彼は、それをしても、文字を読むことができないわけですから、それからが、もしかしたら僕たちの登場する出番になるのかもしれませんね。」

水穂「その時を待つということですか、教授。」

懍「待っても待たなくても、それは来てしまうのが、杉三さんですよ。」

水穂「ああ、なんとなく、僕も意味が分かった気がしました。」

蘭「ちょっと待って、水穂は、わかっても僕はわからないよ。僕は、杉ちゃんに対してどう行動すればいいんだろ。」

水穂「簡単なことさ。まず、そのまま放置しておけばいいんだ。」

蘭「でも、心配だし。」

水穂「その、でもを繰り返すのも、蘭の悪いところだよ。たまには杉ちゃんに任せてみろ。」

懍「そうですよ、蘭さん。」

蘭「そうですか、、、。」

と、しょんぼりと肩を落として、大きなため息をついた。








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