第8話【第二章】

「そうじゃ!」


 威勢のいい声と共に、ダン! という打撃音がした。神様が何か思いついたらしい。同時にこたつのテーブルを拳で叩いたのだろう。

 それだけだったらなんともないのだが、あろうことか、まだ中身の入っていた湯飲みが傾き、俺の顔に熱湯が降ってきた。


「うわっ!?」

「おお、すまんな、トウヤ」


 相変わらず、熱さによる痛みはないし、火傷にもなっていないようだ。が、服に染み込んだ液体の気持ち悪さまでは、自然に取り除かれるわけではない。


「何すんだよ!?」

「まあまあ、そうカッカするな」

「む……」


 俺は素直に引き下がる。テレビの時刻表示を見ると、たっぷり八時間は眠っていたらしい。

 そんなテレビの電源を切りながら、神様はずいっと上半身を乗り出してきた。


「いいことを思いついたんじゃ、聞いてくれんか?」

「まあ、聞くくらいなら……」

「よし!」


 神様は一つ頷いてから、余計に身を寄せてきた。


「あー、なんか近いんだけど。小声で話さなきゃならないようなことなの?」

「いや、そんなことはない」

「あっそ」


 俺は身を引き、掛布団の上から片肘を立てて寝そべった。


「で? どうしたんだよ」

「トウヤよ、おぬしには地上界で、三大勢力それぞれに体験入隊してもらう!」

「……へ?」

「これこれ、『へ?』などと間抜けな返答をするでない。これにはきちんとした理由があってのう……」


 神様曰く。

 俺や地上界の人間がこのフロア――天上界にいられる時間というのは、限られたものであるらしい。つまり、このままグダグダしていると、強制的に地上界に落とされてしまうのだという。


「そうなれば、おぬしは再び地面にめり込むことになる。そんな無様な姿、これ以上晒したくはあるまい?」


 うむ。まあ確かに。


「それに、おぬし自身も気づいておるだろう? 自分の胸中に、冒険心が芽生えていることを!」


『冒険心』――その言葉に、俺ははっとした。急いで身体を起こし、姿勢を正す。


「神様、どうしてそんなことを……?」

「おぬしが眠り呆けている間に、調べさせてもらったわい。随分とネクラな奴だったんだのう。寝て起きて食べる。それ以外はゲームとネットくらいにしか世界に触れようとはしておらなんだ。そこに安息を見出しつつも、飽きてきつつもあったのではないか?」

「そ、それは……!」


 俺の背筋に『何か』が走る。上手く言葉にはできないものだが、電流が腰から頭頂までを駆け抜けるような感覚だ。オーラの雷撃魔法に似たようなものなのかもしれない。

 だが、この『何か』は不快なものではないし、ましてや痛みでもない。強いて言えば、興奮だ。

 俺の人生、ニートになった過去、そんなものをいっぺんに吹き飛ばす鍵が俺の手中にある。

 そして眼前には、その鍵が差し込まれるのを今か今かと待ち構えている扉がある。


 ――この期に及んで、扉を開かない馬鹿がどこにいる?


 神様に上手く乗せられてしまった、といえばそれまでかもしれない。だが、それでも俺の『生きる』ことに対するスピリットに火がついたのは事実だ。


「神様」

「なんじゃね、トウヤ?」

「俺はあんたを見くびってたよ……。俺を地上界に、いや、異世界アドベンチャーにいざなってくれ!!」


 すると、神様はふっと唇の端を上げ、立ち上がって両腕を広げた。ちょうど万歳をするかのように。


「よく言うた! クラノウチ・トウヤよ! おぬしが行こうとしているのは、飽くまで戦乱の世じゃ。危険な目に遭うかもしれぬ! それでも行こうと申すのだな!?」

「お、おお、おうよ!」


 神様のテンションにはついていけなかったが、どうやら当人は喜び勇んでいるらしい。


「では、わしは初めに、おぬしを武闘派の元に――サン・グラウンズのそばにいざなおう!」


 すると、神様の背後に金色の扉が現れた。アーチを描くような、中央から押し開けるタイプの重厚な扉だ。


「この先は、地上界に通じておる! 武運を祈るぞ、トウヤ!!」

「任せろ! 俺の防御ステータス、敵連中の瞳にしっかり刻み込んでやるぜ!!」

「では、いざ!!」


 こうして俺は、再び地上界への扉をくぐった。


         ※


「あっははははははは!!」

「……そんなに笑うことねえだろ、サン」

「だってさトウヤ、まさかまたあんたが空から降ってくるなんて思わなかったんだもの! 神様も意地が悪いよねえ、あははは!」


 地上界への扉をくぐったまではよかった。が、その先に広がっていたのは野原ではなく、いや、何もなかった。

 足を踏み外す形になった俺は、そのまま落っこちたのだ。最初に地上界に降りてきた時のように。

 案の定、俺は大の字で地面にめり込み、サンたちにロープで引っ張り上げてもらう羽目になったのだ。

 今俺たちがいるのは、武闘派の本拠地のテント群の一つ。俺が元いた世界での、遊牧民のそれを連想させる半球状の白い布製の建造物。見た目はこじんまりしているが、中は意外と広い。

 ここはサン専用のテントらしく、俺とサン以外は誰もいない。入り口で近衛兵と思われる兵士が、槍と甲冑を身に着けて佇んでいる。

 そんな中で、俺たちは低いテーブルを挟んで語り合っていた。


 すると、微かに出入り口のカーテンが開いた。

 入ってきたのは、小柄で華奢な女の子。流石に甲冑は身に着けていないが、代わりに民族衣装をまとっている。モンゴルとかチベットとか、あのあたりの雰囲気だ。両手で盆を持っている。


「おっと、サンキュ」


 労いの言葉をかけるサン。少女は微かに笑みを浮かべてから、俺とサンの前にマグカップ状のものを置いた。中には白い液体がなみなみと注がれており、湯気が立っている。

 どうやら少女は、もてなしの品を持ってきてくれたようだ。俺とサンにそれぞれ視線を合わせてから、盆を胸に当ててお辞儀をし、退室していく。


「今のは?」

「ん? ああ、私の妹だ。ランって呼んでやってくれ」

「分かった。それじゃ、ありがたく」


 俺は早速、カップに手を伸ばした。鼻を利かせてみると、豆乳のような香りがする。

 ゆっくりと口をつけると、確かに豆乳そっくりの味がした。微かに甘さがある。


「お、美味いな、これ」

「お気に召したかな?」


 頷いてみせる俺。サンは片腕を椅子の背もたれの向こうに回し、とてもリラックスした様子だ。どこからか、小鳥のさえずりが聞こえてくる。実に穏やかな午後だ。いや、もしかしたら午前中かもしれないが。

 そんな雰囲気に心を穏やかにしつつ、俺はサンに一つ尋ねた。


「妹さんに会いに行ってみてもいいかい? お礼を言いたいんだが」


 すると、サンの動きが止まった。固まってしまったのだ。


「おい、どうした?」


 そっとカップをテーブルに戻すサン。カタン、と軽い音がする。しかしそれに反して、サンのルビーのような瞳には、今は猛々しい炎が宿っているように見えた。

『どうしたんだ?』と尋ねようとしたが、どうやらそれも叶いそうにない。怒りとも悲しみともつかない負の感情が、今のサンには宿っている。とても声をかけられる状態ではないのだ。

 が、サンは情報開示に抵抗はないらしく、ゆっくりと語り始めた。

 両の掌を膝に当て、ふーーーっ、と長いため息を一つ。

 ゆっくりと口を開く。


「ランは、喋れないんだ」


 なんだって? 俺は僅かに身を乗り出した。それに対し、気まずそうに視線を下げるサン。彼女はややあってから、俺と目を合わせた。


「お前には見えなかったかもしれないが……。ランは首に怪我をしているんだ。それで、言葉を話せなくなった」

「そ、そりゃあ……」


 一体何があった? 事故か?

 そんな俺の安易な考えは、次の一言で一瞬で消し飛んだ。


「ランは、機甲派の連中に撃たれたんだ」

「えっ……」


 呆ける俺に、カップを両手でそっと包み込むサン。


「さっきの神様の前での交流は、お前には平和な遣り取りに見えたかもしれないがな、トウヤ。我々武闘派は、機甲派や魔術派と矛を交える敵同士なんだ。当然怪我人も、死人も出る」

「そ、そりゃあ……」


 死傷者が出るって? それは当たり前のことだろう。彼らは武人であり、互いを敵視しているのだから。だが、俺はその事実から自然と目を逸らしていたようだ。 思えば、この異世界でサンやエミやオーラが、互いに戦っている姿を見たことすらないのだ。影人との戦いは俺も経験したが。

 だが、彼ら彼女らが実際に殺し合いをしているとは――。そんな当たり前の事実が、突然眼前に立ちはだかったように俺には思われた。


「じゃ、じゃあ……、今も戦争中、なんだな?」


 サンは無言で頷いた。

 俺はランのことから話題を逸らすべく、何気ない風を装ってサンに尋ねる。


「お前らって三大勢力、って言って戦ってるんだよな? 今はいいのか?」


 するとサンはパッと顔を上げ、俺と目を合わせた。先ほどよりは落ち着いた様子である。


「ああ、敵襲があれば見張り台の奴が――」


 とサンが言いかけた、まさにその時だった。

 カーン、カーンと鋭い鐘の音があたりに響き渡った。するとサンは、一瞬で表情を戦闘時のそれに切り替えた。

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