第15章 先輩の恋にあやかりたい
12月中旬。17時45分。
閉店15分前、岡野文具店のガラス戸の前に人影が現れた。ずいぶん長身だ――昨日電話で万年筆のインクがあるかどうか問い合わせてきた人物だろう。閉店時間を聞いて、間に合うようにうかがいます、と言っていた。こちらは多少時間が過ぎても問題ないと言っておいたのだが。
入ってきて会釈を寄こした青年の顔を見て、岡野は驚いた。そばにいた妻もまあ、と声を上げる。妻の場合は、映画やテレビに出ていそうな二枚目顔を見て思わず発したのだろうが――岡野は彼に見覚えがあった。っていうか、この顔は一度見たら忘れねえよな。
「ねえ、お兄さん、前に浦辺さんとこでアルバイトしてたわよね」
「はい」
あ、女房も気づいてたか。彼は二軒隣のクリーニング屋の親父が自慢していた“弟子”だ。
「もう、10年くらいになるかな」
岡野が言うと、青年がうなずいた。当時、彼は高校生だったと思う。時々ここにも文房具を買いに来てくれていた。名前は――浦辺の大将は何て呼んでたかな。そう、健司だ。
「大将のとこには?」
「この後、ご挨拶に行きます」
「喜ぶだろうな、あんたを自分の息子みたいに思ってるんだから」
健司がアルバイトをしている時も、それを“卒業”した後も、クリーニング屋の夫婦は何かにつけ彼の話をしていた。数年に一度しか家に顔を出さない実の息子の代わりに、愛想はないがよく働く彼の方を息子だと思いたがっているようだった。だから彼が大学院を出て、今、どこかの研究所で魚の研究をしているところまでは、岡野も知っている。
万年筆のインクカートリッジを袋に詰めながら岡野は言った。
「万年筆は時々、ペン先に水を通してやるといいよ。その後、よく拭いて乾かして」
言った後でしまったと思った。
「悪い、そんなこと知ってるよな」
「いえ、ありがとうございます」
真面目な顔で礼を言ってくれたが、たぶん彼はやり方を知ってて、ちゃんとやっている。彼が身に着けている古い腕時計――家族から譲り受けたものか、良い品だ――は大事に使っていそうだし、衣類の手入れは浦辺の大将が徹底的に仕込んだと話していた。特別高級品でもなさそうなコートやスーツを着ていてもきりりとサマになっている様子からして、10年近く経っても師匠の教えは守られているらしい。
インクの代金を払おうとして、健司は何か思い出したのか、言った。
「便箋で何かいいの、ありますか」
「便箋? 万年筆で書くのでいいのかい」
「ええ」
次の言葉は、少し言いにくそうに言った。
「受け取った女性に、喜んでもらえそうなのがあれば」
ほう。ってことはラブレターか? 冷やかしたい気持ちを岡野は抑えた。妻がまた、まあ素敵、と声を上げたので、じろりとにらむ。
浦辺の大将はこのこと知ってんのかな。“二枚目面して愛想笑いひとつできねえ奴だから、看板男にゃ使えねえ。あれじゃあ、女っ気がまるでねえのも納得だよ”なんて嬉しそうに文句垂れてたけど、ちゃんと人並みに恋愛してるみたいだぞ、あんたの弟子は。
健司によると、彼女の方は冬の花々に雪の結晶と、今の季節に合わせた便箋・封筒で手紙をくれるのだと言う。
「ありきたりな安い便箋に書くのが、申し訳ない気がしてきまして」
相手もくれるなら文通か。今時珍しいな。最近の若い人はメールで愛の告白するなんて話も聞くが、中にはこういう男女もいるわけだ。
「そんな心遣いができるんだから、お相手の女性は素敵なひとなんだろうな」
「はい」
真顔で即答かい! 岡野が考えたことが伝わったのか、妻が吹き出した。
「まあ、だからってそれに合わせる必要はないと思うがね。男なんだし」
むしろ、彼のような男が贈る手紙なら、余計な装飾はない方がいい気がする。よし、大人の男にふさわしい逸品をおじさんが選んでやろう。岡野はレジを離れ、便箋の棚へ向かった。
「これなんかは、すごくいい紙使ってる。インクが滲まないし、ペンの滑りもいい」
海外メーカーのロゴがさりげなく透かしで入っているところもポイントだ。
「いいですね」
「こっちは少し滲むけど、それが味になっていいって言うファンもいる」
「なるほど」
健司は少し考えて、岡野が最初に勧めた便箋と揃いの封筒を選んだ。それから、そのセットを棚からあるだけ出したが、また考えむような顔をした。
「こんなにまとめて買うのはおかしいですよね。文通が早く終わることを望んでいるのに」
「どういうことだい?」
「彼女が会う気になってくれたら、文通は終わるんです」
「うーん」
どういうことだ? 季節感のある便箋を使うくらいだから、彼女の方も多少気があるだろうに。会う気になれないのはなぜだろう。
写真でも入れてやったら、と思いかけて岡野は打ち消した。この見目うるわし過ぎる男の写真が入っていたら、逆に怪しむかもしれない。文通相手本人なのか? と。
「写真送って、どんな顔か見せてあげたら?」
岡野が心で否定した直後に、妻が提案した。まったくのん気な奴だ。
「そしたら一発でOKよ」
「それ、KOって言いたかったのか?」
「ん? まあ、どっちでも同じでしょ」
健司は特に表情を変えることもなく、岡野たちの話を聞いていたが、ぽつりと言った。
「俺も彼女も、お互いの顔は知ってますよ」
「え、そうなの?」
妻は驚いたが、岡野は得心した。そういうことか。たぶん、彼女の方が気後れしてるんだ。
「見込み、ありそうかい?」
彼の返答から、返事がもらえるようになっただけでも相当進展したことが分かった。ただ、彼女が出てこなければ、お友達以上の関係にはなれない。
「あと、どんくらいかかるんだろうな」
言いながら気づいた。健司が棚を空にして手にした便箋と封筒は7セットだ。つまり、今、彼は文通が長引く可能性があると考えていることになる。
「どうでしょう。彼女次第ですね」
いやん、もったいないと後ろで聞こえた。
「あたしだったら」
妻が頬を押えている。お前が赤くなってどうすんだよ。
「ひとまず、一か月分ぐらいにしといたらどうかな」
それくらいで終わるという願いを込めて。
「そうですね」
結局、健司は3セットだけ手にして、後は棚に戻した。
「封筒、12枚入りだよ」
3包で36枚は多すぎるだろう。
「毎日書きますから。これでちょうどいいと思います」
「毎日?」
いやん、うらやましいわあ、とまた妻のコメントが入った。どうも調子が狂う。
「便箋も封筒も、たっぷり余るといいな」
レジに代金を入力しながら岡野が言うと、美形男が苦笑した。お、ちょっとだけ笑ったぞ。
「そうだ、いいこと教えてやるよ」
ちと恥ずかしいが、年寄りの酔狂ってことで。
「俺たちも文通してたんだ。この便箋でかみさん口説いた、ってわけだ」
いわば縁結び実証済みの便箋。だから、きっと彼の恋もうまくいく。
「そうなんですか」
「そうなのよ。立派な便箋に、この人ったら、字だけはきれいなもんだから」
すっかりだまされた、などと言っている。
「何だよ、字だけはって」
「あたし、手紙の雰囲気から絶対、お兄さんみたいな二枚目だって信じてたのに」
こんなタコだとはね、と散々だ。お互い様だろうに。
「うまくいったら、大将にも報告するだろ?」
健司はうなずいた。
「そん時は、ついでにうちにも寄って教えてくれないか」
二組の恋を成立させたなら、縁結びの便箋として宣伝してもいいだろう。
「俺たち夫婦円満だし。なあ?」
「まあね。あたしが我慢してるからやっていけてんだけどね」
ああ、いろいろ台なしだ。岡野が頭を抱えていると、
「分かりました。必ず報告に上がります」
静かに、だが決然とした口調で健司は言った。クリーニング屋の大将が、この男を最初で最後の弟子に認定したわけが分かったような気がした。
「すみません、ずいぶん時間過ぎてましたね」
「いや、いいんだ。ありがとう」
「また来てね。何にも買わなくていいから」
おいおい。気持ちは分かるけどさ。そのセリフは商売人の女房としてどうだろう。
「便箋と封筒以外なら喜んで売るからさ」
岡野が言うと、恋する男はさわやかに微笑み、去って行った。
妻がほわあ、と妙なため息をもらした。
「ねえ、あんた」
「ん?」
「浦辺さん、笑わない弟子だって言ってたのにね」
「ああ、いい顔するじゃねえか」
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