第16章 少女の願い

 世間はもうすぐ仕事納めらしい。父と母がそんな話をしていた。美春の周りを行き交う会社員も、寒さのせいか忙しいせいか、急ぎ足だ。

 冬休み真っ最中の美春は、両親とも仕事で家にいないのと、兄が外出するのを確認し、電車で約1時間かけて、このビジネス街にやってきた。

 美春の向かい側、二車線の道路を挟んだ先にあるのは、観賞魚の飼育機器メーカー・ペトラのビルだ。

 彼女、何階にいるのかな。

 もうすぐお昼時だ。もしかしたらランチを食べるために外に出てくるかもしれない。そして、横断歩道を渡って、美春のすぐそばを通るかもしれない。でめきんに似ている女の人なんて、そうそういないと思うから、会えばすぐに分かるだろう。

 もし会えたら、わたし我慢できるかな。

 美春はマフラーに顎をうずめた。

 行きの電車では、彼女に言いたい数多くのセリフを反芻していた。

“いつまで待たせるつもりなんですか”

“けん兄、真剣なんです。だから会ってあげて”

“寒いし、雪だって降ったりしてるし、いつ事故起こしても不思議ないですよ”

 でも、ここに来てしまったら、その気持ちが萎えてしまった。正確に言うと、ペトラのビルを見たことで、そこで働く彼女の存在が急にリアルに感じられて、気後れしたのだ。

 それに、自分に自信が持てないからって縮こまってるような人だ。いきなり現れた女に――それが女子中学生でも、文句つけられたら絶対びっくりする。しかも、美春が健司の従妹だと分かって、文通まで中止なんてことになったら大変だ。

 だから言えない。祈るしかない。

 美春は再び、ペトラのビルを見上げるとそっと手を合わせ、念じた。

 貴美子さん、けん兄はきっとあなたのこと大事にしてくれます。でめきんフェチだし、お笑いのセンスはまるでないけど、大事と思う人にはすごく優しくしてくれます。料理も掃除もたぶん全部やってくれるから、もし結婚するなら、超お買い得です。

 だからお願いします。けん兄のこと信じて、愛されてるって自信を持って、会ってあげてください。

 美春は、ビルに向かって何度も願った。

 本当はこんなことしてる場合じゃないんだけどな。美春以上に従兄を心配しながら、机に向かった瞬間、受験勉強モードに切り替えられる兄がうらやましい。まあ、わたしはお父さん流でいくから心配ない。絶対受かるもん!

 そうだよ。貴美子さんがけん兄に会ってくれたら、わたしも高校受験に専念できる。だから、そういう意味でもお願いします!

 だんだんお願い事がぐだぐだになってきた。そんなことを考えていたら、

「あの」

 どきりとしながら顔を向けると、若い女の人がそばに立っていた。赤い眼鏡がおしゃれだ。

「わたし、あの会社で働いてるんだけど」

 その女性は、ペトラのビルを指さした。美春がじっと見つめていたのに気づいたのかもしれない。

「ご家族を待っているの?」

 穏やかな問いかけに少しほっとした。

「いえ、違います」

「あなた、お昼前からここにいるよね。大丈夫?」

 今日特別寒いからさ、と女性は美春を気遣うように言ってくれた。美春は内心感謝した。この人が貴美子さんならいいのに。でも赤眼鏡だし、どう見てもでめきんじゃない。

 美春は念のため、尋ねてみることにした。

「金魚の研究も、あそこでやるんですか?」

「そうだよ。ただ、うちでは金魚そのものを研究することはあまりないかな」

 じゃあ、やっぱり彼女はあのビルの中にいるんだ。この人は彼女を知っているだろうか。研究室にいる町田貴美子さんをご存知ですか? 彼女は何階にいますか? 頭の中で女性に尋ねた。

 もちろん、実際は聞けない。この人がもし研究室の人か、その近くで働いていたら大変だから。

 なんだか、完全犯罪でも企んでるような気分になってきた。そう、わたしは、わずかな痕跡だって残しちゃいけないのだ。

「なあに?」

「いえ、何でもないです。ごめんなさい」

 もう気が済んだ。家に帰ろう。美春は女性に頭を下げると、急ぎ足でその場を離れた。

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