第13章 息子に会いたい
ロンドン、17時30分。
姪からのメールを2回読み、それにもう一度目を通すと、山本陽子はデスクの受話器を取り上げた。
はやる気持ちを抑えながら待つ。幸い3コールで相手が出た。
「おい~っす」
こんな応答をするのは、一人しかいない。不肖の弟だ。
「孝志? 私よ、葉子です」
「お、久しぶりだなあ。どした?」
「ちょっと、美春ちゃんに代わってもらえる?」
「美春? 寝てるぞ。たぶん」
「え?」
それは残念。体調でも崩したのだろうか。でも、そうなら父親が“たぶん”というのはおかしい。ともかく、出られないなら仕方がない。
「じゃあ、健太君をお願い」
「健太も寝てると思う。1時間くらい前かな、もうオレ限界、とか言いながら二階に上がってったから」
「そうなの?」
二人ともいったいどうしてしまったのだろう。こんな時間に寝ちゃうなんて。
「姉貴、こっちは夜中の2時半だぞ」
「あ」
しまった。時差のことをまったく考えずに電話してしまった。
「ごめんね。って、あんたはこんな時間に何やってたのよ」
聞きながら、おおかたゲームでもして遊んでいたのだろうと思ったら、その通りの答えが返ってきた。まったく。
「姉貴がそんなに慌てて電話してくるなんて、よっぽどの用件だろうな」
そうだった。受話器を握る手に思わず力が入る。
「この際、あんたでもいいわ。ちょっと聞かせなさいよ」
「“あんたでも”?」
「美春ちゃんからメールもらったんだけど、健司が恋してる、ってほんとなの?」
耳に爆笑が飛び込んできた。
「それ聞くために、電話してきたのか?」
「そうよ。だってあの子が本気の恋って。一大事じゃないの」
再び、笑い声が響いた。あんたのバカ笑いを聞くために国際電話かけたんじゃないわよ。
「美春は、どこまで書いたんだ?」
葉子は目の前のモニターに視線を移した。
そこには、健司が金魚の研究をしている会社員の女性を好きになったこと、彼女がでめきん(でめこ)似であること、好きになったのに失言から嫌われてしまい、本気の告白も信じてもらえなかったのが、最近何とか文通してもらえるところまできた、というようなことが書いてある。
「さすが美春だ。うまくまとめたな」
「そうなんだけど」
よく分からないところもある。
「でめこ、って何なの?」
「あいつが今飼ってる二代目のペットだ。メスのでめきん」
一代目の“でめ太”を息子が溺愛していたのは知っている。その親友の死は、息子が一時、自分を見失った原因の一つでもあった。
「でめきんに似てる、ってどんな女性よ」
「さあな。野郎いわく、世界で一番可愛いらしいぞ」
世界一可愛い? あの息子がそんなセリフを口にするだろうか。
「つうか、そんなの本人に聞けよ」
「聞くわよ。聞くけど、その前に情報収集っていうかさ」
「心の準備、しときたかったんだろ?」
ずばり言い当てられてしまった。
「姉貴もあいつも、お互い遠慮し過ぎなんだよ。ほんとに親子か、っての」
「分かってるわよ」
「電話してみろよ。あいつ、今アホみてえに浮わついてっから、何時間でものろけるぞ」
「それよ。それが、ぴんとこないの」
美春のメールには、別人のようになった、とある。あの息子が笑顔を見せ、鼻歌まで歌った、とも。
「ああ、それな」
おれも聞きたかったあ、と孝志が悔しそうに言った。鼻歌には美春と健太だけが気づいたらしい。
「あいつ、音痴じゃなかったらしいな」
「え、音痴なんて話、初めて聞いたけど?」
「いや、頑なに歌わねえから、ドヘタなんだと思ってた」
孝志はおかしそうに言った。
息子が歌うなんて、別人のような笑顔を見せるなんて。想像できない。できないけど、嬉しい。急に鼻の奥が痛くなった。
「おーい、あーねきー」
「あ、ごめん」
「何だよ、泣いてたのか?」
「だって」
今すぐ日本に戻りたい。そして息子に会いたい。
「ねえ」
「ん?」
「文通してるそうだけど、この先、うまくいくと思う?」
「さあな」
「何よ、それ。あんた神様じゃなかったの?」
「今回は見守り役に徹することにした」
確かに――別に弟が神様だとは微塵も思わないが、孝志の助力で叶う恋など健司は望まないだろう。
「姉貴、5秒待ってくれ。かわるから」
「かわるって、何よ」
「“母さん”」
え?
「“心配しなくていいよ。そのうち彼女に会わせるから”」
「健司――なわけ、ないでしょ!」
「わ、やっぱだめか」
姉貴だけは騙せねえんだよな、と笑っている。
「当たり前じゃないの」
孝志の言う通り、私と息子の間には遠慮がある。二人で暮らしていた時も、感情をぶつけ合ったことはなかった。
それでも。
葉子は何か温かいものを胸に感じながら言った。
「私は、あの子の母親なんだから」
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