第9章 明けない夜はない

 共同研究最終日。出向も共同研究も楽しかったけど、国生研には、辛い思い出もできてしまった。

 結局、あの後も貴美子は頑なな態度を崩さず、健司は失意のあまり、すっかりやつれてしまった。亜紀が必死になって抑えようとしたオーラが今になって半減しているのは皮肉としか言いようがない。それでもゆかりや浩子をうっとりさせるだけの眼力は残っているのだが。

 まさに大失恋。そんなに好きだったんだね。亜紀は健司の心中を思い、自分が振られたかのように泣きたくなった。

 最後に、何か彼にエールを送りたい。

 最近の健司は、時間を作っては愛魚でめこのところにいる。今の彼を癒せるのは、でめこちゃんくらいなんだろうな。

 生体管理室に向かうと、やはり健司は水槽の前に置いたパイプ椅子に腰かけて、でめこを眺めていた。亜紀は傍まで行って呼びかけた。

「山本さん」

「はい」

 返事はあったが、心ここにあらずという感じだ。

「2か月間、お世話になりました。いろいろ勉強させていただきました」

「こちらこそ」

 誰かに言わされているような口調だ。まったく気が入っていない。

 今の彼に、彼女の名前を出すのは傷に塩を塗るようなものかもしれない。でも、そうしないとまともに聞いてくれないよね。心で詫びると、亜紀は切り出した。

「あの。まちさんのことなんですけど」

「え」

 予想通り、こっちが背中を叩いたかのような反応があった。

「ちょっと話していいですか」

「はい。あ、ちょっと待ってもらえるかな」

 健司は立ち上がり、周りを見回した。亜紀が座る椅子を探しているらしい。

「あ、すぐ済みますから。どうぞそのまま聞いてください」

 気兼ねしないように、長身の人を見上げて話すのは大変だからと付け足すと、健司はすいません、と言って座り直した。

「入社して半年くらいだったか、わたし、仕事で大きなミスをしちゃいまして。ファイルを上書きするような、しょうもないミスなんですけど」

 健司は無表情のままうなずいた。

「その時、先輩のまちさんにフォローしてもらって、何とかなったんですが、そのために彼女にも二晩徹夜させちゃいました」

 申し訳なくて、そのミスのことは今でも時々夢にみるほどだ。

「ミスを修正するのに、どれくらい時間がかかるか考えてパニくってるわたしに、まちさん、言ってくれました」

 穏やかな、優しい笑顔で。

「“亜紀ちゃん、明けない夜はないよ”って。その言葉も、ミスの件で一度もわたしを責めなかった彼女の態度も、ずっと心に残ってて。わたし、彼女を先輩として尊敬しています」

 超人は何も言わなかった。でも、ちゃんと聞いてくれているのが分かった。

「わたしの思い違いだったら申し訳ないんですが、今、山本さんはすごく苦しんでるように見えます。出口のない迷路で出られなくなってるみたいな。だから、その時まちさんがわたしに言った言葉を、山本さんに贈らせてください」

 だって、本当は諦めてほしくないから。

「明けない夜はありません。今の苦しみを脱け出して、振り返れる日が必ず来ます。そして、あなたが今望んでいるその願いが叶いますように。陰ながら応援しています」

 亜紀は、一気に吐き出すように言った。

「おじゃましてすみませんでした。失礼します」

 頭を下げると、健司が立ち上がった。

「清水さん」

「はい」

「ありがとう。今の言葉、励みにします」

 どっちかというとわたしは枯れ専だ。でも、この人やっぱりかっこいい。

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