第8章 神様は素直じゃない
“ねえ、あと4日しかないよ!”
寝室の書き物机に置いてある、小さな卓上カレンダーに目をやると、恵子は娘の美春が1時間ほど前に発した言葉を思い返した。
恵子だけでなく、最近、健太も美春もカレンダーを眺めては日付を気にしている。
好きになった人に、その気持ちが悪ふざけだと思われ、嫌われるのはさぞかし辛いだろう。しかもそれが一途な初恋なら。
共同研究が終わるまであと4日。終われば彼女に会えるチャンスは格段に減ってしまう。彼の困難な恋はさらに厳しくなる。
「ねえ、神様」
振り返り、ベッドに寄りかかって絵を描いている夫に声をかけると、夫が顔をこちらに向けた。
「何でしょうか、女神様」
「助けてあげないの? 健司君のこと」
孝志はうなずいた。
「二人の問題だからな。助けようがねえってもあるが」
そもそもあいつに手なんか貸すもんか、とつぶやく。まったくもう。
双子のようによく似ていながら、孝志と健司は意地の張り合いをしているみたいだ。孝志がどこまで本気なのかは、今だに恵子も分からない。
「私は、何とかしてあげたいな」
恵子の言葉に、夫は微笑みだけを返してきた。そうよね。お祈りくらいしか、してあげられることはない。
「私ね、健司君のこと、前より好きになったわ」
「そっか」
孝志がスケッチブックの紙をめくった。絵を描いている時の夫は本当に楽しそうだ。そこに、息子たちがいる時にはあまり見せない真剣な表情が加わるのが、恵子は好きだった。
「まあ、嫌われてしょぼくれてるだけ、マシになったのかもな」
恵子はうなずいた。誰かを好きになったこと、その感情をどう扱っていいか分からずに、身の置き所がないくらい動揺していたこと、彼女に嫌われてげっそりするほど落ち込んでいること、どれも今までの彼にはなかった“人間らしさ”だ。
夫の甥である健司と初めて会ったのは、恵子と孝志が結婚を決めて、それを孝志の姉のところに報告に行った時だ。その時、健司は小学1年生だったと思う。利発そうな顔に少し驚きの色を見せて、“たか兄結婚できるの? 大丈夫なの?”と言って恵子を笑わせたのを覚えている。あの頃、そして健司が金魚を飼い始めた小学3年生くらいまでは、笑顔を見せていたような気がするのだが。恵子が気づいた時には、クールな少年、そして青年になってしまっていた。
“そんなんで、生きてて楽しいかよ”とは、学生時代の健司に、夫が幾度となくぶつけた言葉だが、孝志ほどではないにしても、恵子も時々そんな風に思うことがあった。
それでも、健司が感情表現に乏しいだけで、根は優しい人間だということを恵子は知っている。孝志にはうんざりしたような顔を見せながら、幼い健太や美春の面倒をよく見て可愛がってくれた。いとこ同士の絆もあるだろうが、信頼できる人物だからこそ、健太は健司を大師匠と仰いでいるし、美春などは一時“けん兄のお嫁さんになる”と言うくらい惹かれたのだと思う。
親族の中で、唯一血縁がない恵子と健司の間にはお互い遠慮がある。健司は、叔父の妻として恵子に敬意を払ってくれるが、今までは世間話程度の会話しかしたことがなかった。
「今度、私の昔話、してみようかな」
夫が手を止め、穏やかな表情で見返してきた。
「健司君に伝えたいの。大切な存在に出会えて、愛し愛されたらどれだけ人が変われるか。私はその点で先輩だから」
この恋が叶えば、彼はもっと変われる。幸せになれる。
「それに、貴美子さん、昔の私に似てる気がするし」
「それはおれも思ってた。ネガティブな思い込みで、がっちがちに武装してたとこなんかよく似てる」
「ええ」
貴美子のように見かけを恥じていたわけではない。恵子は自分が“幸せになる資格がない人間だ”という思いに縛られていた。
「あの重装備には、相当手こずったぞ」
「でも、孝志は壊してくれた」
だから今、私はここにいる。笑顔でいられる。
「あいつに、おれ様みたいな真似ができるかな?」
「できるわ。きっと」
そして二人で幸せになってほしい。
「女神様がそこまで言うんなら、ちょっとだけ、瀕死の金魚狂に力を貸してやるか」
孝志がにっこり笑った。私を救ってくれた笑顔だ。いつか健司君もこんな風に笑えますように。
「回復呪文に、守備力アップはサービスしとこう」
「ありがと」
孝志はうなずき、再びスケッチブックに目を移した。すごい勢いで手を動かしていたと思ったら、じきに手を止めて、描き上げた絵を恵子に向けた。
「どう?」
描かれていたのは健司だった。右肩に載せた大きな黒でめきんに微笑みかけている。
「すごく素敵!」
「これ、自画像だからな。髪伸ばして黒くして、地味~に笑ってるおれ様」
そんなわけないじゃない。どうして素直に応援してあげないの。
「うーん、自分の目で見りゃあ、貴美ちゃん描いてやれるのになあ」
残念そうだ。
「じゃあ、そのでめきんは貴美子さんの代わりってこと?」
あまりに屈託なくうなずくので、言ってやることにした。
「私以外の女性にそんな優しい目を向けるのね。自画像の孝志は」
「あ」
神様がしまった、という顔をしている。
「すいませんでした」
素直な神様。笑っていたら、孝志が絵に何か描き足している。恵子は立って、絵を覗きにいった。
「え、どうして?」
さっきまで神々しいほどの雰囲気だったスケッチが、鼻眼鏡と三角帽子でだいなしだ。
「あいつの絵なんか描くんじゃなかった」
やっぱり素直じゃない!
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