第7章 非常事態→計画失敗

「非常事態って、一体何があったんです?」

 金枝教授が所用で研究所を空けていたため、亜紀が報告できたのは、事件から二日後だった。メールで非常事態とだけ知らせておいたら、金枝からすぐに呼び出しがあった。

「何があったのか、真実は分かりませんが、二人の間は今すごく険悪です」

 亜紀はなぜ自分がここまで動揺しているのか、不思議に思いながら言った。

「正確には、貴美子さんが一方的に彼を嫌っています」

 金枝は唸り、一度ゆっくり目を閉じると、亜紀に向かって言った。

「ひとまず、清水さんが知り得た情報を、話してもらえますか」

「はい」

 亜紀は一昨日の“事件”について金枝に語った。

 その日の終業間際、資料を返却しに行ったはずの貴美子が、なかなか戻ってこない。心配になった亜紀が様子を見に行くと、資料室の灯りは消えているのに、扉が開きっ放しになっていた。

 気になって、中に入ってみると、

「山本さんが床に両手と両膝をついて座り込んでいたんです。陽が落ちて暗くなった部屋で」

 亜紀は照明を付けると、健司の傍に駆け寄った。

「彼に声をかけたんですが、呆然とした顔で私の声は耳に入っていないみたいでした。ただ一言 “俺、何かまずいこと言ったか?”とつぶやくのが聞こえました」

 亜紀が貴美子の所在を尋ねると、健司は我に返ったようで、顔を上げた。

「どこへ行ったか分からないと言うので、資料室を出て貴美子さんを探しました」

 探しているうちに、化粧室から貴美子が出てくるのが見えた。声をかけて近づくと、貴美子の目は、眼鏡ごしにも真っ赤になっているのが分かった。

“大丈夫ですか? 何があったんです?”

“亜紀ちゃん”

 貴美子は震えていた。亜紀がたじろぐほどの怒りを顔に浮かべながら。

“話せないの。話したくない”

 それが、亜紀が知っているすべてだ。

「次の日からが、もう大変で」

 貴美子はあからさまに健司を避けるようになった。業務上のやむを得ない場合を除いて健司の周囲3メートル以内には近づかないし、健司の挨拶には会釈を返すことすらなくなった。健司は健司で魂が抜けたようになり、所内の案内表示や非常口の誘導灯、あちこちに長身の頭をぶつけながら歩いている。

「小数点以下のゼロが一気に増えてしまったわけですね」

 金枝がキノコ頭を振って、ため息をついた。

「彼、一体何をやらかしたんでしょうか」

 貴美子が国生研での研究を続けていることから、どこかへ訴え出る類のものではないと判断できる。それに、資料室で打ちひしがれていた健司の様子では、彼には悪気がなかったのだろう。

 そして“俺何かまずいこと言ったか?”のセリフは、彼が口にした思いもよらない言葉が、引き金になった可能性が高いことを示している。

「たぶん、厳禁ワード言っちゃったんでしょう。それが貴美子さんの逆鱗に触れたのではないかと」

「例えば、でめきんそっくりで可愛い、といったような?」

「ええ。山本さんの方は彼女を傷つけるつもりなんてなかったでしょうけど」

 金枝はうなずき、頭を掻いた。

「僕としたことが、痛恨のミスです。でめきんと呼ばれて喜ぶ女性はいないと、彼に初めに伝えておくべきでした」

「いえ」

 引き金になったのは、厳禁ワードかもしれないが、たぶん亜紀や金枝が同じセリフを言っても、貴美子がここまで激怒することはないと思う。

 彼だから、長身美形のキラキラ超人の言葉だから、彼女のコンプレックスを必要以上に刺激したのだ。

「実に残念なことです」

「ええ、本当に」

 キノコ頭に倣って亜紀がうつむくと、金枝がため息まじりに言った。

「貴美子嬢の能力や人柄に惹かれる男は、もしかしたら彼以外にいるかもしれません。でも、見かけまで含めて心酔する男が現れたというのは、内気な彼女にとってチャンスだと思ったんですよ」

「わたしもです」

 だから、お節介を承知で金枝教授に協力したのだ。

「教授、D計画はもう無理なんでしょうか。彼もわたしたちも、この恋を諦めるしかないんでしょうか」

「悔しいですが、貴美子嬢の怒りが収まらないことにはねえ」

 金枝はどこか遠くを見て言った後、亜紀に向き直って微笑んだ。哀しい微笑みだ。

「清水さん、あなたのご尽力に感謝します。本当にありがとう」

「いえ。結局何にもできませんでした」

 すごく空しい。

 怒りに包まれたまま、仕事に没頭するまちさんを見ているのは辛い。でも、生きる希望をなくしたようになっている超人も気の毒だ。

 彼の同僚が言っていたように、今までに関係を持った女性を一人も覚えていない、というのが本当なら、もしかしたらまちさんは、彼が初めてまともに好きになった女性なのかもしれない。

 でめきん博士の初恋、叶えてほしかったな。

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